※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その4)(193-198頁)
(42) 「行為」or「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する!
★「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)
Cf. 金子武蔵氏の (三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」の段階は、ヘーゲル『精神現象学』では(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)である。
Cf. 「思考の諸規定」はヘーゲルにとっては、彼が「論理学」において示したように、「三一的統一」(Cf. 正・反・合)をもって貫かるべき「弁証法的」運動においてのみ「統一」を形づくるべきものだ。したがって「『個別態』が『特殊態』を通じて『普遍態』に、すなわち『具体的普遍としての個別態』になる」のである。(181頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
★なぜ「行為的理性」も「個別態」から始まるかといえば、「観察」を通じて発生した当初には、「行為的理性」も直接的感性的であるほかないからだ。(194頁)
《参考》「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)
(43)「行為」or「行為的理性」における(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)の段階!「快楽(ケラク)」は「欲望」と異なる!「快楽(ケラク)」は、「満足」を「物」とのあいだにではなく、「他の自己意識」とのあいだに求める!
★このa「快楽ケラクと必然性サダメ」という見出しについては、ヘーゲル個人の体験が背景になっている。(194頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は、「理性的な人」で若い頃から「老人」とあだ名されていた。だが1800年(30歳)イエナ大学の私講師となったヘーゲルは、イエナでのゲーテ、シラー、シュレーゲル兄弟など文学者との社交を楽しむようになる。(194-195頁)
☆ヘーゲルは、敬虔な宗教的家庭に育ち神学校に学び、また窮屈な家庭教師の生活をしていた。イエナでの今までと打って変わった華やかな雰囲気の中で、ヘーゲルはフィッシャーという女性と恋仲になり、やがて2人の間に子供(庶子)が生まれた。ヘーゲルは1808年(38歳)、ニュルンベルク高等学校(ギムナジウム)の校長となり、1810年(40歳)ニュルンベルクの名門の娘と結婚する。この奥さんはいい人で、「小ヘーゲル」(庶子)を引き取って世話した。ヘーゲルは1816年(46歳)ハイデルベルク大学の教授となる。「小ヘーゲル」はやはり庶子では居心地が悪いと見えて、実母の出身地のオランダに移住した。(195-196頁)
★(C)(AA)「理性」B「行為」(「理性的自己意識の自己自身による実現」)における(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)は、(B)「自己意識」の個別態たる「欲望」に似ているが、同じではない。(196頁)
☆「欲望」が「生命」の立場からするものとして「物」に対するものであるのに対し、「快楽(ケラク)」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」の発展たる「理性」を背負っているものとして、「満足」を「物」とのあいだにではなく、「他の自己意識」とのあいだに求める。(196頁)
☆「快楽(ケラク)」は「社会的なもの」であり、「人間と人間とのあいだ」にのみ成立する。(196頁)
《参考1》 (B)「自己意識」の段階において、「自己」はまず「欲望」という態度をとる。(129頁)
《参考2》 (B)「自己意識」は普通、(A)「対象意識」と相即したもののように考えられている。だがヘーゲルは、(B)「自己意識」は「他の自己意識」と相即すると考える。かくてヘーゲルは(C)(BB)「精神」というものは「我なる我々」、「我々なる我」であると言う。・・・・ヘーゲルの「精神」なるものは、社会的なものであり、人倫的なものである。(36-37頁)
《参考2-2》「『精神』は『我々なる我』であり『我なる我々』である」というのは、ヘーゲル『精神現象学』のこれからのちの全部に通じるプリンシプルであり、いろいろの段階はこのプリンシプルの展開である。(135-136頁)
《参考2-3》「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)
(43)-2 「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ!
★「人格」と「人格」との間には、「結合あるいは肯定」のほかに「分離あるいは否定」・「否定の隔たり」があり、「連続」のほかに「非連続」がある。ところがこの「非連続」の面を忘れてしまって、「連続」の面だけみてとり、そして「他人」のうちに「自分自身の満足」を求めようとするのが「快楽(ケラク)」の段階だ。かくて「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ。(196頁)
★歴史的に言えば、(C)(AA)「理性」A「観察」の段階が「ルネッサンスに始まる科学研究」を背景とするように、(C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」(「行為」)a「快楽(ケラク)」の段階は、「中世クリスト教の禁欲主義から解放された当時の人間が地上的快楽に目覚めたこと」を材料としている。(196頁)
☆ボッカッチョ『デカメロン』(1348-1353執筆)は当時の人間が「愛欲」に身を委ねたことを示す。(196-197頁)
☆ゲーテ『ファウスト』(第1部1808)におけるグレートヘンとファウストの恋愛についてヘーゲル『精神現象学』が引用している。ヘーゲル自身の体験が織り込まれ、「快楽(ケラク)」の段階が展開される。(197頁)
(43)-3 (C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」(「行為」)a「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」:「子供」が生まれると、「家族や社会や国家」の一員としての「義務」が「運命の必然性(サダメ)」と感じられる!
