犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

高見沢潤子著 『兄 小林秀雄との対話 ― 人生について』

2010-01-19 00:57:11 | 読書感想文
p.185~

 兄は、自分の仕事に生命をかけている。仕事に対するその真剣さに、わたしはいつも頭のさがる思いがする。その仕事は、ただおもしろくて、たのしいものではけっしてない。兄は、苦しんで苦しんで仕事をしている。だから、なかなか原稿が書けない。今は、ほかの仕事を全部ことわって、何年か前から本居宣長だけを書いている。このごろも、いろいろ資料をあつめては、読み、研究して、原稿を書いているので、2ヵ月に20枚しか書けないそうである。

 義姉は、兄の苦しみに胸も痛む思いを口にする。けれども兄はこの大きな苦しみと戦って、仕事をしたいのである。兄が文化勲章をもらったときには、連日、報道関係の人たちや来訪者たちの応対で、しばらくは仕事がぜんぜんできなかった。仕事をしようとすると、祝い客や電話で、気持ちを切断される。それがいちばん困ったそうである。

 仕事に精神を集中して、じいっと考えていると、兄の頭には、音楽がきこえてくるのだという。その音楽をまたきいているうちに、そこから、書こうとすることばなり、表現なり構想なりが、出てきそうになる。なんとかなりそうだ――そういう時に雑音がはいると、それはぷつりときれてしまう。あとでまた仕事にとりかかろうとする時には、なんにもなくなっている。兄はまたいちばんはじめからやりなおさなければならないのである。


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 「音楽が聞こえてくる」「ぷつりと切れてしまう」といった表現は、非常に的を射ていて、形而上と形而下の接触の常態を示しているように感じます。小林秀雄の文化勲章受章と比べるのは誠におこがましいですが、私も最近、仕事上でそのように感じることが多くあります。
 法律相談に訪れる方々の中には、様々な人生の苦悩が言葉にならないのを、途切れ途切れに何とか言葉にして、口ではなく全身で語る方が多くいらっしゃいます。私はそれを正式な書面にするのですが、記憶が鮮やかなうちに、自分が書いたメモを見返しながら苦しんでいると、「表現なり構想なりが、出てきそうになる。なんとかなりそうだ――」という域に達する瞬間があります。

 しかし、そのような時に限って、なぜか無関係な電話がかかってきます。特に多いのが、貸金業者からの分割払いの計画案の催促や、過払い金の値切り交渉の電話です。この交渉では、自分の弁舌次第で何十万円ものお金が動くこともあり、経済効率から見れば「人生の苦悩の代弁」よりも遥かに重要な仕事です。そして、電話を切った後は、中断した仕事はそこから再開するのではなく、一番初めからやり直しとなります。
 この世の中の仕事というのはそういうものだ、自分の世界に入って書類を書きたいなど甘えるんじゃない、同時並行で効率的に仕事を処理する能力が求められるのだと言われれば、私には反論する言葉もありません。法律家の書く書面には、人間の息づかいなど求めるのが筋違いなのでしょうが、やはり心中複雑です。