犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

市橋達也著 『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』

2011-02-05 00:15:18 | 読書感想文
 中身は読んでいない(読みたくもない)ので、Amazonのカスタマーレビューからの想像による感想です。

 市橋被告の波乱万丈の逃走劇は、追い詰められた人間の生の姿をそのまま示しており、見る者にある種の興奮を生じさせるものだと思います。人は平凡な日常生活を離れ、全国に指名手配された状況下で逃亡を続けることにより、その瞬間瞬間において、自らの生の実感を最も強く感じることができるのだとも思います。しかしながら、その生の実感は、「自分が奪った命の重さに押し潰される」という慙愧の念とは正反対に位置するものです。劇的な逃走の興奮のそもそもの原因に死が存在する限り、最後の部分は虚脱感に覆い尽くされなければならないはずです。
 市橋被告は、「自首できない弱さから逃走せざるを得なかった」と書いているようですが、これは結果論による自己欺瞞だと感じます。反省と謝罪の念に苛まれ、内心の葛藤に苦しんでいるならば、自首したほうが比較にならないほど楽なはずだからです。

 人間とは、ここまで苦しい思いをしても、しかるべき罰を受けたくない生き物なのか。人間という生き物は、このような厳しい生活に耐えてまでも、自らが犯したことに対する償いをしたくないものなのか。市橋被告が示した執念深さやしぶとさは、人間のある種の真実の姿を非常にわかりやすく示していると感じます。
 実際のところ、人として生まれた者が他の人を殺すという究極の経験ができたのであれば、他のどんなことも簡単にできるはずです。市橋被告がこの種の手記を発表するのであれば、それは「罰を受けたくない」「償いなどしたくない」という逃走の正当性を世に問う形でしか存在し得ないと思います。本来、人間の表現活動は、それを表現せざるを得ないという結論が先に立っているはずだからです。

 事件の日から逮捕までの2年7ヶ月間の空白は、市橋被告にとってのそれと、殺された側のそれとは意味が全く異なります。市橋被告の言うところの空白は、警察に追われた自分自身が不在の状況を鳥瞰した図式であり、巨大なスペクタクルです。他方、殺された側の空白は、生きて存在しているはずの人間の不在であり、その存在の空白に応じて、他者において場所を占めていた部分に生じる空白のことです。
 殺された側の空白は、死者が戻らない限り埋まるものではありませんが、それを埋めようとする人間の極限の心理は、「一刻も早く自首してほしい」という希望に至らざるを得ないものと思います。また、逃亡中の犯人の心情は、内心の葛藤の連続であってもらわなければ救われないと思います。そうでなければ、殺された者の命があまりに惨めだからです。しかしながら、このような極限的な心理は容易に共感できるものではなく、結局はドラマチックな逃走劇の面白さへの興味が場を占めるのも通常のことのようです。

 市橋被告は本の中で、印税を得てもそれを受け取る気持ちはなく、リンゼイさんの家族に受け取ってもらいたいと述べているようです。もし、このような申し出が正当に成立するのであれば、それは「奪った命の重さに押し潰される」という内心の苦悩の過程を丹念に追い求めたものでなければならならず、それ以外であれば、印税を稼いでも遺族には1円も渡さないという態度をとるのが筋のはずです。このような偽善性の上に金銭の授受がなされれば、悪貨が良貨を駆逐するという事態が生じざるを得ないと思います。
 市橋被告の裁判はこれから始まるところですが、公訴事実を認めている以上、法廷では謝罪の言葉を述べ、反省と謝罪の念を示すことになると予想されます。しかしながら、長期間の逃走において見せた執念に照らしてみれば、このような姿勢は筋を曲げていることになります。すなわち、多くの刑事裁判においてそうであるように、反省の弁を述べる者の心の奥底に反省の念はなく、保身に向けられた反省の弁が述べられることになるものと思います。