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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

マツダ本社工場 社員12人死傷事件

2010-06-28 00:32:08 | 時間・生死・人生
 6月22日にマツダ本社工場に乗用車で突入した引寺利明容疑者(42)は、取り調べに素直に応じ、「大変なことをしてしまった」と供述しているそうです。「秋葉原のような事件を起こそうと思った」と語る引寺容疑者は、秋葉原の犠牲者の理不尽な死、遺族の絶望的な人生、そして加藤智大被告の惨めな姿を熟知していたはずです。「大変なことをしてしまった」のは当然のことであり、この言葉を周囲が掘り下げたところで、何も得るものはないと思います。

 秋葉原の事件も、加藤被告本人は罪状認否で罪を認めましたが、弁護側が責任能力を争い、証拠の多くを不同意にしたため、例によって裁判が長引いています。今回の事件は裁判員裁判となるため、法廷の光景は大きく変わるでしょうが、弁護側の争う姿勢が被害者や遺族を苦しめることになるのは同じだと予想されます。
 弁護側にとって、この種の裁判において有効に争い得るのは、責任能力(心神喪失・心神耗弱)の点だけです。そして、この主張が被害者や遺族をさらに絶望に陥れ、死者の生命を軽視するであろうことは、人間であれば簡単にわかります。しかしながら、刑事裁判の既成概念の枠内で仕事をする弁護人にとって、この業界の常識に従わないことは、非常に勇気が要る行動のようです。

 過去には、被害者や遺族の心情に配慮し過ぎた結果、被告人の利益を損なったとして、弁護士会から懲戒処分を受けた弁護士もいました。依頼者に対する義務に背馳するのは、医師の医療過誤と同じく、弁護士の弁護過誤だということです。もちろん、人間の倫理は、その上位概念として、死者の生命の重さに気がつきます。しかし、社会において責任ある仕事に従事し、その対価を得て生活するということは、この先を考えないということです。そして、この先を真剣に考えようとする者は、多くの場合、世間知らずだとして一笑に付されます。
 弁護活動の過程で死者や遺族を冒涜したとしても、弁護士会はその弁護人を懲戒することはありません(光市母子殺害事件で実際にそのような場面がありました)。他方で、被告人の責任能力を争うべき事件で争わないことは、弁護人にとって懲戒処分を受ける危険性があります。ゆえに、自分の身を危険に晒さず、家族を路頭に迷わせたくない弁護士は、この種の事件では必ず責任能力(心神喪失・心神耗弱)を争うことになります。

 殺人犯の精神鑑定というシステムにおいて、多くの人が感じているのが、殺人を犯した後に鑑定をすることの虚しさだと思います。今回の事件にしても、すでに犯行が終わってしまった容疑者の言葉をあれこれと詮索するしかありません。しかしながら、「大変なことをしてしまった」との他人事のような言葉は、事件の前と後では人格が別であると認めなければ正確に説明できないのではないかとも感じます。
 裁判での有罪・無罪を分けるものは、犯行の真っ最中の責任能力の有無です。しかしながら、犯行の真っ最中に医師が精神鑑定をすることはできません(当然です)。そこで、「犯行後に『犯行当時の精神状態』を判定する」という方法が採られることになります。そして、これも不可能です(当然です)。科学の力でなし得るのは、「犯行後に『犯行後の精神状態』を判定する」ことだけであり、犯行当時に時間を戻すことはできないからです。
 
 無差別殺人犯における、溜まりに溜まったマグマが一気に噴出している真っ只中の精神状態は、犯人と他人との間に深淵が開かれているのみならず、過去の犯人と現在の犯人においても隔絶しています。ゆえに、犯人自身であってもその精神状態に迫ることはできません。精神鑑定において導かれる責任能力は、あくまでも「現在の過去」のそれであり、「過去自体」のそれではないからです。
 そして、客観的世界を前提とする科学は、この時間のあり方を全く説明していないように思います。過去に起きた事件というものは、すべて後からそのように考えているだけのことだからです。人間は、この時間性の把握から逃れることが不可能です。客観的世界を実在とみなす錯覚は、「私」がその世界の中にいることが条件となります。そして、殺された人にとっての「私」は、その世界の中にはいません。これは、殺人事件を語る場合にのみ浮き上がる矛盾です。

 過去に起きた殺人事件とは、殺された被害者が見た最後の世界のことです。何が何だか解らないが自分はどうやら今ここで死ななければならない、この思いに「死者の無念」との表題を与えるのは、完全に嘘を語ることです。生きている者の過去の思いですら宇宙から消滅しているのであれば、死者の思いが完全に消滅しているのは当然のことだからです。
 ところが、裁判のシステムは、その殺された被害者が見た最後の世界のことを、犯人の側から語ることを可能とします。犯人についてだけは、「犯行後に『犯行当時の精神状態』を判定する」ことが可能だということです。このようなパラダイムに安住し、犯行当時の責任能力の有無で争うことは、被害者が見た最後の世界に直面することに比べれば、実に気楽な争いではないかと思います。

