犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ラース・スヴェンセン著 『退屈の小さな哲学』

2010-01-06 23:48:32 | 読書感想文
p.205~

 歴史的な視点で見ると、孤独は神や知的な熟考、反省に導くものがあるという意味で、肯定的に捉えられていた。しかし現在は孤独を肯定的に見る人は少ない。オード・マルクヴァルドが言うように、人間はかなりな程度「孤独の能力」を失ったからだろうか。
 孤独の代わりにあらわれたのが、すべてを自分に引き戻す傾向で、この自己中心主義は僕たちを他人の視線依存症にしている。僕たちは自己を主張するために視野をいっぱいに埋めようとしている。

 自己中心主義には自分自身のための時間などいっさいない。他人に自分自身がどう映るかだけである。消え入りそうな自分自身との関係には決して平和が見いだせず、自分の外部をこれでもかというほど膨らませなければならない。しかし、この巨大化した自己との関係はますます難しくなる。
 これはかなり逆説的だが、自己中心主義者のほうが孤独を受け入れる者より孤独になる。なぜなら、孤独な人は他人の場所を見つけられるのに対し、自己中心主義者のまわりは鏡だけだからである。自己中心主義者は「自分でいるのは難しい」と考えずにはいられないのに対し、孤独な人は、誰かでいることは決して簡単ではないとすぐに気づくということだろうか。


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 世間的な評価において、「孤独」の対立軸として置かれているのは、「友達が多い」「社交的」「同性にも異性にも人気がある」「交友関係が広い」といった賛辞の数々だと思います。そして、この圧倒的な構造の内部に入ってしまえば、「友達が少ない」と自認する人は心がざわつくばかりで、出口を見つけることは難しいはずです。
 ラース・スヴェンセン氏が、孤独の代わりに現れたものとして「すべてを自分に引き戻す傾向」を置き、その先に「他人の視線依存症」を置いているのは、微妙に対立軸をずらすことによる鋭い洞察だと思います。

 昨年末の紅白歌合戦で、アンジェラ・アキさんが「負けないで泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じ歩けばいいの」と歌っており、そのすぐ後に和田アキ子さんが「孤独よりやすらぎが嬉しいことを 今ならば希望に満ちて語れそうです」と歌っており、妙に引っかかるところがありました。
 自分が消えてしまいそうになるのも、孤独よりやすらぎが嬉しいのも、他人の中の自分の像に依存しているのだとすれば、両者の歌詞は矛盾しており、かつ同じことを言っているのだと思います。もちろん、視聴率が上がった下がったで楽しく騒いでいれば、こんな矛盾は全く気にならないはずです。そして、NHKの関係者でもないのに視聴率が気になるのは、他人の視線依存症の表れだと思います。