カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

韓国の醜聞294 中国が韓流を解除か

2017年11月14日 11時12分45秒 | アジア

たとえそれが、事実であろうとも、なかろうとも、誰にも醜聞があります。ここでは最近の「韓国の醜聞」を集めてみました。必要な方のために出典も明示し、あればリンクも提示しています。ただしリンク先を私がすべて「熟読し・賛成している」とは限らないことをご理解賜わりますように。


中国の「韓流禁止令」解除か TVに韓国歌手出演・平昌五輪紹介も:韓国聯合ニュース 2017/11/02 14:52 


中国共産党が

「証拠を残して韓国が訴える」ことがないよう配慮しながら、THAADミサイルを韓国内に配備したのに対して韓国を経済制裁し始めてはや8ヶ月ですが、それ以前から経済制裁が始まっていました。

そんな経済制裁があっても中国に一言も文句をいわない韓国が、じつに奇妙ですね。そういえば朴槿恵のころから、異常に中国へ接近しておりましたので、何も変わっていない、され放題というところ。

今回(2017年11月)のトランプ訪中もあり、その制裁が解除され始めたのではないかとするニュース記事がありました。

しかし、ベトナムあたりでのトランプの見解では、訪中時期には封印してきた反中国の面もあり、今後どうなるか分かりません。やはりトランプの発言は、中国と同じで、その場しのぎでした。

そもそも

中国が、北朝鮮の暴走に備えての米製THAADミサイルの韓国内配備に反対して、製造元のアメリカではなく「韓国を経済制裁した」のが間違いだったのであり、その解除らしきことを喜ぶというのは、筋違いと言えます。

不思議なもんですね。ウクライナ領クリミア半島武力併合で経済制裁されているロシアがトルコを経済制裁しようとしましたし、今回も又あやしげなことをして半経済制裁されているとも言える中国が韓国を経済制裁しています。独裁国は、経済制裁されると、より弱そうな相手を経済制裁して鬱憤をはらすのでしょうか。

ただしこれにも事情があり・・・・・・

毛沢東の独裁をなくそうとし、やっと協議制にしたのに、習近平への権力一極化で、元の毛沢東の独裁へ戻る兆候ではないか、とする観測もあります。 

記事では

  1.  韓国の芸能人が中国のテレビに出演するようになってきた(中国共産党の独裁ですから、一気に禁止することができたのですが、今回これを解禁した)
  2. 韓流のインターネット配信を遮断してきたのが、緩和され始めた
  3. 韓流ドラマの放映も検討されているらしい
  4. 中国のテレビで平昌冬季五輪が特集された
  5. 香港でも平昌五輪の聖火リレーを生中継した

などが変化として語られていますが、どうなるかさっぱり分かりません。とにかく独裁国家ですから、予測は不可能です。  

合議制ではなく習近平へ権力が集中すれば

  1. 「反日はけしからん」という反対派を抑えられる可能性も、かすかにあり、これが良い面ですが〔一極集中していなければ、反対派の声も聞かねばなりません〕
  2. しかし一極集中すれば、習近平が何を言い出すか分らないため、怖い面もあるでしょう。 

さてさて、皆様はどう思われますか。


こわ~い童謡 赤とんぼ

2017年11月14日 04時45分44秒 | その他

意味がわからないまま歌っていた童謡。よく考えると、恐ろしい解釈もあるようです。歌詞に「地域差」があることは承知の上です。


赤とんぼ 

夕焼小焼の赤とんぼ おわれて見たのはいつの日か
山の畑の桑の実を こかごに摘んだはまぼろしか

十五でねえやは嫁に行き お里のたよりも絶えはてた
夕焼小焼の赤とんぼ とまっているよ竿の先 


否定的な解釈

その1

一緒に「桑の実をこかごに摘んだ」のは、母親(家出か離婚か死別か)だったのか、それとも姉か女中だったのか、などの説があります。

その2

「ねえや」は「姉」だったのかそれとも「年上の女中」だったのか。

「嫁に行き」が「実際に嫁に行った」のか「人身売買で売られた」のか、それとも女中だった場合ですが、奉公先や実家の都合で実家にもどっただけなのをやんわりと詐称(さしょう)したのか。

その3

「夕焼小焼の赤とんぼ とまっているよ竿の先」では、いろいろなことがあったけれども「赤とんぼは何も変わらないままとまっている」とする描写から、「国破れて山河あり(杜甫)」や「夏草や兵どもが夢の跡(松尾芭蕉)」の心境なのでしょうか。

何もなかったのに「とまっているよ竿の先」となるはずもなく、きっと深いわけがあったに違いない、と見るのが普通かも知れません。

その4

「おわれて見たのは」は、何かに「追われて見た」のではなく、「せおわれて見た」つまり誰かの背中で「見た」のでしょうね。

その5

「穂の先」にちがいないのに、これを「竿の先」としたのは、字数の問題で言い替えただけかも知れず、「竿」と比喩を使って広く連想させる効果を狙ったのでしょうが、強いて詮索すると「誰も頼ることがない釣り人の竿」を思わせ、「まぼろしか」「絶え果てた」などから、作者の孤独感を象徴している、とも受け取れますが、考えすぎでしょうか。

自分の過去をふり返りながら「そうあってはならない」と新しい境地を切り開いたつもりが、それさえも子々孫々へ受けつがれていくだけなのでしょうか。

肯定的な解釈

夕焼けごろに赤とんぼが何かの先っぽにとまっているのをみて、しみじみと「昔はよかった」と懐かしむ日本の代表的な童謡。 

子どもにも情緒を感じさせる歌の歌詞で、これぞ「童謡」の本質をついています。

    • 子どもにも決して害が伝わらない童謡らしい歌詞
    • 様々なことがあった大人にも故郷を懐かしく思わせる

「はかない短いとんぼの命」と「とても長い気がする私の人生」を対比させた無常観が日本人の心をとらえ、文学的な価値さえあります。

さてさて、皆様はどう思われますか。