『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年
第2回 さまざまな「心」の捉え方(続々々):唯識仏教における「心」(続)!
(8)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造①:表面心(「前五識」・「第六意識」)と深層心(「第七末那識」・「第八阿頼耶識」)の重層性!
S 唯識仏教は、心を表面心と深層心の重層性として捉える。五感覚の「前五識」と(当面の)自己そのものといえる「第6意識」は心の表面のはたらきだ。(56頁)
S-2 深層心の「第七末那識」(マナシキ)の自己愛ないし自己中心性のはたらきが表面心である第6意識に通奏低音のように囁き続ける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)がある。(56頁)(21-22頁)
S-2-2 こうした深層の二意識、「第七末那識」と「第八阿頼耶識」は無意識あるいは意識下である。(56-57頁)
S-2-3 フロイトの無意識の場合は、無意識識領域に抑圧されたことがらを意識化し、問題が解決される、つまり意識化が可能だ。だが唯識仏教の最深層の無意識である「阿頼耶識」は「不可知」とされる。(57頁)
S-2-4 川本臥風に「菱餅の上の一枚そりかえり」という雛の節句の俳句がある。これを唯識の心の構造に譬えると、反りかえる上の1枚は表面心の「前五識」と「第六意識」。それ以下は心の深層領域で、中の1枚が「第七末那識」、一番下の1枚が「第八阿頼耶識」と見立てることができる。(59-60頁)
S-2-4-2 深層領域の中と下の2枚は音無しの構えだが、表面心の上の1枚は何かと騒々しい。「第六意識」の例えば「瞋(シン)(排除する)」心所がむくむくと立ち上がり、それにつれ具体的な随煩悩の心所「忿(フン)(腹を立てる)」や「恨(コン)(うらむ)」などが相応してくる。「上の一枚そりかえり」という状況だ。(60頁)
(8)-2 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造②:「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造:「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)!
T 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」には、もう一つ重要な重層構造がある。それは「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造だ。(60頁)
T-2 「本識(ホンジキ)」とは第八阿頼耶識のことで、すべては第八識の「本識」から発出・発現し、これを「転変(テンペン)」という。(60頁)
T-2-2 つまり八識でいえば、前五識も第六意識も、そして第七末那識もすべて、根本の識体たる第八識(第八阿頼耶識)から「転変」して現れたものと考えるので、前五識・第六意識・第七末那識を「転識」と言う。(60-61頁)
T-3 かくて唯識仏教では、ものごとは阿頼耶識にもとづき、阿頼耶識を主とし、阿頼耶識によってつくり出されるということになる。かくて唯識の縁起論(ものごとの成り立ちについての考え方)は「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)と呼ばれる。(61頁)
T-3-2 「第八阿頼耶識」(蔵識)は「種子(シュウジ)」を所蔵するので「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)とも呼ばれる。
《参考》「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。「種子」(シュウジ)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものである。(50頁)
(8)-3 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでなく、第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する!
T-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでない。(61頁)
T-4-2 第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する。(61頁)
《参考》仏教一般では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身(シン)業」(身体的動作をともなうもの)・「口(ク)業」(言語によるもの)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。(※唯識仏教の「意業」の概念は、フッサールの「超越論的主観性」に似る。)(5頁)
《参考》唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)
《感想1》唯識仏教にとって、さまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》唯識仏教は、「心」は「物」の世界を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在し、「物」が「心」に反映・模写するという見解をとらない。
《感想2-2》》唯識仏教は、「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)とする。
《感想3》「心」(超越論的主観性)のうちに出現する「対象」(「境」)は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々、あらゆる「対象」(「境」)が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》さらに「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf. アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!
《参考》(1)唯識仏教によれば、「心」が対象を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
(2)認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
(3) 唯識仏教では「心」(※超越論的主観性)は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味・意味的諸規定)と言う。(48頁)
(4)認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
(5)かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
(6)「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)
《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。Cf. 「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。
①「物」の世界は間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)「物」の世界は、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
④-2 さらにこれら「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も対象的意味(「所変の境」)として構成される。それら「感情」「意志」「欲望」の間主観的な規則性or法則にもとづき、多くの人間の間で、マヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的・経済的・心理的等々の「操作」が可能となる。
(8)-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)は「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)を所蔵する!原因である「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる:「種現(シュゲン)因果」!
U 第八意識に所蔵された「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)は、単なる過去の行動情報でなく、事後ないし将来にわたって条件(「縁」)が整えば、類似の行動(「現行」ゲンギョウ)を発出する潜勢力でもある。〈62頁)
U-2 これが唯識仏教の、阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐる「縁起」の考え方だ。〈62頁)
U-2-2 新たに引き起こされた類似の行為行動は「現行」(ゲンギョウ)と呼ばれる。かくて原因の「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる。これを唯識では「種現(シュゲン)因果」という。〈62頁)
U-3 しかし同時に、「当面ではあるが自己そのものといってよい第六意識」こそ、日常生活者としては重要だ。
つまり「深層の阿頼耶識に所蔵される過去の行動情報」である「種子」(シュウジ)がそのまま再現されるのではない。「自覚的な心の第六識」の覚悟こそ明日の自己を改造する。第六識こそ、自己を育み・成長させるものであると思い定めたい。(多川俊映氏)(63頁)
第2回 さまざまな「心」の捉え方(続々々):唯識仏教における「心」(続)!
(8)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造①:表面心(「前五識」・「第六意識」)と深層心(「第七末那識」・「第八阿頼耶識」)の重層性!