★ところで「愛欲」に身を委ねるとき、多くの場合、「子供」が生まれる。(Ex. ファウストとグレートヘンの間、Ex. ヘーゲルとフィッシャーの間。)子供が生まれると、さまざまの絆にほだされ身動きが出来なくなる、これをヘーゲルは「必然性(サダメ)」と呼ぶ。(197頁)
☆「快楽(ケラク)」に身を委ねる者は、自分自身の「満足」だけを、自分の「個別性」を満足することを求める。自分の「個別性」が一切であるという気持ちから「快楽(ケラク)」に身を委ねる。(197頁)
☆だが「子供」が生まれ、育てたり教育したりしなければならなくなると、自分の「個別性」も、「家族や社会や国家」との強いつながりのうちにあることがわかる。「家族の一員」としての、「社会の一員」としての「義務」が「運命の必然性(サダメ)」と感じられる。かくて「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」という題がこの段階につけられている。(197頁)
★ここでヘーゲルは、ここに「『個別性』も、『特殊性』を通じてさらに『普遍性』にいたる運動」、あるいは「『量』の範疇」であれば「『単一性』が『数多性』を通じて『総体性』に向かっていくという運動」の成立していることを強調する。(197-198頁)
☆「快楽(ケラク)」に身を委ねた者も、そういう「理法の動き」を認めざるをえず、「『単一性』(『個別性』)といっても、じつは『総体性』(『普遍性』)を根拠としてのみ成り立っている」ことをひしひしと感ぜざるをえない。この意味で「必然性(サダメ)」があるのだ。(198頁)
《参考》「範疇」はカントでも確かに、相反する契機を含む。たとえば「量」の「範疇」は「単一性」と「数多性」の綜合としての「総体性」だが、このことはカントでは十分な展開をえていない。しかしヘーゲルは、フィヒテに啓発されて、これらの契機(「単一性」・「数多性」・「総体性」)間に弁証法的関係を認めて、すなわち「量」とは一方で「単一」でありながら、他方では「数多」なものであり、これらが「相互に結合する」ことによって「総体性」として成立すると、ヘーゲルは3つの契機に弁証法的関係を認める。(159頁)
★とは言え「快楽(ケラク)」の段階はどこまでも「個別性」あるいは「単一性」を重んずるものだから、「『個別性』(『単一性』)が『数多性』を通じて『総体性』に至る」という「理法の動き」は、なにか嫌なもの、自分を強く拘束するものと感ぜられ、即ち「運命的必然性(サダメ)」と受け取られ、嫌々ながら服従されるにすぎない。(198頁)
☆「理法」がいやいやながらでなく、喜んで服従されるようになれば、「人倫」の境地に達しているが、「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」の段階では、まだ「人倫」の境地とは程遠い。(198頁)
★とにかく「快楽(ケラク)」に身を委ね、「子供」でも生まれると、「浮き世の絆」がひしひしと自分を縛る。そうなってくると、「自分」も「ただ自分だけで存在している」ものではなくて、なにか「普遍的法則的なものの中に存在している」ものだということが、いまさらながら解ってくる。そこで次の「心胸(ムネ)」の法則という段階に移って行く。(後述)(198頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)! (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)
《参考》「人倫」はヘーゲルの「 Sittlichkeit」の訳語としても用いられる。「人倫」は、家族,市民社会,国家において実現される「客観的な倫理」であり、「良心の命令に従う主観的な道徳」である「 Moralität (個人的道徳性) 」と対比される。
Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その4)(193-198頁)
(42) 「行為」or「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する!
