犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

曽野綾子著 『残照に立つ』

2010-01-30 00:08:05 | 読書感想文
p.296~ 外尾登志美氏の解説

 曽野文学には、「人間は卑小であり、人生は惨憺たるものである。それを知って絶望するところから出発して初めて人間にしか出来ない生き方をもまたなし得る」という思想があるが、文子(主人公)は、<私はこの世に夢などというものは無いのだということだけわかって、一日一日を積み重ねて生きて来たのです>などと言っており、世の中は無残なものであることを、そしてそういう状態の中で人間は生きていくしかないことを、身をもって知っている人間である。

 そして、皆やはり世間が怖く、他人の評判も気になり、内心はそうなのを隠してるんじゃなくて、本心から常識的で無難なことを望んでるということ、皆嘘でもいいから楽な方がよいのだということ、普通は裏ばっかりで表がないのだということ、つまらない生き方をした人ばかりなのだということを、恵まれた境遇に生きてきた幹子に教えている。人間を、人の世を、知り尽くしているような文子から見ると、幹子は、しかし<何より初心と曇りのない眼を持った人>なのである。

 人間は、人間として、生命を賭けて、向かうべきものに向かいたい。そして道の半ばに思いを残して死を迎えねばならなくなっても、闘い尽くし燃焼したという実感を持ててこそ、人生を濃厚に味わったことになるだろう。結果はどうでもいい。「人間がどれほどのことをしても、いつかはその存在は時の流れに自然に埋没し、後をもとどめず、ただけんらんたる山野だけが残る」のである。「後は野となれ、山となれ」は作者の好きな言葉であった。

 曽野文学を観念的だという人がいるが、この作品の中で、文子が「世の中のことは総て主観がものを言うのではありませんでしょうか」といっているように、私たちは主観で見、考え、生きているに他ならない。曽野文学において観念は極めて日常的レベルにおいてつきつめられ、その日常の分析も永遠なものにつき抜けている。この作品もまた、私たちの生の姿の本質を死というパラドックスによって映し出し、そこから永遠に向かって歩むべき方向をも暗示している。


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 ここのところ、「いつまでも悲しんでいては亡くなった人が浮かばれない」という言葉に妙に引っかかります。この言葉が立ち直りの契機となり、新たな人生の出発に向かう人もいるでしょうが、そのことと亡くなった人が浮かばれることとの連関はないと思います。
 それよりも、この言葉に直感的な違和感を覚え、内心を土足で踏みつけられたように感じられる人の言葉にならない言葉が、「浮かばれる」という言葉の意味に正面から切り込んでいるとの印象を受けます。人が極限の苦悩に直面したとき、そこで求めるものは富や名声(世間的には最も重視されている価値)ではなく、真実の言葉であるとすれば、真実とは感じられない言葉をできるだけ多く切り捨てることにより、残った言葉において真実が浮かび上がるのだと思います。
 また、ある言葉が腑に落ちるか落ちないか、心地よく感じるか感じないかは瞬間的な反応であり、理屈をつけて後から他人を説得すること自体が、人間存在のあり方において転倒しているのだとも感じます。これは、人が価値相対主義と価値絶対主義のパラドックスを抽象的に論じられる余裕があるのは、その人が極限の苦悩に直面していない場合であるという実態において象徴的だと思います。

 「死者が浮かばれる・浮かばれない」という表現は、それが生成された過程においては、非常に深い含蓄が込められていたものと想像します。「浮かぶ」という単語が、「慰められる」「報われる」という意味で使用される際には、必ず可能の助動詞を伴っており、「死者が浮かぶ・浮かばない」という表現は存在しないからです。
 ここには、死者を主語としていながら、実際に死者を浮かばせるのも浮かばせないのも生きている側の選択であり、しかもそのことを明言せずに個々人の理解に任せているような感覚があります。この点は、上の解説で外尾登志美氏が述べているように、生の姿の本質が死というパラドックスによって映し出される過程を経なければ、理解が困難なのだと思います。このパラドックスを経なければ、死者が最も浮かばれるためには、誰もその死を悲しむ人がいない孤独死が望ましいという結論が否定できなくなるからです。
 「浮かばれる」という表現とともに死者が主語である限り、悲しみとは残された人の悲しみではなく、死者の生きられなかった未来を意味するしかないのだとも感じます。そうだとすれば、やはり残された人が立ち直るか否かの問題と、死者が浮かばれるか否かの問題には関連がないと思います。