 法律の条文の定義を離れてみれば、「心神喪失」という単語が正確に示している状態は、被害者遺族の側であると感じられます。私はこれまで、被害者遺族の方々が自分自身の状態を表す言葉として、「外側は人間の形をした人間の抜け殻」「生ける屍」「死ぬに死ねずに生かされている廃人」といった表現に触れ、打ちのめされてきました。そして、まさにこれが「心神喪失」であると感じるとともに、そのような状態にありながら報復もせず、八つ当たりの犯罪にも走らず、自ら命も絶たずに生きるそのことに人間の尊厳が示されているのだと知りました。
 これに対して、社会への恨みでマグマが充満している精神状態をもって「心神喪失」であるとして争うことは、法律的な定義はともかくとして、やはり気楽な争いだという感が拭えません。そして、この場面において人間の尊厳という言葉も使いたくない気がします。

ある過労自殺の裁判の光景

2010-06-11 00:14:10 | 時間・生死・人生
 目が覚めて時計を見ると、夜中の3時であった。今日も睡眠導入剤がほとんど効かない。息が苦しく、何とか深呼吸して切り抜ける。また嫌な夢を見たようだが、内容は忘れた。会社の書類の山は、寝ても覚めても彼を押し潰す。そして、書類の山は、彼の仕事量に比例するかのように高くなってゆく。
 ここ数か月、偏頭痛と胸の痛みが治まらない。月120時間の残業時間に過労死の危険性があることは、言われなくてもわかっている。しかし、残業時間を数値で計測できるのは、仕事が終わってからの結果論にすぎない。その瞬間瞬間には、「この仕事を終わらせればあとは楽になる」という希望だけがある。
 彼において、現実の時間として存在するのは「納期」だけである。彼が納期に遅れてしまうと、まず10人に影響が出て、その影響によって50人に影響が出て、さらに100人に影響が出て、迷惑が無限に拡散する。この事実を身をもって知り抜いている人間にとっては、残業とは「しなければならない」ものではなく、「進んでやりたい」ものとなる。

 彼が次に時計を見ると、朝の6時半であった。寝られたのか寝られなかったのか良くわからない。会社に行きたいのか行きたくないのかも良くわからない。上司に理不尽に怒られ、取引先からは催促の電話で文句を言われるだけであれば、行きたくないに決まっている。しかし、彼の本心は、なぜか会社に行きたいと思っている。別に責任感が強いわけというわけでもない。
 朝食の途中で、彼はコーヒーカップを床に落とした。カップは粉々に砕け、飲みかけのコーヒーは一面に飛び散った。なぜ落ちてしまったのか、彼にはその一瞬の記憶がなく、妻に上手く説明できなかった。今までに一度もなかったことであり、彼にとっても常識では考えられない出来事だったからである。そして、「取り返しのつかない結果には何かの前兆がある」とのフレーズが頭をよぎった。限界が近いのかも知れないと思った。
 妻は、彼の失敗を激しく怒り、掃除をしてから会社に行くように命じた。もちろんそのような時間はなかったため、彼がそのように伝えると、妻は「掃除をさせられるほうの身にもなってよ」と鬼の形相で言った。その瞬間、彼は足元がガラガラと崩れる感覚がした。最悪の事態の前兆を妻に把握してほしいというのは、彼の単なる甘えである。彼は、妻を激しく睨み返すと、そのまま無言で家を出た。

 今日は、まず彼のミスを上司に報告して謝罪しなければならない。ミスの原因は良くわかっている。短い時間内に、同時並行で5つも6つも処理を行っているからである。1つのことが終わらないのに別のことを言いつけられ、それが終わらないのにまた別のことを言いつけられる。そして、「だいぶ前に言ったのに何でやらないんだ」と怒られる。社会人である以上、「手が回りません」という言い訳は許されない。
 人間の能力には限界がある。焦れば焦るほど確認や見直しの手順は飛ばされ、ミスをしやすくなる。情報を整理する余裕のない人間の頭は、簡単なミスを発見することもできない。しかし、このようなことでは、この社会は生きられない。ミスとは、すべて本人の緊張感の欠如から生じるということになっている。そして、この点を激しく叱責され、謝罪と反省の言葉を述べることは、人間の弱っている心をさらに弱らせることになる。
 彼の連日の深夜の残業が報われたことはない。疲労によってミスを犯し、会社に迷惑を掛けただけである。評価などもっての外である。この社会の厳しさに耐えられない者は、この社会では生きられない。失格である。社会は甘くない。この社会に生きる場所はない。これが論理の帰結である。彼は、吸い込まれるように線路に落ちる自分の体を止めることができず、彼の体の上を電車が通った。
 
 彼の妻が会社に起こした損害賠償の裁判は、先行きに暗雲が垂れ込めていた。弁護士は妻に対し、彼が会社の悩みを自宅で話していなかったか、自殺をほのめかすような話はなかったかと繰り返し聞いたが、彼女にはピントがずれた質問のように思えた。そもそも彼女が裁判を起こさなければならないと思ったのは、彼が会社の苦労を自宅に持ち込まず、妻の前では明るい顔をしていたことを見抜けなかった後悔からである。
 「大事なコーヒーカップを割ってすみません。掃除をしないですみません。情けない夫で申し訳ありませんでした。許してください。さようなら。」 これが、彼女の携帯電話に最後に送られてきたメールである。弁護士は、このメールは裁判に悪影響を及ぼすので、双方の携帯電話から削除するように言った。それは絶対にできないと彼女が言うと、弁護士は困惑と不満が入り混じったような顔をした。彼女は、この人には話が全く通じないと思った。
 彼女が義母に転送した最後のメールは、息子の死の真相を知りたい母親によって、彼の同僚に転送された。このメールは、さらに彼の上司に転送され、会社側の弁護士に転送され、被告会社側からの証拠として提出された。彼女の弁護士は、彼女と義母の行為に激怒し、原告がこれでは勝てるはずがないと言った。


