宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『唯識(上)』多川俊映、第2回(その1)倶舎仏教の「心」:心の主体(「心王」)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「心」は「対象」をいかなるものか認知する!

2022-12-19 19:56:46 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方
(4)「唯識」における「心」の「八識説」: 前五識、第六意識、第七末那(マナ)識、第八阿頼耶(アラヤ)識!前五識と第六意識は「初期仏教」以来のものである!
H  仏教はすでに初期の段階から十分に唯心的で、「心」に対する関心が旺盛だった。そうしたことを「唯識(唯、識のみなり)」と先鋭化したのが、西暦5世紀頃に体系化された唯識仏教だ。(36頁)
H-2  唯識が想定する「心」の概略は前五識、第六意識、第七末那(マナ)識、第八阿頼耶(アラヤ)識の「八識説」である。(36-37頁)
H-2- 2 「前五識」は眼(ゲン)識・耳(ニ)識・鼻識・舌識・身識である。(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に相当する。)(37頁)
H-2-3  第6番目に「意識」が取り上げられるので、「第六意識」と言う。(37頁)
H-2-4  「唯識仏教」は「心」について「八識説」をとる。前五識と第六意識は「初期仏教」以来のもので、「唯識」仏教は、それらに第七末那(マナ)識と第八阿頼耶(アラヤ)識という深層の二識を追加した。(37頁)

(4)-2 初期仏教における身業・口業・意業!
H-3 行為(「業」ゴウ)について初期仏教は、身業(身体的行動)・口(ク)業(ことば)・意業(心中の思い)と「身・口(語)・意の三業」を並列に並べる。(42頁)
H-3-2  唯識は、すべてを「心」(※超越論的主観性に相当する)の要素に還元し、「身・口(語)・意の三業」についていえば、「身・口」の二業も、「意」の一業に集約して考える。(42頁)

(4)-3 倶舎(クシャ)仏教の「心」:心の主体(「心王」)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知する! 
I 部派仏教のグループの一つに「説一切有部」(セツイッサイウブ)があった。その「有部」の主要な論書の一つが(唯識を体系化する以前の)世親(ヴァスバンドゥ)が著わした『倶舎(クシャ)論』である。(43頁)
I-2 倶舎仏教の「心」は、初期仏教以来の「六つの心識」(前五識と第六意識)によって考えられている。(43頁)
I-3 また一般に「心身」というように、倶舎仏教も物質的な要素(身)と精神的な要素(心)を区別する。(43-44頁)
I-4 倶舎仏教は「心」が、心の主体(「心王」)(※主観性の諸領野)と心のはたらき(「心所」)によって、つまり「心心所」(シンシンジョ)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知すると考える。(43-44頁)
I-4-2  倶舎仏教は「心王」(※主観性の諸領野)を「六識」(※6領野の主観性)とする。(45頁)
I-4-2-2 「六識」は根(感覚器官)と境(認識対象)の違いによって、眼(ゲン)識(眼ゲン根・色シキ境)、耳(ニ)識(耳ニ根・声ショウ境)、鼻識(鼻根・香境)、舌識(舌根・味境)、身(シン)識(身根・触境ソクキョウ)(※唯識の前五識に相当する)、さらに意識(意根・法ホッ境)(※唯識の第六意識に相当する)からなる。(45頁)
I-4-2-3 「意識」の感覚器官(「意根」)といっても、実は「意識」(心)には感覚器官がない。かくて倶舎仏教は、現在の認識の直前に滅した眼識ないし意識を「意根」とみなした。(現代風には「意根」とは脳神経かもしれない。)(46頁)
I-4-2-4 「意識」の認識対象は「法(ホッ)境」であるが、「法」とはものごと・ことがらの意味である。「意識」の認識対象は、「五識」のように感覚器官(感官)によって限定されるものでない。あらゆること(一切法)を広く認識しうるし、かつ現在のみならず、過去にさかのぼり、未来を展望する。(46頁)
I-4-3 倶舎仏教の見解では「心所」(心のはたらき)は46あり、「善」や「煩悩」などの性質によって6グループに仕分けされる、すなわち「六位四十六心所」とされる。なお唯識仏教はこれを整理・改訂し「六位五十一心所」とした。(詳しくは後述。)(46頁)

(4)-3-2  倶舎(クシャ)仏教の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は外界に実在するものだ!
I-5  倶舎論(倶舎仏教)の「心」(六識)の「対象」(「境」キョウ)は、いずれも外界に実在するものである。(46頁)
I-5-2  倶舎論においては、認識の成立は、まず外界に実在するものがあり、それを私たちの「六識」という「心」が認めるという順序だ。(47頁)
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