犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

西村賢太著 『苦役列車』より

2011-02-20 22:21:52 | 読書感想文
p.144~

 堀木克三の、昭和41年時にすでに業績も存在も忘れ去られた状況の中で、自らあのようなものを刊行した或る意味不屈の姿勢には、本来敬意を表するべきであろう。
 しかし、これには一方で何んとも云いようのない嫌悪感も、同時に湧き上がってきてしまう。その種の妄念に、耐え難い惨めさを感じてならないのだ。

 と、彼は忽然、これに自らのそう遠からぬ将来の姿を見た思いにとらわれてくる。
 彼もまた、このままおめおめと生き永らえたならば、老いて収入も乏しい独り身を安アパートの一室で持て余し、その果てに最早彼には一切の需要がなくなって久しい一つ覚えの私小説なぞ、最後の意地で自刊しかねぬところがある。無論その内容たるやは、永いブランクの影響もあり、今に輪をかけて読むに耐えぬ、いかにも中卒の作文レベルのものである。そして根がどこまでもスタイリストにできてる分、経歴欄もかの堀木以上にそっけなく、過去の仕事については一切触れぬ上で、“まだ見ぬ読者へ”と云った痛いあとがきを自身の“絶筆”と称し、付してしまいかねないところがある。


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 天下国家を論じる者にとっては、私小説など無益で取るに足らない存在だと思います。「老いて収入も乏しい独り身を安アパートの一室で持て余し」という状態は、国民全体で取り組むべき無縁社会の問題でなければならず、国民一人一人が自分の問題として議論して解決策を探らなければならないのであって、その前に本人に自虐的に語られてしまっては腰砕けだからです。プロレタリア文学が個人主義的文学を凌駕した歴史もあります。

 「明るい、暗い」という世間的な二項対立で捉えれば、この小説は、完全に「暗い」のほうに分類されるはずです。他方で、現代社会の人々が老後の孤独死への漠然とした恐れに煽り立てられ、かつ目先の出来事に一喜一憂している矛盾によって明るさを保ち、かつ暗さから逃れられないでいるとすれば、この小説は「明るい」のほうに分類されるべきものと思います。経済問題の多くは、西村氏が正確に指摘するような嫌悪感、妄念、耐え難い惨めさを含んでいるからです。