犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

読売新聞連載「死刑」 第2部・かえらぬ命・(10)より

2008-12-26 23:53:05 | 国家・政治・刑罰
12月21日朝刊より

1975年8月。マレーシアの米国大使館などを占拠し、50人以上を人質にとった日本赤軍の要求を受け入れ、日本政府は過激派5人を超法規的措置で出国させた。そのニュースを、28歳だった松田将希さんは複雑な思いで見つめた。松田さんは、この1年前に東京・丸の内で起きた三菱重工ビル爆破事件で、妹のとし子さん(当時23歳)を失っていた。出国した中に、犯人グループの佐々木規夫被告(同26歳)も含まれていた。「妹の無念を思うと悔しかった。でも、死んでしまった人より、人質になった人の命が大切だから」。松田さんはそう自分に言い聞かせた。

死者8人、負傷者165人を出した三菱重工ビル爆破を含む連続企業爆破事件で、中心的な役割を果たした大道寺雅司(60)、益永利明(60)両死刑囚は、87年4月、最高裁で死刑が確定した。しかし、それから21年たった今も、刑は執行されていない。「共犯者が国外に逃亡していることが、執行できない理由の一つ」と法務省関係者は明かす。

76年3月、北海道庁の1階ロビーで消火器爆弾が爆発し、道職員2人が死亡、95人が重軽傷を負った道庁爆破事件。逮捕された大森勝久死刑囚(59)は、公判で一貫して無罪を主張し、94年9月に最高裁で死刑が確定した後も、14年以上にわたり再審請求を続ける。先月、支援者を通じ、取材に答えた。「国家は私の死刑執行はできないと思う。普段、執行について意識することは、まったくと言ってよいほどない」

事件で難聴になった元道職員の内山武三さん(69)は、重い障害を負った職場の仲間がこの32年間、次々に亡くなるのを見てきた。99年に67歳で死亡した同僚の岡田清高さんは、爆発で右足を失い、大量の輸血による肝炎が死期を早めた。残された妻は「(死刑執行まで)長すぎる。どうしようもないことと分かってはいるけれど……」とつぶやいた。「事件が風化し、知らない世代からは『死刑囚もかわいそうだ』という声があがるかもしれない。人の命を奪う刑だからこそ、執行に慎重になるのは理解できるが、このままでは被害者だけが苦しむことになる」。内山さんがため息をついた。


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裁判が長引き、死刑執行が長引けば、その分だけ被害者よりも死刑囚が有利になる。これは、殺された者は死の瞬間において時間性を失い、遺された者の間では死の瞬間から刻一刻と時間が経過しているのに対し、殺した者の生命はその間にも刻一刻と積み重なっているからである。すなわち、人間が生まれてから死ぬまでの間の逃れられない「時間」の性質によるものである。これを特定の誰かのせいにすることはできない。「死刑は人の命を奪う刑だからこそ慎重に議論しなければならない」、これはすぐに気づかれる当為命題である。これに対し、「死刑は人の命を奪う刑だからこそ、慎重に議論をすればするほど執行しにくくなる」、この事実命題は見落とされがちである。ここにおける議論とは、死刑賛成論と反対論が公平の位置にあることを前提としているが、実際のところは公平ではない。人間の時間性の構造は、初めから殺人犯や死刑廃止論に有利なようにできている。

人間が「時間」というものから逃れられるのは、生まれる前と死んだ後のみである。従って、死刑囚は、死刑判決を受けた後も生の時間を積み重ねることにより、時間を味方につける。これに対し、殺された被害者は、生の時間を積み重ねられないことにより、時間から見放される。死刑を望む遺族が戦わなければならない相手は、一次的には死刑囚や司法・行政であるが、究極の相手は非人称の「時間」である。それが、人間が時間の中にしか生きられないということであり、すなわち人が生きるということである。刻一刻と時間が経過すればするほど、過去の殺人事件の瞬間は刻一刻と遠ざかり、殺人事件の償いとしての意味は薄くなる。それどころか、過去の殺人事件を知らない者にとっては、その事件と死刑の連関そのものがない。死刑が人為的に人を殺す刑である以上、その死刑囚が生きている時間が長くなるほど、その殺人者であるところの死刑囚は絶対的に有利となる。ここで、人道支援という命題を持ち出すならば、「殺せ」よりも「生かせ」という方向に流れるのは必定である。かくして、死刑囚の支援者には被害者遺族など眼中にないという状態が出現するようになる。

未来とは、特定の一点のことではない。いかなる未来も、いずれは現在となり、過去となる。その意味では、すべての瞬間は過去かつ現在かつ未来であり、従って過去も現在も未来もない。最愛の家族を失い、その日から時間が止まっているならば、それは比喩ではなく実際に時間が止まっている。出来事の風化は物理的現象ではなく、人間の心の有り様である。「死刑制度について議論を深めるべきである」といった主張は多いが、このような方法によって実際に議論が深まることは少ない。死刑は、愛する人が殺されたという第一報を聞いた瞬間において、その償いとして生命刑の意味が最も正確に捉えられる。これは、「信じられない」「許せない」「犯人を殺してやりたい」「怖かっただろう」「痛かっただろう」「やりきれない」との感情を持つ者がほとんどであり、反射的に「犯人を赦したい」との感情を持つ者はまず存在しないという現実において端的に表れている。そして、事件の瞬間から時間が経過すればするほど、「犯人を死刑にしたところで問題が根本的に解決するのか」「遺族はいつになったら立ち直れるのか」「いつまでも恨み続けていては不幸なのではないか」といった後知恵の問いが力を増してくる。これは、殺人者の生が被害者の死を侵略する過程であり、人間が自らの時間性を見失う過程でもある。

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