★「精神」(「理性」)は、「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働きとしてのみ存在する」から、1「観察」(A「観察的理性」)に対して、さらに2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)が問題となる。(193頁)
☆「行為」即ち「行為的理性」は(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)と運動(展開)する。これ(個・特・普)はヘーゲルの「考え方、論理の運び方」でもある。(193-194頁)
☆論理的にいうと、(A)「対象意識」における《「感覚」→「知覚」→「悟性」》という運動、および(B)「自己意識」における《「欲望」→「承認」→「自由」》という運動が、(C)「理性」2「行為」(B「理性的自己意識の自己自身による実現」)においては、《 (イ)「快楽(ケラク)」(個別態)→(ロ)「心胸(ムネ)」(特殊態)→(ハ)「徳」(普遍態)という運動(展開)》となってくりかえされている。(193-194頁)
Cf. 金子武蔵氏の (三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」の段階は、ヘーゲル『精神現象学』では(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)である。
Cf. 「思考の諸規定」はヘーゲルにとっては、彼が「論理学」において示したように、「三一的統一」(Cf. 正・反・合)をもって貫かるべき「弁証法的」運動においてのみ「統一」を形づくるべきものだ。したがって「『個別態』が『特殊態』を通じて『普遍態』に、すなわち『具体的普遍としての個別態』になる」のである。(181頁)
《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
★なぜ「行為的理性」も「個別態」から始まるかといえば、「観察」を通じて発生した当初には、「行為的理性」も直接的感性的であるほかないからだ。(194頁)
《参考》「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)
(43)「行為」or「行為的理性」における(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)の段階!「快楽(ケラク)」は「欲望」と異なる!「快楽(ケラク)」は、「満足」を「物」とのあいだにではなく、「他の自己意識」とのあいだに求める!
★このa「快楽ケラクと必然性サダメ」という見出しについては、ヘーゲル個人の体験が背景になっている。(194頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は、「理性的な人」で若い頃から「老人」とあだ名されていた。だが1800年(30歳)イエナ大学の私講師となったヘーゲルは、イエナでのゲーテ、シラー、シュレーゲル兄弟など文学者との社交を楽しむようになる。(194-195頁)
☆ヘーゲルは、敬虔な宗教的家庭に育ち神学校に学び、また窮屈な家庭教師の生活をしていた。イエナでの今までと打って変わった華やかな雰囲気の中で、ヘーゲルはフィッシャーという女性と恋仲になり、やがて2人の間に子供(庶子)が生まれた。ヘーゲルは1808年(38歳)、ニュルンベルク高等学校(ギムナジウム)の校長となり、1810年(40歳)ニュルンベルクの名門の娘と結婚する。この奥さんはいい人で、「小ヘーゲル」(庶子)を引き取って世話した。ヘーゲルは1816年(46歳)ハイデルベルク大学の教授となる。「小ヘーゲル」はやはり庶子では居心地が悪いと見えて、実母の出身地のオランダに移住した。(195-196頁)
★(C)(AA)「理性」B「行為」(「理性的自己意識の自己自身による実現」)における(イ)「快楽(ケラク)」(個別態)は、(B)「自己意識」の個別態たる「欲望」に似ているが、同じではない。(196頁)
☆「欲望」が「生命」の立場からするものとして「物」に対するものであるのに対し、「快楽(ケラク)」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」の発展たる「理性」を背負っているものとして、「満足」を「物」とのあいだにではなく、「他の自己意識」とのあいだに求める。(196頁)
☆「快楽(ケラク)」は「社会的なもの」であり、「人間と人間とのあいだ」にのみ成立する。(196頁)
《参考1》 (B)「自己意識」の段階において、「自己」はまず「欲望」という態度をとる。(129頁)
《参考2》 (B)「自己意識」は普通、(A)「対象意識」と相即したもののように考えられている。だがヘーゲルは、(B)「自己意識」は「他の自己意識」と相即すると考える。かくてヘーゲルは(C)(BB)「精神」というものは「我なる我々」、「我々なる我」であると言う。・・・・ヘーゲルの「精神」なるものは、社会的なものであり、人倫的なものである。(36-37頁)
《参考2-2》「『精神』は『我々なる我』であり『我なる我々』である」というのは、ヘーゲル『精神現象学』のこれからのちの全部に通じるプリンシプルであり、いろいろの段階はこのプリンシプルの展開である。(135-136頁)
《参考2-3》「精神」は本来的にはⅧ「絶対知」であるが、それに比較的近い段階(Ⅵ「精神」)では、「精神」は「我なる我々」あるいは「我々なる我」として、広い意味における「社会的」なものである。つまりそれは「人倫の国」において成立する。(157頁)
(43)-2 「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ!
