犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

昨年の交通事故死 5000人を割る

2010-01-07 00:09:24 | 時間・生死・人生
 1月3日の新聞に、昨年(平成21年)の交通事故による死者は4914人に止まり、57年ぶりに4000人台にまで減ったという記事がありました。ピークの昭和45年の交通事故死者は16765人であったことを考えると、非常に良かったと思います。しかしながら、この「良かった」という安堵には、同時に暗い影が伴っているのを感じます。
 もちろん、交通事故による死者が毎年全く減らないというのでは、これまで亡くなった方々が浮かばれません。それでは、交通事故死が減ったのであれば、これまで亡くなった方々が浮かばれるかと言うと、この答えも「NO」だと思います。ここで「YES」と言ってしまえば、失われた命は戻らないという現実の力が、「尊い犠牲」という美名を伴った暴力に姿を変えるからです。ここでは、「逆もまた真」ではありません。

 「1人の死は悲劇だが、1万人の死は統計である」という言い回しがあります。上記の新聞記事は、死者数の減少は9年連続であり、昨年の死者数は昭和28年のレベルであり、ピーク時の29%であることを伝えていました。まるで現在の株価のような右肩下がりのグラフもついて、死者数の推移は一目瞭然となっています。これは確信犯的な「統計としての死」です。
 不慮の事故で突然命を落とす側にとっては、4000人のうちの1人であるか、16000人のうちの1人であるかといった違いは、屁みたいなものだと思います。死者が4000人台に止まったことが喜ばしいニュースであると単純に言ってしまえば、その中の1人1人の犠牲者は、必然的に喜ばしいニュースをもたらした立役者の地位に置かれます。これほど迷惑な話もありません。

 交通事故被害者の遺族の方が、「このような悲しい思いをする人が1人でもいなくなってほしい」と述べたのであれば、論理的には、16000人の死者が4000人になったわけですから、両手を挙げて喜ばなければなりません。そして、これが素直に喜べないのというのであれば、「本当は世界中の人々に同じ思いを味わわせてやりたいのではないか」という揚げ足取りも可能となります。政治的な賛成・反対論は、いつの間にかこの種の暴力に鈍感になるようです。
 上記の記事には、死者数の減少には飲酒運転の厳罰化も奏効したと書かれていましたが、ここは厳罰化の賛否両論のイデオロギーが非常に盛り上がる問題です。例によって、死者数の増減と立法政策の因果関係が社会科学的に分析され、人の死はますます統計化されるのが通例です。遺された者が交通事故死者の減少を単純に喜べない苦悩に対して、「憎しみと恨みからの解放による救済」を求める気楽さは、この辺から生じるようにも思います。