犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その18

2013-07-24 22:51:21 | 国家・政治・刑罰

 被害者遺族が遺族と呼ばれるとき、そこには1種類の遺族しか存在しない。「B型の遺族」も「AB型の遺族」も存在せず、「○○県民の遺族」も存在することがない。血液型は千差万別の人間をたった4種類に分けるものであるが、遺族は4つにも分けられずにおり、強制的に型にはめられる。47の県民性ランキングも、被害者遺族の前では実に虚しい。

 この1種類の被害者遺族は、必ず加害者を恨み、激しく憎むことになっている。そして、この厳罰感情は法治国家の理性を歪め、社会を滅茶苦茶にすることになっている。他方では、「遺族の方々の気持ちを考えろ」と持ち上げられる。この議論の土俵は、東でなければ必ず西であり、北東も南西もない。二元論は抽象的になればなるほど、現実の混沌や複雑性から遠ざかって行く。

 ある時、私は虚を突かれて呆然とした。最愛の者を事故で亡くした遺族が、後日車を運転中に自らが事故を起こし、人を死に至らしめた場合の混沌に触れたときである。また、事故を起こして人を死なせた加害者が、後日最愛の者を事故で亡くして遺族となった場合も同様である。これは単に確率論の問題ではなく、研究者の知的遊戯でもない。人生の存在形式そのものである。

 法律論は、本来肩書きに過ぎない「遺族」を人間の属性とする。他方で、弁護士は抽象的思考を離れれば、他の弁護士が乗っている高級車の買い替えを気にし、他の事務所の評判や経営状態を探り合う。同業者の葬儀に出れば、参列者の数や供花の名札を観察し、死者の一生を値踏みする。この延長線上において、遺族の厳罰感情が単純に激烈なのは当然のこととなる。

(フィクションです。続きます。)