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判決

主文 原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。

 死因や疾病の国際的な統計基準として世界保健機関(WHO) によって公表された分類である「ICD-10」(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)のF0からF4の精神障害の患者が自殺を図ったときには、当該精神障害により正常な認識、行為選択能力及び抑制力が著しく阻害されていたと推定されている。従って、Aの自殺の原因が会社や上司に存在するか否かは、「ICD-10」のF3の分類のうち、「F32.0」の軽症うつ病エピソードに該当するか否かが争点となる。

 Aと妻との会話が上手く行かなくなった事実は認められるものの、それだけではAがうつ状態などの精神的に不安定な状態にあったとは認められず、被告会社をして、社会通念上従業員をして自殺を考えさせる程度にまで肉体的・精神的に疲労させたと認めるのは困難であり、何らかの自殺防止策を採るべきであったとまでは認めることはできない。また、Aが理不尽に上司から暴言を吐かれたと認めるに足りる証拠はなく、上司らの裁量を逸脱した厳しい叱責によりAがうつ状態等の精神不安定な状況に陥っていたことを窺わせるような事実は認められない。
 
 Aにとって長時間の残業が肉体的・精神的に負担であったとしても、それが自殺を思い詰める程度に達していたとは到底いえない。また、会社にはAがそのような状態であると聞いた者がいないことを併せ考慮しても、Aが以前から自殺しようと思い詰めていたとは考え難く、被告がAの自殺を予見できる状況にあったとか、これを回避するための措置を採ることが可能であったということもできない。

 また、Aは自殺の直前、原告に対し「大事なコーヒーカップを割ってすみません。掃除をしないですみません。情けない夫で申し訳ありませんでした。許してください。さようなら。」とのメールを送信しており、これが自殺の直接的かつ強固な動機を示しているところ、ここに原告の主張するような長時間労働による精神的な負担を看取するに足りる要素はない。また、Aは長時間労働による疲労によってコーヒーカップを落とした旨の主張は原告らの独自の見解によるものであり、これを裏付ける文献もない。

 よって、Aの自殺の動機は結局のところ不明であると言わざるを得ないのであって、被告に従業員に対する安全配慮義務違反があったと認めることはできない。そうすると、原告の被告に対する本訴請求には理由がない。よって、主文のとおり判決する。


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フィクションです。

「ちいさな風の会」 世話人 若林一美さん

2010-06-08 23:57:46 | 時間・生死・人生
朝日新聞 平成22年6月7日夕刊 『語る人』より

 近ごろ肉親や友人を亡くした悲しみを癒す「グリーフ(悲嘆)・ケア」に関心が寄せられている。その先駆である、わが子を亡くした親たちが集う「ちいさな風の会」が今月、設立から23年目を迎えた。世話人として活動を支えてきた若林一美さんに、改めて会の意味を聞いた。

 ――22年間で変わったことは。
 最初は病気で子どもを亡くした親が多かったのですが、その後は自死の割合が増えています。また会員の多くは母親ですが、5年くらい前から父親が増えています。団塊世代が定年にさしかかり、わが子の死と向き合い、悲しみを率直に話せる男性が増えてきたのかと感じています。

 初めての参加者は苦しみから逃れるすべを求めて来るのですが、それにはこたえられない。互いの悲しみに耳を傾けるだけです。進歩も変化もしない。ただ、初めて来た人が安心できる場所でありたいと思ってきました。

 「子どもを失ってなお、なぜ私は生きつづけるのか」という親たちの苦しみは、癒すとか乗り越えるというものではありません。「人はなぜ生きるか、なぜここに私がいるのか」という生の神髄そのものです。それを10年、20年かけて語り合う。遺族の時間は本当にゆっくりとしか流れません。そんな時間を共有することが、現代では少なくなっている。それを必要とする人がいる限り、この会は続けられると思います。


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 「癒すとか乗り越えるというものではない」「生の神髄そのもの」といった言葉に接すると、ど真ん中にストライクを投げ込まれた感じがします。そして、生の神髄そのものは、法律を初めとする社会のルールによって答えが出るようなものではないと改めて思います。
 法治国家は、事件・事故から過労自殺・いじめ自殺に至るまで、「問いの答えは裁判所にある」との仮説によって支えられています。しかし、実際には「裁判所はそのような場所ではない」との答えが返ってくるのみであり、二次的被害が生じることが多いように思います。

 裁判の手続は、遺族が厳罰感情を和らげてもらわないと和解や示談が成立せず、システムが効率的に回らなくなります。そのため、「わが子の死と向き合う」「10年、20年かけて語り合う」といった種類の言葉は、あからさまに邪険にされるようです。
 客観的にシステム化した法律論は、内面の悲しみのようなものについては、「自助団体のさらなる発展が期待されよう」などと簡単に言って済ませています。そして、実際の団体の活動については興味がなく、裁判の中で生み出された二次的被害まで自助団体に任せられているのが常態のように思います。

横浜市中区・弁護士殺害事件

2010-06-03 23:51:06 | 時間・生死・人生
別の弁護士事務所にて


弁護士1: どんな理由があれ、絶対に許せない犯罪だな。

弁護士2: 問答無用で刃物を持ち出すなんて許し難いですよね。

事務員: そうですね。(昨日は過ちを赦すことの大切さを語ってませんでしたっけ?)


