犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その19

2013-07-29 23:10:34 | 国家・政治・刑罰

 私はこの仕事に就く前、裁判や弁護士が登場するテレビドラマが大好きだった。しかし、今ではほとんど楽しめなくなり、途中で見るのをやめることが増えた。所詮は作り物であるという寛容な心持ちよりも、現実離れして迫真性に欠けることのイライラが遥かに上回り、自分の仕事に支障が生じる恐れさえ出てきたからである。

 社会派のドラマは根本が真面目であり、強いメッセージ性を有している。そして、私が鼻に付くと感じたのは、この押し付けがましい正義であった。現実の紛争は利害が複雑に絡み合っており、その真ん中で神経を磨耗させているとき、明快なメッセージを発する余裕などない。また、ほんの数時間で結論が出るはずもない。

 私が法律のドラマに望んでいたことは、私自身が全身で感じているような徒労感や脱力感を正確に描写してもらうことであった。しかし、これはドラマにならない。生産性がなく無意味だからである。制作者が視聴者に対して何らかの問題提起をし、あるべき理想を示すものだとすれば、機械的な現実はドラマとして取り上げられないのが道理である。

 仕事に際して生じる出口のない苦悩は、「人はなぜ働くのか」「私は何のために何をしているのか」という問いに至る。ここにおいて、テレビドラマの中の登場人物の仕事は、あくまで俳優やタレントである。バラエティやコマーシャル、別のドラマに出ずっぱりの俳優に突然「弁護士です」と言われても、私にはどうしても弁護士に見えない。

(フィクションです。続きます。)