宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『唯識(上)』多川俊映、「はじめに」:「業(ゴウ)」(行為)は「身(シン)業」(身体的動作)・「口(ク)業」(言語)・「意業」(心中の思い)からなるが、唯識仏教はそれを「意」の一業に集約する!

2022-12-17 12:25:38 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

(1)はじめに
A 「心」について仏教は釈尊(前5世紀頃)以来、強い関心を寄せてきた。(5頁)
A-2 とりわけ5世紀頃に体系化された「唯識仏教」は心への関心を先鋭化し、すべてを「心」の要素に還元した。(5頁)
A-2-2 仏教一般では「業(ゴウ)」(行為・行動)を「身(シン)業」(身体的動作をともなうもの)・「口(ク)業」(言語によるもの)・「意業」(心中のさまざまな思い)の三業に分類する。唯識仏教では、それを「意」の一業に集約して考える。(5頁)
《感想》唯識仏教の「意業」の概念は、フッサールの「超越論的主観性」に似る。
A-3 また唯識仏教は、自覚的ないわゆる「心」(第六意識)は実は表面的な心であり、その表面心を無意識の深層領域、すなわち第七「末那識(マナシキ)」(自己愛の根源)さらに最も深層の第八「阿頼耶識(アラヤシキ)」が支える構造として理解した。「阿頼耶識」は「過去を保存し・現在と未来の行為を発出する生存基盤」である。(5頁)
《感想》「阿頼耶識」の概念は、アルフレート・シュッツ(Alfred Schütz、1899 - 1959)の「知識在庫」(Stock of knowledge)に似る。
A-4  日本では奈良時代(8世紀)の仏教「南都六宗」のうち「法相(ホッソウ)宗」の教義が唯識の考え方である。(5頁)
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« エドガー・アラン・ポー(180... | トップ | 『唯識(上)』多川俊映、第1... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事