弁護士1: それにしても、早く犯人が逮捕されないと困るよなあ。

弁護士2: 近いうちに指名手配されるでしょうし、逃げ切れないでしょう。

事務員: そうですね。(判決が確定するまで無罪の推定が働くはずでは…?)


弁護士1: とにかく、これは弁護士業務に対する重大な妨害だよなぁ。

弁護士2: 弁護士事務所に乗り込んだところが我々に対する挑戦ですよね。

事務員: そうですね。(殺されたのは誰でもいいんですか?) 


弁護士1: 暴力による脅迫には、一歩も引かずに毅然と対処しなけりゃならんね。

弁護士2: 犯人に弁解の余地はないでしょう。

事務員: そうですね。(逮捕されたら、弁護士の誰かが付いて弁解するんですが…)


弁護士1: それにしても、殺される前に何とかならなかったのかなあ。

弁護士2: 周りが体を張って守るとか、できそうなもんですけどね。

事務員: そうですね。(私はまっぴらです。)


弁護士1: ところで、こういう時の香典はいくら包むんだ?

弁護士2: わかりません。まあ、弁護士ですから、相当集まるんじゃないですか?

事務員: そうですね。(やっぱりお金の話ですか。)


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フィクションです。

パロマ元社長ら2人に有罪判決 湯沸かし器中毒死事件 その2

2010-05-30 00:15:30 | 時間・生死・人生
 パロマの湯沸かし器が原因で亡くなった上嶋浩幸さん(当時18歳)の母・幸子さんが「あなたの死は無駄ではなかった」とコメントして涙を拭く姿が広く報道されていました。「無駄を省く」仕分けのニュースに日本中が覆われている中で、この言葉の意味を捉えるのは至難の業だと思います。経験者でなければ理解はほぼ不可能であり、私にも理解不可能です。
 人の生き様そのものは、何かを対象化して悩んだり、他者に何かを要求する態度とは異質のものです。少なくとも、上嶋さんの涙を同様の感受性を持って受け止められた人は、いわゆる「幸福な人生」を送っていない人だと思われます。
 このような裁判では、たとえ望んでいた通りの判決が出たとしても、心から喜べるということはないと感じられます。「正義は勝った」「今までの苦労が全部吹き飛んだ」「溜飲が下がった」ということもあり得ないようです。これは、例えば冤罪事件で無罪判決を得た被告人や支援者が、全身で喜びを表しつつ怒りを表明するのとは対照的のように思います。なぜこのように生き、このように死んだのかという問いは、裁判で解くことはできないからです。

 この事故などが設立のきっかけになった消費者庁については、情報の一元化が空回りしているとの指摘が多く見られました。省庁の縄張り意識が強く、縦割りによる対応の遅れなど簡単に改善できるものではないことは、多くの人が予想していたことであり、単にその通りの結果が生じたに過ぎないと思います。これは、企業も行政も「人命尊重第一」ではあっては運営に支障が生じるからです。
 このような消費者庁の現状に対し、困難を困難と知りつつ「人命尊重第一」を要求して済ませる論評は、やはり人命への感覚の鈍さが示されているように思われます。犠牲者の死を無駄にしないためには、消費者庁に当初の目的を実現してもらうことは当然のことです。しかしながら、親は消費者庁を誕生させるために我が子を生み育て、自分よりも先に死なれたわけではなく、この程度のところにゴールが設定されることは、絶望以外の何物でもないと思います。

 この判決から20日が経ち、他の多くの事件と同じように、人々の記憶からは急速に遠ざかっているように見えます。「社会全体で考えるべきである」「命の重さを1人ひとりが考えなければならない」という言い回しは、もはや嘘を嘘と知った上での社交辞令のようにも思われます。
 世間の常識はいつでも「暗いニュースばかりでは気が滅入る」「何か明るい話題はないのか」といったところであり、庶民が平穏に生きる上では、真実性の追求は有害となるようです。そのため、この誤魔化しの気持ちを下手に暴いてしまうと、社会の暗黙のルールに反したことになり、邪険にされて浮き上がるようです。暗いニュースは、他者の幸福を願う良心的な人々の善意を妨げない限りで存在が許されているからです。
 人は自殺せずに生きている限り死を望まず、不幸であると認識している限りにおいて幸福を求めているのだとすれば、ニュースを見る者は、上嶋幸子さんの顔に正面から向き合うことは耐えられないものと思います。息子を亡くした母親が生きている、その人生の存在自体の矛盾に一瞬でも気付いてしまえば、世間の常識が崩壊するからです。

 息子を亡くした母親に対して、周囲が立ち直りや癒しによる幸福な人生を求めることは、外形的には善意の形を採っています。しかしながら、その内実は単なる自己愛の発現であり、その心情は悪意にまみれているように思われます。幸福を求めずに真理を求める壮絶さを知りつつ、真理を誠実に生きるためには自らを偽る意味もないとの結論に至った者に対しては、世の中で語られる幸福論の99パーセント以上は無意味だからです。
 すべての偽善に対して自由なのは、死者に対する言葉のみだと思います。死者は何も返答しない以上、死者に対しては嘘をつく必要がなく、虚飾の余地もないからです。生きている者は、死者の前においてのみ正直であり得ます。そうだとすれば、生きている者同士で交わされる言葉は、死者に対して語られる言葉には敵わないはずです。
 親が我が子の骨を拾う取り返しのつかなさの前には、社会的な成功、富や名誉、夢や希望、幸福な人生などすべて些細な問題です。生活や生存を目的とする世間の常識は、この価値基準を否定しにかかりますが、これだけはいかなる幸福論でも太刀打ちできません。上嶋さんのコメントは、幸福を求めずに真理を求める壮絶さを経て、唯一の結論として絞り出されたものと感じます。経験のない私には、その深いところまでは理解不可能であり、茫然とするのみです。