S 唯識仏教は、心を表面心と深層心の重層性として捉える。五感覚の「前五識」と(当面の)自己そのものといえる「第6意識」は心の表面のはたらきだ。(56頁)
S-2 深層心の「第七末那識」(マナシキ)の自己愛ないし自己中心性のはたらきが表面心である第6意識に通奏低音のように囁き続ける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)がある。(56頁)(21-22頁)
S-2-2 こうした深層の二意識、「第七末那識」と「第八阿頼耶識」は無意識あるいは意識下である。(56-57頁)
S-2-3 フロイトの無意識の場合は、無意識識領域に抑圧されたことがらを意識化し、問題が解決される、つまり意識化が可能だ。だが唯識仏教の最深層の無意識である「阿頼耶識」は「不可知」とされる。(57頁)
S-2-4 川本臥風に「菱餅の上の一枚そりかえり」という雛の節句の俳句がある。これを唯識の心の構造に譬えると、反りかえる上の1枚は表面心の「前五識」と「第六意識」。それ以下は心の深層領域で、中の1枚が「第七末那識」、一番下の1枚が「第八阿頼耶識」と見立てることができる。(59-60頁)
S-2-4-2 深層領域の中と下の2枚は音無しの構えだが、表面心の上の1枚は何かと騒々しい。「第六意識」の例えば「瞋(シン)(排除する)」心所がむくむくと立ち上がり、それにつれ具体的な随煩悩の心所「忿(フン)(腹を立てる)」や「恨(コン)(うらむ)」などが相応してくる。「上の一枚そりかえり」という状況だ。(60頁)
(8)-2 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」の構造②:「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造:「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)!
T 「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」には、もう一つ重要な重層構造がある。それは「本識(ホンジキ)」(第八阿頼耶識)と「転識(テンジキ)」(前五識・第六意識・第七末那識)の重層構造だ。(60頁)
T-2 「本識(ホンジキ)」とは第八阿頼耶識のことで、すべては第八識の「本識」から発出・発現し、これを「転変(テンペン)」という。(60頁)
T-2-2 つまり八識でいえば、前五識も第六意識も、そして第七末那識もすべて、根本の識体たる第八識(第八阿頼耶識)から「転変」して現れたものと考えるので、前五識・第六意識・第七末那識を「転識」と言う。(60-61頁)
T-3 かくて唯識仏教では、ものごとは阿頼耶識にもとづき、阿頼耶識を主とし、阿頼耶識によってつくり出されるということになる。かくて唯識の縁起論(ものごとの成り立ちについての考え方)は「阿頼耶識縁起」(頼耶縁起)と呼ばれる。(61頁)
T-3-2 「第八阿頼耶識」(蔵識)は「種子(シュウジ)」を所蔵するので「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)とも呼ばれる。
《参考》「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。「種子」(シュウジ)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものである。(50頁)
(8)-3 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでなく、第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する!
T-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)が所蔵するものは「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)だけでない。(61頁)
T-4-2 第八識は「有根身(ウコンジン)」(肉体)とそれを取り囲む「器界」(器世間)(自然など)も所蔵する。(61頁)
《参考》仏教一般では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身(シン)業」(身体的動作をともなうもの)・「口(ク)業」(言語によるもの)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。(※唯識仏教の「意業」の概念は、フッサールの「超越論的主観性」に似る。)(5頁)
《参考》唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)
《感想1》唯識仏教にとって、さまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》唯識仏教は、「心」は「物」の世界を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在し、「物」が「心」に反映・模写するという見解をとらない。
《感想2-2》》唯識仏教は、「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)とする。
《感想3》「心」(超越論的主観性)のうちに出現する「対象」(「境」)は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々、あらゆる「対象」(「境」)が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》さらに「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf. アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!
《参考》(1)唯識仏教によれば、「心」が対象を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
(2)認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
(3) 唯識仏教では「心」(※超越論的主観性)は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味・意味的諸規定)と言う。(48頁)
(4)認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
(5)かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
(6)「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)
《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。Cf. 「この心」(超越論的自我としての超越論的主観性)のうちに、「他なる心」(超越論的他我としての超越論的主観性)も出現する。
①「物」の世界は間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)「物」の世界は、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)に構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
④-2 さらにこれら「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も対象的意味(「所変の境」)として構成される。それら「感情」「意志」「欲望」の間主観的な規則性or法則にもとづき、多くの人間の間で、マヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的・経済的・心理的等々の「操作」が可能となる。
(8)-4 第八識(第八阿頼耶識)(※超越論的主観性)は「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)を所蔵する!原因である「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる:「種現(シュゲン)因果」!
U 第八意識に所蔵された「種子」(シュウジ)つまり「過去の行為行動の情報・残存気分」(※類型的知識)は、単なる過去の行動情報でなく、事後ないし将来にわたって条件(「縁」)が整えば、類似の行動(「現行」ゲンギョウ)を発出する潜勢力でもある。〈62頁)
U-2 これが唯識仏教の、阿頼耶識(アラヤシキ)をめぐる「縁起」の考え方だ。〈62頁)
U-2-2 新たに引き起こされた類似の行為行動は「現行」(ゲンギョウ)と呼ばれる。かくて原因の「種子」(シュウジ)に対して、「現行」(ゲンギョウ)は結果になる。これを唯識では「種現(シュゲン)因果」という。〈62頁)
U-3 しかし同時に、「当面ではあるが自己そのものといってよい第六意識」こそ、日常生活者としては重要だ。
つまり「深層の阿頼耶識に所蔵される過去の行動情報」である「種子」(シュウジ)がそのまま再現されるのではない。「自覚的な心の第六識」の覚悟こそ明日の自己を改造する。第六識こそ、自己を育み・成長させるものであると思い定めたい。(多川俊映氏)(63頁)