土井地区から中空地区を通る小道は西国街道の当時の名残りを良く残しており、江戸期には西国諸大名の参勤交代や荷物逓送などの交通路として重要な役割を果たしていた。
当時の街道幅は2間半(4.92m)であったようであるが、現在の幅員は半分以下となっている。また街道の両側には旅人を日照や風雨などから守るために街道松が植えられていたものであろう。
明石地区の旧津和野街道の跡を進んでいくと明石川に架かる鉄筋コンクリート造の佐太良橋があり傍らに石碑が建立されている。碑文によると文政3年(1820)にこの地の佐太良が願主となって石橋を築造している。
佐太良は神仏を信仰して人の艱難を救ったり道や橋を繕うなど奇特な行いに、文政8年(1825)広島藩主から米3俵を与えられ賞せられたようである。
明石地区の野稲原から旧津和野街道の跡を進んでいくと汐見坂峠(現在明石峠)の手前に汐見坂の名残りがみられる。
明治15年(1882)から旧津和野街道の修築工事を行ったが部分的な改良工事であり、現在残っている汐見坂はこの改良した道とみられる。
旧街道に改良を加えたが険悪な道であったので、明治23年(1890)に県道として改良工事がほぼ現在の県道ルートに建設されて翌年に開通している。
大野西小学校前の交差点にある道しるべ碑で「右 宮島・広島道」「左 宮内道・妹背瀧道 滝迠約十一町半」とあり、大正9年(1920)に大野青年団によって建立されている。
中山経由の山間部を通る西国街道に替って海岸通りの新道は明治11年(1878)に着工して同13年に開通しており、ここが旧西国街道と合流するところであり新道への道しるべとして建立されたものである。
黒折地区の県道脇にある陸軍輸送港域第二区標石で、昭和15年(1940)に陸軍輸送港域軍事取締法に基づいて建立されたものである。この区域内ではいろいろな制限事項が定められており、産業や住民生活に大きな制約を受けていたのである。
ここの地は数年先に建設される県道廿日市環状線の予定地内に位置してすでに住宅は立ち退きされており、この石碑も取り除かれて移設されるものとみられる。
宮内明石口の旧県道脇にある道しるべ碑で「つわのちかみち」とあり、大正8年(1919)に明石青年団が建立している。
明治24年(1891)には旧津和野街道の改良工事が行われて県道津和野線が開通した。汐見坂峠へは急峻なために七曲りと云われたつづら折れ道を設けていたので長い距離となっており、徒歩の場合は旧津和野街道が近道であったのでこのような道しるべ碑が建立されたものとみられる。
宮内黒折地区の県道下にある旧津和野街道の一里塚跡石碑で、昭和56年(1981)頃までこのケ所に一里塚松があったところである。
石碑前の細い道が津和野街道の名残りで、この地は数年先に建設される県道廿日市環状線の予定地内に位置しているので取り除かれて移設されるものとみられる。
宮内馬ケ原地区の県道脇に安置祀られている馬頭観音で、旧津和野街道の脇にあったもので天保10年(1839)に祀られたものである。
ここ旧津和野街道は佐伯郡奥筋や石州、山代方面からの多くの小荷駄馬が行き来していたものとみられ、この地で行き倒れた馬を供養するために馬頭観音が安置されたものとみられる。
厳島神社の回廊など各所にはかつて奉納された数多くの絵馬がかつて掲額されていたが、現在はその一部が千畳閣に掲げてある。
この絵馬「釣鐘を背負う弁慶の図」は文政9年(1826)に広島藩の絵師山野峻峰斉が描いたようである。三井寺には重文の弁慶引き摺り鐘が残されており、この鐘を引き摺って比叡山まで持ち帰ったという逸話の図である。
高畑地区にある孝子久蔵の標石で昭和35年(1960)に建立されている。
この地の小百姓久蔵は貧しいながらも妻と共に懇ろに母親孝行などをし、その律儀さに広島藩主からたびたび米、銀を、また家老上田家の給地であったので給主からもたびたび賞されたようである。
天満神社境内社で以前紹介した琴毘羅神社の前に祀られている淡島神社で、女神を祀ったもので女性の信仰が厚かった。
昔、櫛やかんざしが供えてあったようで、昭和50年代頃は月遅れの4月3日が祭り日であったが現在は桃の節句の3月3日のようである。
宮内畑口地区に安置祀られている馬頭観音で、この付近は西国街道から津和野街道が分岐するところである。
また砂原から津和野街道のバイパス的な道が出会うところでもあり、多くの小荷駄馬が行き来していたものとみられ、この地で行き倒れた馬を供養するために馬頭観音が安置されたものとみられる。
陽光台団地に開店間近のスーパーには住宅地で病院前であるが強烈な色彩の看板が設けられている。
大規模小売店舗の設置に際して配慮すべき事項は交通渋滞、駐車・駐輪、交通安全、騒音、廃棄物等となっているようであるが景観の配慮は必要ないのであろうか。
河津原地区にある河津原八幡神社の本殿裏手の神木に古い注連縄が巻き付けてあった。残骸もみられるので毎年巻き付けられているようである。
古い時代に山鎮め神事が行われていたものがすたれて、藁蛇が形を変えて注連縄の巻き付けと化して行われているものだろうか・・・