パロマ元社長ら2人に有罪判決 湯沸かし器中毒死事件 その1

2010-05-16 23:46:56 | 時間・生死・人生
 パロマ工業製湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故で、業務上過失致死傷罪に問われた元社長・小林敏宏被告、元品質管理部長・鎌塚渉被告に対し、東京地裁は5月11日、いずれも執行猶予付きの禁錮刑を言い渡しました。有識者によるそれぞれの立場からの論考は、各紙で尽くされている感があります。
 私は、これらの論考を読んで思ったことにつき、法律・裁判の現場で働く者にあるまじき感想を書いてみたいと思います。

 有識者の論考は、当然のように「人命尊重第一」と述べ、その舌の根も乾かぬうちに人命への感覚の鈍さを示しているように思われました。
 「消費者の視点に立った判決であり意義深い」などと断言されてしまうと、死者はもはや消費者ではない以上、その現実の前に絶望させられます。生きて帰ってくるのでない限り、「意義深い」ということはあり得ないでしょう。また、「製品自体の欠陥ではないのにメーカーのトップの責任が問われた異例の裁判」などと言われてしまうと、異例かどうかは死者にとってはどうでもいい話で、「人命尊重第一」ならばこのような表現はできないはずだとの感を強くします。
 「国際的基準にかなった判断」「世界的な流れ」といった論評も同じです。死者にとっては意味がありません。

 判決は、製品に欠陥がなくても情報を集めて回収すべきことを求めたものであり、経営者にとって厳しいとの評価もありました。しかしながら、それがどんなに厳しくても、親がこのような事故で我が子を亡くすことより厳しくはないでしょう。
 また、危機管理をどこまで広げなければならないのか、今後の企業は大変だとの指摘もありました。しかし、親が我が子に先立たれるほど大変なことではないでしょう。
 このようなことは、誰もが心の奥底では知っていることですが、世間で大声で言ってはならないことだと思います。あまりに身も蓋もない真実であり、人々の平穏な生活にとって有害となるからです。従って、「人命尊重第一」と言いつつ、社会制度の維持に支障が生じないように、周囲を嘘で固める必要があります。それは、人命尊重第一では社会は回らず、そのようなことは考えないほうが上手く生きていけるという暗黙の了解です。

 記事の中には、リスク管理でコストかかりすぎ、経済界からは悲鳴が上がっているとの現状を強調するものもありました。特に昨今の不況においては綺麗事を言っている余裕はなく、とにかく会社の業績のために1円でもコストを下げ、社員の雇用も安定させなければならず、進退窮まって悲鳴を上げる経営者もいることでしょう。しかしながら、親が我が子の骨を拾う悲鳴に比べれば、全く物の数ではないと思います。
 経済社会では、「人命尊重第一」を追求した結果としてビジネスチャンスを逃したり、利益よりも人命を優先してマーケティング戦略を怠ったりする経営者は、単に才覚がないとして嘲笑の対象となるだけでしょう。
 営利を目的とする企業において、「人命尊重第一」を掲げることは偽善であり、人の命が失われた時に初めて持ち出されるものと相場が決まっています。もしも、これが最初からできていたのであれば、企業は裁判で全く争わずに原告の請求を認めていたはずだからです。そして、それは現実に「人命尊重第一」ではない企業には望めないことです。

 ある程度経済社会の現実に揉まれた者にとって、「人命尊重第一」という言葉は、どこか稚拙に聞こえるように思います。そんな理想論を実行していては怖くて何もできない、起業家が萎縮してしまう、現実に経済が混乱したらどうなるのか、あまりに無責任だと言われれば、すべてその通りです。真実とは無責任なものです。従って、やはり世間では本当のことを言ってはなりません。
 経済の混乱、会社の業績低下や倒産、リストラの先に待っているのは生活・生存の心配であり、突き詰めれば「生・老・病・死」の問題です。そうだとすれば、実際に「人命尊重第一」は、自分自身の生命においては無意識に実行されているところだと思います。
 そのような自己保存本能が、いつの間にか「面倒な仕事は端折りたい」「楽して金儲けしたい」という方向の欲望に変質するならば、他者の人命に危険を及ぼすような不正改造を行うまでのハードルは非常に低いはずです。

(続きます)

言葉にしたとたんにウソになる

2010-03-27 23:55:57 | 時間・生死・人生
 「1本前の電車か1本後の電車に乗っていれば被害に遭わなかったのに、なぜその電車に乗ってしまったのか」。地下鉄サリン事件のような被害において、避けがたく湧き上がってくるのがこの問いだと思います。3月8日に発生から10年を迎えた日比谷線脱線事故や、3月26に強制起訴が決まったJR福知山線脱線事故も同じです。この問いを解こうとすると、時間を遡って考えることにならざるを得ないと思います。
 毎日、この時間の電車に乗っていたのは、この会社に通勤するためである。そして、この会社に就職したのは、学生時代にある転機があったからである。そして、なぜそのような転機があったのかと言えば…… という具合に、誕生の日に向かって時間はどんどん遡っていきます。そうなると、事件につながる因果関係を正確に捉えようとすればするほど、過去のすべての場面に登場する多数の他者とのつながりが網の目のように出現し、変えようのない過去と唯一の現在を再確認するだけで、どうしても答えが出なくなるように思います。

