宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『唯識(上)』多川俊映、第2回(その3):「心」が、心の主体(「心王」)(※超越論的主観性)と心のはたらき(「心所」)によって、「対象」のいかなるものであるかを認知する!

2022-12-23 09:59:33 | Weblog
『唯識(上)心の深層をさぐる』(NHK宗教の時間)多川俊映(タガワシュンエイ)(1947生)2022年

第2回 さまざまな「心」の捉え方(続々):唯識仏教における「心」!
(6)「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」!「第八阿頼耶識」=「蔵識」=「一切種子(シュウジ)識」!無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」である「第七末那識(マナシキ)」!
K まず「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」については、唯識仏教では、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、第六意識の「六識」に、さらに第七末那識(マナシキ)、第八阿頼耶識(アラヤシキ)が想定された。(49頁)
《参考》唯識の「空」:龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する「心」のみは存在しなくてはならないと唯識は考える。(「広隆寺ホームページ」)
K-2  「第八阿頼耶識」は私たちの認識活動のみならず生存にも深くかかわり、心の大本(オオモト)である。「阿頼耶」はサンスクリット語のアーラヤで「蔵」を意味する。(49頁)《感想》「阿頼耶識」は、A・シュッツ「知識在庫」Stock of knowledgeに相当する。
K-2-2  「阿頼耶識」は、「過去の行為行動の情報・残存気分」である「種子」(シュウジ)を所蔵する「心の深層領域」である。《感想》「種子」(シュウジ)とは「過去の行為行動の情報・残存気分」に関する「類型的知識」である。(49頁)
K-2-2-2 かくて「阿頼耶識」は「一切種子識」(※知識の総体としての「知識在庫」)である。
(49頁)
K-2-2-3 「阿頼耶識」は一切の「種子」(シュウジ)を所蔵する「蔵識」と意訳さることがある。 
K-2-3 「種子」(シュウジ)つまり「過去の行動情報」(※類型的知識)は深層領域にファイルされるだけでなく、事後そして将来にわたって、条件が整えば類似の行動を発出する潜勢力である。(50頁)
K-2-3-2 言い換えれば、「阿頼耶」と呼ばれるこの深層心は、明日の自分をつくるものでもある。(50頁)

K-3  「第七識」の「末那識(マナシキ)」は、無意識の領域にうごめく「自己愛あるいは自己中心性」(Cf. フロイトの快感原則)のことで、自覚的な「第六意識」に絶えず影響力を行使する。(50頁)

(7)心のはたらき(「心所」)(※心の意味構成的諸作用):六位五十一心所!
L  「心王」(心の主体)(※超越論的主観性)としての「八識」、すなわち「八識心王」に相応してはたらく「心所」(心のはたらき)(※心の意味構成的諸作用)は五十一ある。(50頁)
L-2  八識(※8つの「超越論的主観性の諸領野」)のうち「第六意識」(自覚的ないわゆる「心」、ふつういうところの「心」、当面の自己そのもの、表面における心)はこれら「五十一心所」のどの心所とも相応してはたらく。(50頁・55頁)
L-2-2  かくて「五十一心所」リストは私たちの日常行動を一覧するものでもある。(50頁)
L-2-3 「前五識」・「第七末那識(マナシキ)」・「第八阿頼耶識(アラヤシキ)」と相応する心所は限られている。それについては、ここでは割愛する。(50頁)

《参考1》「唯識」は、すべてを心の要素に還元し心の問題として捉えるが、心のはたらきは「心所」(シンジョ)と呼ばれ51の心所がある。(15頁)
《参考1-2》51の心所はその性質から6グループに分類される:「六位(ロクイ)五十一心所」。①「遍行」(ヘンギョウ)(どのような認識にもはたらく基本的なもの)、②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらくもの)、③「善」(仏の世界に順ずるもの)、④「煩悩」(仏の世界に違反するもの)、⑤「随煩悩」(煩悩から派生した仏の世界に違反するもの)、⑥「不定」(フジョウ)(その他)。(17-18頁)
《参考1-3》五十一の心所リストは、日常の行為・行動のリストでもある。(18頁)
《参考1-4》なお仏教は「善と悪」という枠組みは使わず、「善と煩悩」、「善と不善」と捉える。(18頁)

