犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

笹澤豊著 『自分の頭で考える倫理』

2011-02-24 23:04:59 | 読書感想文
p.36~
 フランス革命は、自由・平等という初発の理念をかかげながらも、その後、この理念からはほど遠い惨憺たる状況におちいり、たちまち破綻をあらわにした。フィヒテが解釈したように、フランス革命がカント的道徳国家を樹立する企てだったとしたら、この革命の陰惨な成り行きは、カント的道徳国家がしょせんは生身の人間の住めない代物だということを、如実に実証したことになる。

p.76~
 人―間の敵対関係は、人の間にさまざまな悲惨をもたらす。カントは法を、人間がそういう悲惨から抜け出すために、(理性によって)案出した保安の装置だと考えた。法が衝動や欲望を抑制し、秩序維持の要として機能する社会は、この理性主義者にとっては、おおいに歓迎すべきものだった。法の支配は<理性の世界支配>という目標に社会が近づく跳躍台としての意味を持つ、とカントは考えていた。
 しかし、我々にとってはどうなのか。法という統御装置によって、たしかに我々の身の安全は保障される。それはそれで歓迎すべきことだろう。だが、問題は、この理性の装置によって抑圧された衝動や情念が、どこに向かうかである。

p.87~
 ヘーゲルは、親密な人々の結合によって成り立つような共同体を、共同の理想の姿と考え、そういう共同体の形成原理を探求することに思索をかたむけていた。ところが「権利」の思想は、そういう共同体の形成をおよそ不可能にするような、バラバラの状態へと人々をおちいらせてしまう。
 「権利」の思想は、人々をバラバラの分散状態におくとともに、このバラバラの個人を統合しようとする結果、必然的に、抑圧的な「強制のシステム」をつくりだす、というわけだが、思うに、そういう社会のあり方、つまりヘーゲルがユダヤ民族に仮託して抽出しようとした彼の時代の現実は、また、現代という我々の時代の姿でもあるのではないだろうか。
 法治国家の国民でもある我々は、国民の諸権利を保障する法の保護のもとで生活している。「法の保護のもとで」ということは、裏を返せば、「法の支配下で」ということだ。この法が我々の衝動や欲望を抑制し、情念を抑圧する面を持つことについてはすでに述べたが、我々を支配するこの法は、また、人と人との関係を切断して、個々人をバラバラの分散状態におき入れる装置でもある。

p.181~
 私は、ニーチェの洞察は、民主主義の出生の秘密を明るみに出した点で、大きな意味を持っていると考えている。<力への意志>をいだき、少数の強者を支配下におこうと考える多数派の人々は、結束することでその目的を達成する。そこで彼らは、彼らの共同体の結束を強固なものにしようとして、「権利の平等」という約定を、神聖なものとして祭りあげ、やがてそれを絶対視するようになるだろう、と私は述べた。
 問題は、この「権利の平等」の約定だが、そこには「力によって他人を支配しようとすることは、断じて許されない行為だ」という含意がこめられている。つまりこの約定は、<力への意志>そのものの否定を、暗黙の理念としてかかげているのである。その約定が、(多数者の)<力への意志>に出自を持つ、などということは、彼らからすれば、あってはならないことなのだ。


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 10年以上前の本です。カント、ヘーゲル、ニーチェについて語りながら、女子高生の援助交際について色々と論じています。その当時、援助交際はマスコミに大きく取り上げられて社会問題となっており、道徳・倫理のアカデミズムにおいても捨て置けない事態であったことがわかります。援助交際が悪いというならばなぜ悪いのか、「個人の自由である」「特に誰も迷惑をかけていない」「買う大人がいるから悪い」という理屈のどこがどう問題なのか、笹澤氏が自問自答して苦しんでいる過程が看て取れます。

 援助交際の何がどう悪いのかという結論が出ないまま、その当時の女子高生は現在30歳前後になっています。幼児虐待、DV、モンスターペアレントといった現代の病理現象と、当時の援助交際の問題がどうつながるのか、私にはよくわかりません。つなげて考えたところで、「あの時に手を打たなかったのが間違いだった」「もう手遅れだ」という結論に至るのがオチだと思います。ただ、アカデミズムの世界では、15年前の理論が通用するか否かを論じる際に、人間はその間に15歳年をとっていることを計算に入れず、論点相互間の動的な把握が難しいことは確かだと思います。