孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

野球と坊主頭

2016年04月02日 | 社会観察
私の地元の中学校は、自宅から徒歩で10分程の所にあったが、敢えて私は選抜試験のあった隣町の中学校に入学した。

そう決めた切っ掛けは、小学校の担任の先生の「受けてみる?」という、何気ない一言だったと記憶する。もしかしたら、事前に私の母に相談した上でのことだったかもしれないが、私は躊躇することなく受験することを決めた。

担任の先生は、せっかちな方だったようで、すぐに願書を提出したらしく、届いた受験番号は001番だった。

私が何のためらいもなく受験を決心したのは、地元の中学校では男子は坊主頭と決っていたからだった。そのため、小学校6年生の冬になると、男子児童は中学校入学に向けて、一人、また一人と頭を丸刈りにし始めていた。

そんな周りの状況を見ながら、私は「なぜ中学生は坊主頭にしなければならないのだろうか。坊主頭にしないとどうなるのだろう・・・」などと、ぼんやりと疑問を抱いていたのだった。

幸い、隣町の中学校に入学できたので、頭を丸刈りにしなくても済んだ。以来、私は坊主頭にした経験がない。頭髪は頭を守るためのものだと、今でも思いは変わらない。

したがって、高校野球の選手たちの丸刈りを見る度に、強烈な違和感を覚えるのである。

今年の春の高校野球では、開会式で選手宣誓した小豆島高校野球部の主将が坊主頭ではなかったそうで、丸刈りでなくとも野球は出来るのかと少し驚いた。



数日前、朝刊のオピニオン欄に「増える丸刈り部員に違和感」というタイトルのコラムが掲載されていた。作家・スポーツライターの小林信也氏のオピニオン記事で、『プロ野球選手の野球賭博の発覚を契機に、野球選手たちのモラルや社会常識が問われているが、その温床は高校野球にもある。』と問題提起をしていた。



そして、野球選手の丸刈りは、大会の出場規定にあるわけでもないのに、野球をするには、ほとんど強制のようになっているのが現実で、それが日常の社会感覚とのズレになり、やがてそれが優越意識となり、本人たちはいわゆるエリートとは別の、「野球エリート意識」を心の中に膨らませていくことになる、と分析している。

「甲子園を目指している」というだけで、どことなく誇らしく、周囲から称賛されるような雰囲気もこれまであった、と記事にあったが、それは高校の教師達の態度にも表れていたことを、私は自分の高校生の頃を思い出すと蘇ってくる。

授業中、野球部の選手が居眠りをしていても、普段厳しい教師は何となく特別扱いをして、見てみぬフリを装っていることは、私にはたやすく感じとれたものだった。

やがて、そういう選手たちは自分が周囲からチヤホヤされていることを無意識に感じながら、次第に日常や社会から「ずれた感覚」を醸成していくことになるようだ。

記事は、朝日新聞と高野連が行った調査結果を紹介していた。それは、丸刈りの高校野球部に関する調査で、平成10年には31%だったのが、平成25年には79%に急増しているというものだった。つまり、高校野球では丸刈りが「常識化」しているというのが実態である。



小林氏の視点は的確で、『野球部員の丸刈りは、監督に絶対の服従を誓わせる「踏み絵」のように思える・・』そして、『・・走者もいないのに、打席から一球一球、監督の指示を仰ぐ選手を異様だと感じる・・』ことがよくあるそうだ。

この点、私も前々から同様に感じていた。さらに、これに続く小林氏の主張は私の感じていることを見事に代弁してくれていた。曰く・・・、

『高校生が主役であるはずの大舞台が、大人たちの駆け引きで勝負が決り、大人たちが社会的名声を得るための場と化して・・』いる。『球児への丸刈りの強制は、その根本ともつながっている・・・』



『・・高校野球は、監督の指示に従い、忠実な歯車になることをナインに求める傾向が強い。』そして、最後に小林氏は、このように締めくくっている。

『丸刈りを強制することは、見た目の髪型だけでなく、個人の自由な意思や発想を束縛し、制約していると、私たちも自覚すべきである。』

所詮、権力のお先棒担ぎ

2016年04月02日 | マスゴミ関連
日本の偏向報道の立役者のような自称ジャーナリスト、あるいは自称ニュースキャスターたちが、その番組改編という名目で、テレビ画面から消え去るそうで、これは大したことではないだろうが、少しは世のためにはいいことだと言えるのではないか。

その番組というのは、クローズアップ現代、報道ステーション、NEWS23などで、堂々と偏向した放送を垂れ流し続けて、世論を誘導しようとしてきた番組である。

中でも、TBSの日曜朝の報道番組でも、いつもジャーナリスト面をして偉そうなことをいい続けているチョビヒゲの岸井某などは確信犯の最右翼で、人の家に強盗に押し入っておいて、家の戸締りが悪すぎると説教をする、説教強盗のような御仁だと思う。

 「自称ジャーナリスト」

このチョビヒゲ、最後の番組で、『何よりも真実を伝え、権力を監視するジャーナリズムの姿勢を貫くことがますます重要になってきている』と語ったそうだから、見事な説教ぶりではないか。

さらに、同番組の顔だった女性アナウンサーもこの日で降板。『健全な批判精神を大切に、未来を考える材料を提供できたら、と取り組んできた』と話したというから、まるでこの二人、関西の夫婦漫才コンビのようであったようだ。

こういう連中の口を通じて、テレビ局は、あるいはその後ろで糸を引く新聞社は、世論誘導を巧妙に狡猾に企んでいるわけだ。雲行きが怪しいと感ずれば、偶人を取り替えるだけで、中身が変わるわけではない。

言い換えれば彼ら、自称ニュースキャスターや自称コメンテーターなどは、舞台で下手な演技をする河原乞食、あるいは腹話術のお人形みたいなもので、ちょっと教え込めば、マイク片手にピョンピョン跳ね回るアイドルタレントや、芸とは呼べない出し物しかできないオチャラケお笑い芸人でも、十分務まるわけである。



最近、党名を自分達で決められない政党があったが、その党の議員先生たちもマスゴミという「権力」のお先棒を担ぐように、国会の場で、「週刊誌にこうかいてあるが、これは本当ですか?」とか、「ネットに投稿されたチョメチョメのせいで、世間が大騒ぎですが、もしかして総理、知ってます?」などと、お得意の女の井戸端会議ぶりを見せているようだ。



こういう具合に女性議員たちが本領発揮してくれるお陰で、当の週刊誌は爆売れしているそうで、他社も自分の記者達に発破をかけて、日本中が出歯亀みたいな記者の視線で溢れているようだ。

たまに、病院の待合室などでパラパラめくって見る女性週刊誌みたいで、報道番組は楽しい出来事、悲惨な事件、有名人の醜聞、そして隅っこにたまに載っている為になる話などがごちゃ混ぜだが、限られた公共電波を信じられないほど安い使用料で専用する限りは、放送法をしっかり守るべきであることを忘れてはならない。