《参考2》世親『唯識三十頌(ジュ)』は、「六識」(五感覚の「前五識」と自覚的な「第六意識」)を表面領域とし、その意識下にうごめく自己愛・自己中心性を「第七末那識」(マナシキ)と名づける。そして「前五識」・「第六意識」・「第七末那識」の七識の発出元として、最深層の「第八阿頼耶識」(アラヤシキ)を配置し、私たちの心を重層的に捉える。つまり世親は「阿頼耶識(アラヤシキ)縁起」(頼耶縁起)(ラヤエンギ)を提唱した。私たちは、私たち一人ひとりの「心のはたらき」(「心所」)によって知られたかぎりの世界に住む!(21-22頁)

M  五十一心所①「遍行」(ヘンギョウ):どのような認識にもはたらく基本的な心所(心のはたらき)(5心所)!(50-51頁)
(1)触(ソク):「心を認識対象に接触させる」という心所(心のはたらき)。
(2)作意(サイ):「心を起動させる」という心所(心のはたらき)。
(3)受(ジュ):「認識の対象を苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める」という心所(心のはたらき)。
《感想》「認識」を価値中立的な認識に限定しない。むしろ本来的に「認識」は価値判断的である(苦とか楽、憂とか喜、あるいはそのどちらでもないと受け止める)と、唯識仏教は考える。
(4)想(ソウ):「受け止めたものを自己の枠組みにあてはめる」という心所(心のはたらき)。
《感想》「認識」するとは「受け止めたもの」を「自己の枠組み」(Ex. 類型的知識)にあてはめること、つまり「類型化」すること、あるいはより一般的には「言語化」することだ。
(5)思(シ):「認識対象に具体的に働きかける」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想(認識対象との非価値的・非行動的関係)でない。「認識」とは「認識する主体・主観(心)」と「認識対象」との関係づけ(「具体的に働きかける」こと)であり、その関係は、観想的(非価値的・非行動的)関係、価値的関係、行動的関係のすべてを含む。

N  五十一心所②「別境」(ベッキョウ):特別な対象だけにはたらく心所(心のはたらき)(5心所)!(51頁)
(6)欲(ヨク):(認識対象を)「希求する」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想でない。認識対象を「希求する」心所(心のはたらき)(「欲」)も「認識」に含まれる。
(7)勝解(ショウゲ):(認識対象を)「深く了解する」という心所(心のはたらき)。
(8)念(ネン):(認識対象を)「記憶する」という心所(心のはたらき)。
(9)定(ジョウ):(認識対象に)「集中する」という心所(心のはたらき)。
(10)慧(エ):(認識対象を)「択び分け、正邪を判断する」という心所(心のはたらき)。
《感想》唯識仏教においては、「認識」は単なる観想(認識対象との非価値的・非行動的関係)でない。認識対象を「択び分け、正邪を判断する」心所(心のはたらき)(「慧」)も「認識」に含まれる。

