『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年
第2回 さまざまな「心」の捉え方(続)
(5)唯識仏教の「心」:認識対象を「心」がいろいろと加工したり・変形したり(「能変」)して捉える!J 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)
J-2 「むろん外界のさまざまな事物は、あるにはあります。」(多川俊映)(47頁)
《感想1》「あるにはある」外界のさまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》「外界」は「物」に関して言えば、「身体」も含む。つまり「外界」とは「身体」と触れ合い連続して広がる「物」の世界だ。「心」は「物」の世界と異なるが、①「心」(主観性=主観)は「物」の世界(客観=対象)を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在する、つまり「物」が「心」に反映・模写するという見解と、他方で②「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)という見解がある。(《感想2-3》参照)
《感想2-2》「外界」は一般には、(認識)対象(「境」)すべてだ。この場合、「外界」は、「物」の世界より、ずっと広い。(《感想3》参照)
《感想2-3》「外界」(対象)はどこにあるのか?「外界」(対象)は意識されている、つまり「心」のうちに出現している。この場合、①「外界」(対象)は「心」の外にあるのか(対象の出現はいわば反映・模写である)のか?あるいは②「外界」(対象)は「心」のうちにある、つまり「外界」(対象)《そのもの》が「心」のうちに出現しているのか?
《感想3》「心」のうちに出現する「対象」は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》ところが「この心」(超越論的自我)のうちに、「他なる心」(超越論的他我)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf. アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!
J-3 唯識仏教によれば、「外界」にあるなにか(対象)を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
J-3-2 認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
J-3-3 唯識仏教では「心」は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)と言う。(48頁)
J-3-4 認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
J-3-5 かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
J-3-6 「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)
《参考》「唯識」とは「唯(タダ)、識(シキ)のみなり」ということである。唯識では「心(シン)・意・識」の三者を厳密に区別するが、当面は「唯識」の「識」は、ふつう言うところの「心」と思っていてよい。「唯識」は、あらゆることがらをすべて「心」の要素に還元し、心の問題として考える仏教である。(13-14頁)
《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。
①「物」の世界は「所変の境」(※構成された対象的意味、つまり「物」の意味的諸規定)が間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は間主観的であり、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
⑤さらに「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も抽出可能であり、それにもとづき多くの人間のマヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的等々の「操作」が可能である。
第2回 さまざまな「心」の捉え方(続)
(5)唯識仏教の「心」:認識対象を「心」がいろいろと加工したり・変形したり(「能変」)して捉える!J 唯識仏教は認識の仕組みに関し、外界実在論を否定する。(47頁)
J-2 「むろん外界のさまざまな事物は、あるにはあります。」(多川俊映)(47頁)
《感想1》「あるにはある」外界のさまざまな事物は、「無規定な有(存在あるいは存在者)」である。この「無規定な有」が「心」の意味構成的諸作用(唯識における心のはたらき=「心所」)によって「規定された有」となる。
《感想2》「外界」は「物」に関して言えば、「身体」も含む。つまり「外界」とは「身体」と触れ合い連続して広がる「物」の世界だ。「心」は「物」の世界と異なるが、①「心」(主観性=主観)は「物」の世界(客観=対象)を含まない、つまり「物」そのものは「心」の外に存在する、つまり「物」が「心」に反映・模写するという見解と、他方で②「心」(超越論的主観性)は「物」の世界を含む、つまり「物」そのものが「心」のうちに出現する(Ex. 触覚)という見解がある。(《感想2-3》参照)
《感想2-2》「外界」は一般には、(認識)対象(「境」)すべてだ。この場合、「外界」は、「物」の世界より、ずっと広い。(《感想3》参照)
《感想2-3》「外界」(対象)はどこにあるのか?「外界」(対象)は意識されている、つまり「心」のうちに出現している。この場合、①「外界」(対象)は「心」の外にあるのか(対象の出現はいわば反映・模写である)のか?あるいは②「外界」(対象)は「心」のうちにある、つまり「外界」(対象)《そのもの》が「心」のうちに出現しているのか?
《感想3》「心」のうちに出現する「対象」は、「物」の世界だけでない。「心」には、「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界、(抽象的な)「意味」の世界(Ex. 物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界、「言語(言語的意味)」の世界)等々も出現する。
《感想4》「心」には、(「身体」と触れ合い連続して広がる)「物」としての「外界」、「感情」、「意志」、(抽象的な)「意味」(Ex. 「数学」、「幾何学」、「言語」)等々が出現する。このような「心」は超越論的主観性(フッサール)である。
《感想5》ところが「この心」(超越論的自我)のうちに、「他なる心」(超越論的他我)も出現する。そして「他なる心」の出現は、「他なる身体」の出現においてはじめて確認される。Cf. アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz)(1899-1959)の「Umwelt」!
J-3 唯識仏教によれば、「外界」にあるなにか(対象)を認識する場合、その認識対象をそのまま受け止めるというより、「心」が認識対象をいろいろと加工したり・変形したりして、それを捉える。こうしたプロセスを唯識仏教では「能変」と言う。Cf. フッサールの「構成」(意味構成)に相当する。(47-48頁)
J-3-2 認識の対象(「境」)は、「心」が「能変」(※意味構成)したものである。(48頁)
J-3-3 唯識仏教では「心」は「能変の心」(※構成する心)と言い、認識対象(「境」)は「所変の境」(※構成された対象的意味)と言う。(48頁)
J-3-4 認識対象は、「八識」それぞれの段階で変形(※構成)されたところのもの(「識所変」)(※構成された意味対象)であり、それを「心」が改めて見ている。(48頁)
J-3-5 かくて「唯識(唯、識のみなり)」という見解に帰着する。(48頁)
J-3-6 「唯識」の立場に立てば、あらゆることがらが「心」の要素に還元され、私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるということになる。(48-49頁)
《参考》「唯識」とは「唯(タダ)、識(シキ)のみなり」ということである。唯識では「心(シン)・意・識」の三者を厳密に区別するが、当面は「唯識」の「識」は、ふつう言うところの「心」と思っていてよい。「唯識」は、あらゆることがらをすべて「心」の要素に還元し、心の問題として考える仏教である。(13-14頁)
《感想》私たちは「わが心のはたらきによって知られたかぎりの世界」に住んでいるが、だがそれは、多数の人々が「ばらばらの世界」に住んでいるということではない。「唯識」の立場は、「多数の人々に共通の世界」(間主観的な世界)があることを否定するものでない。
①「物」の世界は「所変の境」(※構成された対象的意味、つまり「物」の意味的諸規定)が間主観的(多数の人々にとって共通)である。「物」の世界は間主観的であり、共通=間主観的に観察され、共通=間主観的に規則性(Ex. 構造、法則)が導きだされる。(なお、その前提として「物」の世界自身に属する規則性がある。)
②物一般の数的関係を扱う「数学」の世界、物の形態的関係を扱う「幾何学」の世界も、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)である。
③「言語(言語的意味)」の世界は、そもそも「所変の境」(※構成された対象的意味)が間主観的(多数の人々にとって共通)であることを前提している。
④「感情」の世界、「意志」の世界、「欲望」の世界も、さまざまにコミュニケーション可能である。すなわちコミュニケーション可能ということは、間主観的(多数の人々にとって共通)な構成された対象的意味(「所変の境」)が可能ということだ。
⑤さらに「感情」「意志」「欲望」に関して、多くの人々に共通の(間主観的な)規則性or法則も抽出可能であり、それにもとづき多くの人間のマヌーバー的・政治的・マキャベリ的・恋の手練手管的等々の「操作」が可能である。