★「人格」と「人格」との間には、「結合あるいは肯定」のほかに「分離あるいは否定」・「否定の隔たり」があり、「連続」のほかに「非連続」がある。ところがこの「非連続」の面を忘れてしまって、「連続」の面だけみてとり、そして「他人」のうちに「自分自身の満足」を求めようとするのが「快楽(ケラク)」の段階だ。かくて「快楽(ケラク)」とはあからさまに言えば男女間の「愛欲」だ。(196頁)
★歴史的に言えば、(C)(AA)「理性」A「観察」の段階が「ルネッサンスに始まる科学研究」を背景とするように、(C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」(「行為」)a「快楽(ケラク)」の段階は、「中世クリスト教の禁欲主義から解放された当時の人間が地上的快楽に目覚めたこと」を材料としている。(196頁)
☆ボッカッチョ『デカメロン』(1348-1353執筆)は当時の人間が「愛欲」に身を委ねたことを示す。(196-197頁)
☆ゲーテ『ファウスト』(第1部1808)におけるグレートヘンとファウストの恋愛についてヘーゲル『精神現象学』が引用している。ヘーゲル自身の体験が織り込まれ、「快楽(ケラク)」の段階が展開される。(197頁)
(43)-3 (C)(AA)「理性」B「理性的自己意識の自己自身による実現」(「行為」)a「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」:「子供」が生まれると、「家族や社会や国家」の一員としての「義務」が「運命の必然性(サダメ)」と感じられる!
★ところで「愛欲」に身を委ねるとき、多くの場合、「子供」が生まれる。(Ex. ファウストとグレートヘンの間、Ex. ヘーゲルとフィッシャーの間。)子供が生まれると、さまざまの絆にほだされ身動きが出来なくなる、これをヘーゲルは「必然性(サダメ)」と呼ぶ。(197頁)
☆「快楽(ケラク)」に身を委ねる者は、自分自身の「満足」だけを、自分の「個別性」を満足することを求める。自分の「個別性」が一切であるという気持ちから「快楽(ケラク)」に身を委ねる。(197頁)
☆だが「子供」が生まれ、育てたり教育したりしなければならなくなると、自分の「個別性」も、「家族や社会や国家」との強いつながりのうちにあることがわかる。「家族の一員」としての、「社会の一員」としての「義務」が「運命の必然性(サダメ)」と感じられる。かくて「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」という題がこの段階につけられている。(197頁)
★ここでヘーゲルは、ここに「『個別性』も、『特殊性』を通じてさらに『普遍性』にいたる運動」、あるいは「『量』の範疇」であれば「『単一性』が『数多性』を通じて『総体性』に向かっていくという運動」の成立していることを強調する。(197-198頁)
☆「快楽(ケラク)」に身を委ねた者も、そういう「理法の動き」を認めざるをえず、「『単一性』(『個別性』)といっても、じつは『総体性』(『普遍性』)を根拠としてのみ成り立っている」ことをひしひしと感ぜざるをえない。この意味で「必然性(サダメ)」があるのだ。(198頁)
《参考》「範疇」はカントでも確かに、相反する契機を含む。たとえば「量」の「範疇」は「単一性」と「数多性」の綜合としての「総体性」だが、このことはカントでは十分な展開をえていない。しかしヘーゲルは、フィヒテに啓発されて、これらの契機(「単一性」・「数多性」・「総体性」)間に弁証法的関係を認めて、すなわち「量」とは一方で「単一」でありながら、他方では「数多」なものであり、これらが「相互に結合する」ことによって「総体性」として成立すると、ヘーゲルは3つの契機に弁証法的関係を認める。(159頁)
★とは言え「快楽(ケラク)」の段階はどこまでも「個別性」あるいは「単一性」を重んずるものだから、「『個別性』(『単一性』)が『数多性』を通じて『総体性』に至る」という「理法の動き」は、なにか嫌なもの、自分を強く拘束するものと感ぜられ、即ち「運命的必然性(サダメ)」と受け取られ、嫌々ながら服従されるにすぎない。(198頁)
☆「理法」がいやいやながらでなく、喜んで服従されるようになれば、「人倫」の境地に達しているが、「快楽(ケラク)と必然性(サダメ)」の段階では、まだ「人倫」の境地とは程遠い。(198頁)
★とにかく「快楽(ケラク)」に身を委ね、「子供」でも生まれると、「浮き世の絆」がひしひしと自分を縛る。そうなってくると、「自分」も「ただ自分だけで存在している」ものではなくて、なにか「普遍的法則的なものの中に存在している」ものだということが、いまさらながら解ってくる。そこで次の「心胸(ムネ)」の法則という段階に移って行く。(後述)(198頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)! (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)
《参考》「人倫」はヘーゲルの「 Sittlichkeit」の訳語としても用いられる。「人倫」は、家族,市民社会,国家において実現される「客観的な倫理」であり、「良心の命令に従う主観的な道徳」である「 Moralität (個人的道徳性) 」と対比される。