本願寺から「永代経法要のご案内」が送られてきて、親爺の25回忌が近いことに気づいた。
せっかくの案内だったが、このご時世、とても京都まででかける勇気がないので参拝はできない。
ただ、親爺の25回忌法要を本願寺で執り行ってくれるのを知った。そうであれば、我が家での法事はいらない? でも、そんなことをお坊さんに聞くのも気が引けて・・・
仏壇の引き出しにいれてある「故人の法要一覧」を確認した。
とにかく忘れないうちにと、親爺の25回忌について、早速、家族や親戚と相談した。コロナ禍の中、家族だけで「法事」をすることになった。
彼岸で仏さん参りしてくれた「お坊さん」に、法事の日程や家族だけで執り行うことを相談した。『その頃は、檀家さんもみかん収穫で忙しいし、ガラガラ。いつでもいいです。昼でも夜でもいいです』と。
祥月命日に近い日の夜に法要をお願いした。親類縁者を呼ばず、家族だけでひっそりと法要する初めての法事となった。
・・・なぜ 永代経法要?・・・・
それにしても、自分には親爺の永代経法要を申し込んだ記憶がない。今まで「ハガキ」が来たことも覚えていない・・・
亡き母が申し込んでいたとしか考えられない・・・
突然、頭の中が亡き母のことに切り替わった。「7回忌も終わっているのに、納骨するの忘れてる!」
が、コロナ収束の兆しがみえるまで京都には行く気にならないし・・・でも気づいた時に「納骨」に行かなければ、また忘れてしまいそう・・・
まあ エエっか!
・・・法要・法事って?・・・
この機会にと、書棚に眠っていた「仏事のイロハ」を開いてみた。
教祖が親鸞さんの浄土真宗では、「故人は、死と同時に阿弥陀如来の力によって極楽浄土へ迎えられ、仏さまに成っている」と教えられる。
そのため、葬儀をはじめとした法要は、「故人の冥福を祈るためではなく、生きている人が故人によって仏縁を授かる機会という考え方」です。
すなわち、法事は、その場に参集した家族、縁者の一人ひとりが仏法を自分のこととして聞き味わってこそ、意義あるものとなるのです。亡き人を偲びつつ、仏法を聞く行事・・・これが法事です。
・・・フーン・・・・
我が宗派では、法事が「故人の冥福を祈るため」でなく、「生きている家族・縁者のための仏法行事」なんや。
今回の親爺の25回忌は、残念ながら家族のためだけで、縁者のためにはならない法事なんや。
でも、宗派の違う親類縁者が集まる法事だけに、意味あいは、それぞれで違うはずだし・・・
まあ エエっか!