亡命政権
戦争や革命によって国外に亡命した政府首脳部が、そこで政府を組織し、一応正統な政府としてみとめられているもの。:広辞苑第六版
亡命政権(亡命政府)で思い出すのは次のようなものです。
南北朝時代(1336-1392)に吉野などで作られた広義の国内亡命政権でしたが、のちに南北統合されたり、反故にされたりします。
明の残党が各地で広義の国内亡命政権を作ったものの、清に滅ぼされました。この記事の末尾に引用文があります。
中国に武力併合されたチベットのダライ・ラマが、1959年に国外のインド北部に設立した政権。
中国の暴力性はその後もなくなるどころか、ますます勢いを増しております。
チベットやウイグルなどで発生する無数の「国内での暴動」をみていると、時代にそぐわない中国共産党の弾圧がよく理解できるでしょう。最近では核戦争を辞さないとする現役軍人の発言や南沙諸島での埋立て軍事拠点化などで如実にあらわれています。
北朝鮮に目を奪われていますが、それ以上に危険なのが中国共産党なのでした。
シリアを追われたISが東進し、中央アジアや中国西部で暴れることを憂えています。
しかし長続きしそうにない中国の極端な弾圧をなくさせるためとはいえ、どこかに「ISに期待する」ところがあるのは、内戦・革命勃発を期待するのと同様、決して誉められたことではありません。
とはいえ「毒をもって毒を制す」のは、中国・習近平の「汚職を使って汚職を撲滅する」やフィリピン・ドゥテルテの「超法規的殺人で麻薬を撲滅する」のを見ていると、避けられない自業自得なのかとも思ってしまいます。
世界中が中国をISから守る方向に動かないのは、一体なぜなのか、興味あるテーマです。
八方ふさがりの中国に幸あれと祈らずにはいられません。
日本併合時代に、国外の中国で設立された政権で、中国共産党から支援を受けていたとされます。
現在の韓国で、今の大韓民国憲法の「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府」を強調すればするほど韓国は中国共産党に接近してしまいます。中国と韓国が国交を結ぶ前はもちろん禁句だったでしょうが、1992年に中国・韓国の国交が樹立されてから、堂々と述べることができるようになったようです。
ただし韓国には朝鮮戦争(1950-1953)以来の根強い「反中」意識もあるようですが、「反日」という点では十分に共闘できるはずです。これは中国共産党が「反日」を利用して、韓国を取り込もうとしていると解釈できます。
韓国が左翼政権になった(文在寅 2017/05/10- )からかも知れませんが、どうやら1000年以上の歴史には逆らえないようで、韓国は限りなく中国へ接近しつつあり、これに反するように、北朝鮮が中国から離れつつあります。
あれほど共産主義を嫌っていた反共の韓国が中国に接近し、共産主義風の北朝鮮が中国から離れつつあるという「ふしぎな現実」ですね。いつまでたっても朝鮮半島は、その場その場で揺れ動く不可解な地域なんです!
韓国の「反共」:2015.06.15 荒木和博(拓殖大学海外事情研究所教授)
韓国では、実際に体験した共産主義の恐怖が大勢を占めていたようで、それが反共法(1961-1980)に見られますが、それも徐々に消えてゆき、後半になると惰性的になってしまい、「ひたすら共産主義者だから弾圧する」だけになっていたようです。
今(2017/11/29現在)はまさに左翼全盛と言える韓国ですが、みるところ誰よりも熱しやすく冷めやすい極端な「二極論者」「二元論者」ばかりのようですから、これを敷衍(ふえん)すれば、やがて韓国は何らかの理由を見出して再び反共に振れることでしょう。韓国では「極端な反共→左翼全盛(現在)→反共(近未来)」となると考えられます。どういう形態で戻るか、まだ分かりませんが、北朝鮮問題が大きく影響していることは否めないようです。
北朝鮮問題のあとで再び韓国が反共に振れそうなのは、多様性がない国の宿命なんでしょう。その反動か、韓国人の日常的な権利意識は、もう韓国の法を越(超)えています!←法が未熟というべきです
第2次大戦中にドイツに占領されたフランスが、イギリスで設立しました。
近くアメリカで設立されるかも知れませんが、金正男(キム・ジョンナム )がその首脳に抜擢されるのではと噂されたため、マレーシアで暗殺されたのでしょうか。
尤も金正男がそれを受けていたかどうかは、分かりませんが、北朝鮮にとって「のどに引っかかった魚の骨」状態が続いたため、犯行に及んだものでしょう。
さてさて、皆様はどう思われますか。
1644年、李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍な清の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった。:Wikipedia