O 五十一心所③「善」(ゼン):仏の世界に順ずる心所(心のはたらき)(11心所)!(51-52頁)
(11)信(シン):「自己を真理に委ねる」という心所(心のはたらき)。
《感想》ここでの認識対象は「自己と(人間的and自然的)世界・宇宙との関係において何を至高の価値とするか」という問いに対する答えである。答えは「自己を真理に委ねる」ことだ。
(12)慚(ザン):「自らを顧み、また教えに照らして恥じる」という心所(心のはたらき)。
《感想》「自己を真理に委ねる」という至高の価値を希求して生きる時、慚(ザン)つまり「自らを顧み、また教えに照らして恥じる」という心所(心のはたらき)は「善」である。
《感想》そもそも「自己を真理に委ねる」という至高の価値を希求して生きるとは、「仏の世界」を希求しつつ生きることである。かくて「仏の世界に順ずる心所」である「善」の心所(心のはたらき)が、唯識仏教において目標となった。
(13)愧(キ):「他に対して恥じる」という心所(心のはたらき)。
(14)無貪(ムトン):「むさぼらない」という心所(心のはたらき)。
《感想》キリスト教の「七つの大罪」(①嫉妬、②傲慢、③怠惰、④憤怒、⑤強欲、⑥色欲、⑦暴食)と比較すると、「(13)愧(キ):他に対して恥じる」という心所(心のはたらき)は、「七つの大罪」のうち「②傲慢」に陥いらないことだ。また「(14)無貪(ムトン):むさぼらない」という心所(心のはたらき)は、「七つの大罪」のうち「⑤強欲、⑥色欲、⑦暴食」に歯止めをかけることに相当する。       
(15) 無瞋(ムシン):「排除しない」(※憎しみのないこと)という心所(心のはたらき)。
《感想》「(15) 無瞋(ムシン)」は、「七つの大罪」のうち「④憤怒」に陥いらないことに相当する。
(16) 無癡(ムチ)(無痴):「真理・道理に即する」(※妄想をもたないこと)という心所(心のはたらき)。
《参考》「無貪(ムトン)・無瞋(ムシン)・無癡(ムチ)」の三つを「三善根」という。これに対し「貪瞋癡(痴)」(トンジンチ)(むさぼり執着すること・憎しみをもち排除すること・妄想をもち真理・道理に暗いこと)を「三毒」(三根・三不善根)と言う。
(17)勤(ゴン):「精進。たゆまず努める」という心所(心のはたらき)。
(18)安(アン):「軽安(キョウアン)。身心がのびやかで、はればれとしている」という心所(心のはたらき)。
《感想》「仏」は身も心もおだやかなのだ。素晴らしいことだ。
《感想(続)》「障害」(平均的な身体・心の機能・構造から離れていること)のある身・心(メンタルな機能・構造)であっても、「のびやかで、はればれとしている」ことは可能だ。だから「安」(アン)は「健康」(多数派的な身体・心の機能・構造で、「障害」の反対概念)とは異なる。
(19)不放逸(フホウイツ):「欲望をつつしむ」という心所(心のはたらき)。
《感想》無貪(ムトン)(むさぼらない)に似るが、「貪」は行き過ぎた欲望だ。不放逸は、欲望そのものをコントロールし節制することだ。Cf.「腹八分」は欲望のコントロールすなわち「不放逸」だ。これに対し「七つの大罪」の一つでもある「⑦暴食」は「貪」である。
(20)行捨(ギョウシャ):「平等にして、かたよらない」という心所(心のはたらき)。(※楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態 。心の平静。かたよりのないこと 。心が平等で苦楽に傾かないこと 。)
《感想》「行捨(ギョウシャ)」はエピクロス学派(通俗化され快楽主義と呼ばれる)が幸福の必須条件として主張した「アタラクシア」(静安)に似る。「アタラクシア」は他のものに乱されない,平静な心の状態。エピクロス学派では、幸福は「快楽」にあるが,「外的なものにとらわれず欲望にとらわれない内的な平静」が最大の快楽であるとする。Cf. キケロがエピクロスの説を通俗化し、享楽を正当化する唯物論的な「快楽主義」と同一視させた。詩人のホラティウスはふざけて自分を「エピクロスの獣群のなかの豚」と呼んでいた。
(21)不害(フガイ):「いのちをあわれみ、他を悩ませない」という心所(心のはたらき)。(※非暴力。他を害しないこと。他者への思いやりの心すなわち慈悲心。)

P 五十一心所④「煩悩」(ボンノウ):仏の世界に違反する心所(心のはたらき)(6心所)!(52-53頁)
(22) 貪(トン):「むさぼる」という心所(心のはたらき)。
(23) 瞋(シン):「排除する」(※憎しみをもつ)という心所(心のはたらき)。
(24) 癡(チ)(痴):「真理・道理に暗い」(※妄想をもつ)という心所(心のはたらき)。
《感想》これら(22) 貪(トン)・(23) 瞋(シン)・(24) 癡(チ)は、五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(14)無貪(ムトン)(むさぼらない)・(15) 無瞋(ムシン)(排除しない、※憎しみのないこと)・(16)無癡(無痴)(ムチ)(真理・道理に即する、※妄想をもたない)と反対の心所だ。
《参考》「無貪(ムトン)・無瞋(ムシン)・無癡(ムチ)」の三つを「三善根」という。これに対し「貪瞋癡(痴)」(トンシンチ)(むさぼり執着すること・憎しみをもち排除すること・妄想をもち真理・道理に暗いこと)を「三毒」(三根・三不善根)と言う。

(25)慢(マン):「自己を恃み、他をあなどる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(13)愧(キ)(他に対して恥じる)と反対の心所だ。
(26)疑(ギ):「真理・道理をわきま得ず、疑う」という心所(心のはたらき)。
(27)悪見(アッケン):「誤った見解に立つ」という心所(心のはたらき)。
《感想》これら(26)疑(ギ)・(27)悪見(アッケン)は、五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(11)信(シン)(自己を真理に委ねる)・(12)慚(ザン)(自らを顧み、また教えに照らして恥じる)と反対の心所だ。