 唯一の現在があり、それは唯一の過去につながっている。ゆえに、唯一の過去はその過去の時点では唯一の現在であり、この唯一の現在もすぐに唯一の過去となる。時間は、いつもこのような在り方をしている。よって、歴史に「タラ・レバ」はなく、すべては起こるべくして起きたのであり、人間の自由意思の入る余地がない。このような直観を強制されることは、存在と時間の前に全身を押さえつけられ、窒息するような感じにならざるを得ないとも感じます。
 人間は恐らく、この先を考えることはできないでしょう。それは、人間が他方で、この先に待っているのは狂気であることを直観する能力を持っているからではないかと思います。但し、人間の思考の密度が濃くなり、狂気に近づけば近づくほど、自由意思の有無は判然としなくなることも確かだと思われます。学者が机上の空論において自由意思の有無を論じている間に、苦悩に直面する者は現にそれを生きてしまっているように感じられます。

 「事故に遭ったのはなぜ『他でもないその人』だったのか」と第三者が問う分には余裕がありますが、「なぜうちの娘が事故に遭わなければならなかったのか」という問いは、そのように問う者が『他でもないその人』であるという意味において、自らの存在を痛めつける過酷な問いにならざるを得ないと思います。そして、この問いの周辺には、あらゆる種類の誤解が生じており、さらに問いの所在を見えにくくしているようです。
 「なぜうちの娘が」という問いに対して、「それなら赤の他人の娘なら事故に遭ってもいいのか」と問い返すことは、その赤の他人の娘が事故に遭わずに生きている限り、唯一の現在への問いに対する反問としては的を外しています。また、「助けてあげられなかった自責の念」を語る言葉に対し、責任を感じる必要性がないことを指摘して慰めることも、助けられたという選択肢が人間の自由意思を証明するものである限り、やはり完全に的を外しています。

 裁判の場における最も多い誤解は、「死者は無念さを語ることができない」という絶望的な真実の指摘に対して、「遺族は死者の無念を晴らそうとしている」との解釈が与えられることでしょう。このような解釈をされてしまえば、問いの主題は死者から遺族に移り、生きている側の都合だけで物事が考えられることになります。
 法律実務家においては、死者に権利能力がないことは常識であるため、「死者の無念」という表現は稚拙は比喩であるとして、一段低く見られることが多いようです。そして、その先には、「遺族の厳罰感情は十分に考慮しなければならない」という同情や、「厳罰にすればそれで済むのか」「厳罰では根本的な解決にならない」という苛立ちが示されます。これらは、解決不可能なものを解決可能であると思い込み、間違って立てられた前提から間違って立てられた問いであるため、当初の繊細な問いの視点からは遠く隔たっているように思われます。

 「1本前の電車か1本後の電車に乗っていれば被害に遭わなかった」という事実は、動かしがたい事実として問いの大前提になっています。ところが、犯罪を起こした側にスポットを当ててみれば、ここには紛れもない人間の自由意思と主体性が現れています。すなわち、能動態の側においては、歴史に「タラ・レバ」はあります。
 地下鉄サリン事件においては、教祖が「この電車にする」と決め、弟子がそれを忠実に実行する間の無数の過程において、自由意思において引き返す可能性がありました。洗脳されていようが、マインドコントロールを受けていようが、犯行に至る一挙手一投足が自由意思の結果であること想定することがなお可能です。
 これは、被害者側においては「タラ・レバ」がなく、すべては起きるべくして起きたという絶望と比較してみると、実に対照的だと思います。犯行の瞬間に至るまでの弟子の葛藤・逡巡などは、被害者側の問いに比べれば遥かに甘く、いつでも逃げられる保険がついた問いに過ぎないでしょう。
 
 他方で、被害者側が全人生を賭けて求めている解答への鍵は、この加害者側の自由意思の分析によって全面的に左右されます。そして、近代法治国家においては、この鍵が明かされる場は裁判しかありません。被害者が辛くても裁判の傍聴を続け、あるいは敢えて裁判から眼を逸らそうとするのは、この社会制度によってもたらされるものです。
 しかも、近代法治国家における刑事裁判は、この鍵を明かす場として設けられているのではありません。ゆえに、被告人には自己負罪拒否特権が保障されており、自分の記憶に反したウソをつくことも認められ、全面的な黙秘権が保障されています。現に松本智津夫被告の裁判は、10年を費やした挙句に周知の経過を辿りましたが、これは憲法の精神を体現した理想的な裁判であったと言えなくもありません。
 裁判が終わった後に残されるのは、やはり「なぜその電車に乗ってしまったのか」という問いです。この問いに答えようとすれば、ウソをつくことを意図するわけではないのに、どうしても語られたことはウソにならざるを得ないと思います。また、黙秘権が保障されているわけでもないのに、口を閉ざして語ることができなくなるように思います。

奈良県大淀病院・大阪地裁判決

2010-03-10 00:46:40 | 時間・生死・人生
 3月1日に大阪地裁で原告敗訴の判決が下された、奈良県大淀町立大淀病院・妊婦死亡事件に関して、ある方のブログを読みました。
 医師不足の現代日本において、多くの医師が限界を超えた過重勤務で心身を害し、病院がシステム不全に陥っている。そして、亡くなった患者に同情するマスコミや庶民が、医学の知識がないゆえの批判を行い、それが医師の疲弊に拍車をかけているといった指摘です。現場を知る方の実感であるがゆえに、医学の素人である私は、「全くその通りでしょう」と言うしかありません。

 しかしながら、数件の医療事故裁判に携わった私の狭い経験に照らして、「その通りでしょう」とは思えなかった部分もありました。
 第一に、遺族は当初は民事訴訟を起こさないと言っていたのに、後に訴訟を起こした点について、病院への責任転嫁でありクレーマーだと断じていた点です。私が担当した裁判の中には、同じような経緯を辿ったものが数件あります。それは、最初は必死に救命に当たってくれた医師に対する感謝の念だけであったのに、徐々に医師の生死に対する認識に愕然とし、感謝の念が裏切られたように感じ、複雑な感情が錯綜する中で、ついに断腸の思いで病院を敵に回さざるを得なかったというものでした。

 第二に、妻を亡くした夫が裁判を闘った苦悩や、3年近くの裁判に敗訴してしまった虚脱感を想像しようとする人間の心のあり方につき、無知で低次元な医師バッシングであると断じていた点です。
 例えば、夫が判決の直後に「残念で言葉がない」「妻に申し訳ない」と語ったコメントは、ある者にとっては、直観的に人の生死の重さに打ちのめされる言葉だと思います。1人の女性がわずか32歳で亡くなったこと、息子は母の顔を知らず母は息子の顔を知らないこと、これらの動かぬ事実は言葉を重ねて説明する種類のものではありません。
 他方で、ある者にとっては、遺族の心境への想像が医療現場を知らない素人の感情論以外ではないのであれば、もはや相互理解は不可能でしょう。

 人間が自分の人生を賭けて反論したくなる瞬間とは、自分を含めた立場が「悪」のレッテルを貼られ、それを「善」の側から一方的に攻撃されて、反省と改善を迫られた時だと思います。ここで、この土俵に乗って反論してしまえば、「善」と「悪」が固定し、それを前提として話が進むことになるからです。
 医療の現実を何も知らない大衆が感情論によって医師批判を展開し、それが医療の崩壊を招いたという主張は、「悪」とされた立場を駆逐する新たな「善」の立場です。それだけに、人の生死に対する哲学的直観まで「悪」に分類され、人間存在の複雑なあり方への繊細な考察が妨げられているようにも感じました。

昨年の交通事故死 5000人を割る

2010-01-07 00:09:24 | 時間・生死・人生
 1月3日の新聞に、昨年(平成21年)の交通事故による死者は4914人に止まり、57年ぶりに4000人台にまで減ったという記事がありました。ピークの昭和45年の交通事故死者は16765人であったことを考えると、非常に良かったと思います。しかしながら、この「良かった」という安堵には、同時に暗い影が伴っているのを感じます。
 もちろん、交通事故による死者が毎年全く減らないというのでは、これまで亡くなった方々が浮かばれません。それでは、交通事故死が減ったのであれば、これまで亡くなった方々が浮かばれるかと言うと、この答えも「NO」だと思います。ここで「YES」と言ってしまえば、失われた命は戻らないという現実の力が、「尊い犠牲」という美名を伴った暴力に姿を変えるからです。ここでは、「逆もまた真」ではありません。

 「1人の死は悲劇だが、1万人の死は統計である」という言い回しがあります。上記の新聞記事は、死者数の減少は9年連続であり、昨年の死者数は昭和28年のレベルであり、ピーク時の29%であることを伝えていました。まるで現在の株価のような右肩下がりのグラフもついて、死者数の推移は一目瞭然となっています。これは確信犯的な「統計としての死」です。
 不慮の事故で突然命を落とす側にとっては、4000人のうちの1人であるか、16000人のうちの1人であるかといった違いは、屁みたいなものだと思います。死者が4000人台に止まったことが喜ばしいニュースであると単純に言ってしまえば、その中の1人1人の犠牲者は、必然的に喜ばしいニュースをもたらした立役者の地位に置かれます。これほど迷惑な話もありません。

 交通事故被害者の遺族の方が、「このような悲しい思いをする人が1人でもいなくなってほしい」と述べたのであれば、論理的には、16000人の死者が4000人になったわけですから、両手を挙げて喜ばなければなりません。そして、これが素直に喜べないのというのであれば、「本当は世界中の人々に同じ思いを味わわせてやりたいのではないか」という揚げ足取りも可能となります。政治的な賛成・反対論は、いつの間にかこの種の暴力に鈍感になるようです。
 上記の記事には、死者数の減少には飲酒運転の厳罰化も奏効したと書かれていましたが、ここは厳罰化の賛否両論のイデオロギーが非常に盛り上がる問題です。例によって、死者数の増減と立法政策の因果関係が社会科学的に分析され、人の死はますます統計化されるのが通例です。遺された者が交通事故死者の減少を単純に喜べない苦悩に対して、「憎しみと恨みからの解放による救済」を求める気楽さは、この辺から生じるようにも思います。