Q 五十一心所⑤「随煩悩」(ズイボンノウ):煩悩から派生した仏の世界に違反する心所(心のはたらき)(20心所)!(53-54頁)
(28)忿(フン):「腹を立て、危害をくわえようとする」という心所(心のはたらき)。Cf. 諺に「短気は損気」、「ならぬ堪忍するが堪忍」とある。
(29)恨(コン):「うらむ」という心所(心のはたらき)。Cf. 諺に「人を呪わば穴二つ」とある。
(30)覆(フク):「隠し立てする」という心所(心のはたらき)。
(31)悩(ノウ):「他を悩ませる」という心所(心のはたらき)。
(32)嫉(シツ):「ねたむ」という心所(心のはたらき)。《感想》キリスト教の「七つの大罪」のひとつは「①嫉妬」だ。
(33) 慳(ケン):「ものおしみする」(※ケチで欲深い)という心所(心のはたらき)。
(34) 誑(オウ):「たぶらかす」という心所(心のはたらき)。
(35) 諂(テン):「へつらう」という心所(心のはたらき)。
(36)害(ガイ):「いのちへの思いやりがなく、他をなやませる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(21) 不害(いのちをあわれみ、他を悩ませない)(※非暴力、他を害しないこと、他者への思いやりの心すなわち慈悲心)と反対の心所だ。
(37) 憍(キョウ):「うぬぼれる」という心所(心のはたらき)。
(38)無 慚(ムザン):「自らを顧みず、また教えに照らして恥じない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの (12)慚(ザン)(自らを顧み、また教えに照らして恥じる)と反対の心所だ。
(39) 無愧(ムキ):「他に対して恥じない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの (13)愧(キ)(他に対して恥じる)と反対の心所だ。
(40) 掉挙(ジョウコ):「気持ちが騒がしく浮き立つ」(※心が昂ぶり頭に血が上った状態)という心所(心のはたらき)。
(41) 昏沈(コンジン):「気持ちが深く沈む」という心所(心のはたらき)。(※昏沈(コンジン)は「掉挙(ジョウコ)」の対義語。)
《感想》五十一心所⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)のうち、この(40) 掉挙(ジョウコ)と(41) 昏沈(コンジン)は、平静な心を失っているため煩悩とされる。Cf. これに対して五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(20)「行捨(ギョウシャ)」は「平等にして、かたよらない」という心所(心のはたらき)だ。「行捨」は楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態 、心の平静、かたよりのないこと 、心が平等で苦楽に傾かないことだ。
(42)不信(フシン):「真理を顧みない」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(11)信(シン)(自己を真理に委ねる)と反対の心所だ。
(43)懈怠(ケタイ):「なまける」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(17)勤(ゴン)(精進、たゆまず努める)と反対の心所だ。《感想》キリスト教の「七つの大罪」のひとつは「③怠惰」である。
(44) 放逸(ホウイツ):「欲望のままにふるまう」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所③「善」(ゼン)のうちの(19)不放逸(フホウイツ)(欲望をつつしむ)と反対の心所だ。
(45)失念(シツネン):「記憶を失う」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらく5心所)のうちの(8)念(ネン)(記憶する)と反対の心所だ。
(46)散乱(サンラン):「集中を欠いて乱れる」という心所(心のはたらき)。Cf. 五十一心所②「別境」(ベッキョウ)(特別な対象だけにはたらく5心所)のうちの(9)定(ジョウ)(集中する)と反対の心所だ。
(47)不正知(フショウチ):「誤って理解する」という心所(心のはたらき)。

《感想》五十一心所④「煩悩」(ボンノウ)(6心所)および⑤「随煩悩」(ズイボンノウ)(20心所)は、仏への不信心と共に、日常的な悪い心がけ・態度・行為・感情・意図等の一覧と言える。

R 五十一心所⑥「不定」(フジョウ):その他の心所(心のはたらき)(4心所)!(※善にも悪・不善にも働く!)(※ともに起こる心所により善あるいは悪・不善となり、それ自体では一方的に性格づけられない!)
(48)悔(ケ):「くやむ」という心所(心のはたらき)。
(49)眠(ミン):「ねむたくなり、身心の自在を失う」という心所(心のはたらき)。
(50)尋(ジン):「認識の対象をおおざっぱに思いはかる」という心所(心のはたらき)。
(51)伺(シ):「認識の対象を詳細に思いはかる」という心所(心のはたらき)。
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