生と死の自己矛盾

2009-11-08 23:27:53 | 時間・生死・人生
裁判所書記官の席は、裁判官よりも一段低く、証言台の目の前にあります。それだけに、証人や被告人の顔色や息づかいを間近で観察することができます。もちろん、他人の心の中を見ることはできませんから、すべては推測でしかありません。ほとんどの被告人は、「二度としません」「反省しています」と述べる時よりも、「寛大な刑をお願いします」「執行猶予の判決をお願いします」と述べる時のほうが、目が真剣で、言葉にも力が入っています。逆に、「法の裁きに従います」「どんな罰でも受けます」と述べる被告人のほうが、自暴自棄になって自らの犯した罪に向き合っていないような場合もあり、被告人供述調書の文字だけではわからないところがあります。前科何十犯の海千山千の被告人を見ていると、どこまでが演技なのか、どこまでが本音なのか、何が何だかわからなくなるところもあります。これに対して、「この人は全人生を賭けて一つの言葉を語っている」と感じる瞬間もありました。そのような場合には、他者の内心の状態は一方的な推測を超えて、確信にまで達することになります。それは多くの場合、犯罪被害者遺族の証言でした。

私が今でも、その言葉が発せられた瞬間の絶望的な表情や声色と合わせて、耳にこびりついて離れない一つの言葉があります。「私の息子は死んでいるのに、私の息子を殺した犯人は生きている・・・(以下絶句)」。これは端的な存在の自己矛盾です。どの犯罪被害者遺族も、法廷で被告人を怒鳴りつけたり殴りかかったりすれば、それこそ大変な問題になってしまうことを知っています。感情的に厳罰を叫んだりすれば、「遺族は法廷に出すべきではない」という理論に加担してしまうことを知り、感情を押し殺し、抑えても止まらない涙を拭いながら証言しています。その上で、「最愛の我が子を殺した犯人が今自分の目の前でこうして生きている」「この手で同じ目に遭わせてやりたい犯人が目の前にいる」という現場に向き合っています。被告人が反省して更生すること、真人間になって出直す可能性を持っていること、それ自体が我が子の死の前には絶望です。そのような状況の中で絞り出され、最後に選ばれた言葉が、「私の息子は死んでいるのに、私の息子を殺した犯人は生きている・・・」というものでした。私はこの証言を目の前で聞き、この言葉には推測の余地がなく、彼女の全人生が乗っていることを無条件で受け入れざるを得ませんでした。生と死の矛盾をそのまま生きている人のみが、その論理の限界において示すことができる存在の自己矛盾です。

生と死の矛盾といえば、これは死刑制度に対する批判の専売特許のようなものです。「国民の生命を守るべき国家が国民の生命を奪うことは自己矛盾である」。「法自体に人の命を奪ってはならないという規則があるのに、死刑制度は自らその規則を破る矛盾に陥っているのではないか」。全くそのとおりでしょう。ここには明らかな矛盾が存在しています。しかしながら、ここで語られている生と死の自己矛盾は、上に述べた息子を殺された母親が示したそれとは種類が違うもののように思われます。そして、このような寸分の隙もない論証によって示された自己矛盾は、具体的な人間の極限的な姿において示された「これが自己矛盾だ!」という瞬間的な確信を呼び起こすことはありません。それは、その矛盾が解消できることを前提としているからだと思います。生と死の矛盾は、その性質上、その矛盾をそのまま生きている人のみによって語り得る種類のものであり、社会科学的な客観性を拒むものです。科学的・客観的な視点からすれば、上の母親の証言など、「特殊な経験をした人が冷静さを失っている状態」以外のものではないでしょう。そして、「命の尊さを訴えるために新たな命を奪う自己矛盾」はあまりに理路整然としすぎて、反論することができません。それと同時に、自ら矛盾を生きていない者が語る矛盾は矛盾ではなく、明らかな矛盾を矛盾として、その解決の筋道とともに論証してしまっているがゆえに、生と死の自己矛盾を捉えていないという印象も拭えません。

最愛の我が子の命を奪われた母親が被告人の目の前で証言し、極限的な言葉を絞り出したこと。制度論としての死刑存廃に関する意思決定の場面においては、このような個々の事実は見向きもされないでしょう。条約に基づく世界の潮流や、犯罪の抑止力についての実証的なデータがグローバルに語られるのみです。また、私が書記官席でこのような証言を聞き、その後もずっと忘れられずにいるという事実も、社会的には何の価値もないでしょう。狭い世界の中で特殊な経験をした者が、その経験を強引に一般化して結論を出しているという程度のものだと思います。しかしながら、「私の息子は死んでいるのに、私の息子を殺した犯人は生きている・・・」という生と死の自己矛盾を端的に示す論理の強靭さが、殺人罪を語る際に見落とされることもまた有り得ないでしょう。この矛盾はどこまで行っても絶望であり、希望に転ずることはありません。そして、この絶望を捉える際には、どんなに立派な文献よりも、現実の法廷における人間の息づかいが有用であり、その極限を知った人間が示す個別が瞬間的に普遍に転じるような場面が不要になることはないと思います。ここにおいては、もはや「人を殺した者の命」と「何の罪もないのに殺された者の命」の等価値性の問題を殊更に強調する必要もないでしょう。自分は他人の人生を生きられず、他人は自分の人生を生きれらない以上、すべての「その人」の人生は取り替えが効かない、これが生と死の自己矛盾であるということで十分だと思います。