親父の3回忌の法要があったが、墓参りの後お寺でお茶をいただいている時、珍しく住職が雄弁に話し始めた。話題は、本堂が改修中のことで、本堂は昭和6年に建てられたと過去帳に書かれていて、当時は人口わずかの村であったが、村人総出で建てられたなど、当時の様子が何となく分かる興味深いものだったそうだ。
そして、建前の指揮をしたのは、何処どこに住む誰々という方だと住職が言ったとき、私も含めてその場にいた私の親族たち一同は、「ええぇ・・!」と声を上げて驚いた。何処どこに住む誰々というのは、まさしく30年ほど前に他界した私の祖父だったからだ。
明治生まれの祖父は、幼い私から見ると、まるでスーパーマンだった。家には、よく時代劇に登場する大工の熊さんが仕事に出かけるとき肩に載せて行く大工道具の入った道具箱と同じような木箱があり、祖父が買い揃えた大工道具一式が入っていた。幅1cm位のノミかから6cmくらいの大きなノミまで色々なサイズがあって、祖父はそれらの道具を使って、納屋や車庫などを一人で建ててしまうのだった。
山から木を切ってきては、菌を打ち込み近くの山できのこ栽培などもやっていた。冬は共同の炭焼き釜で、一人黙々と炭焼きをしていた。私が小学生になる前までは馬を一頭飼っていて、野良仕事に使っていたそうだ。近くの河原で行われた草競馬では、その馬に乗って優勝したこともあったそうだ。
いつも刻みタバコをキセルで吸っていた。日向ぼっこをしながら、わらの細い茎の部分をキセルに通してヤニ取りの掃除をしているのを、幼い私は興味深げに覗いて見ていた記憶がある。一服吸って、二服目を吸うときは、左の手のひらにまだ火の付いた刻みタバコをポンと落とし出し、手のひらの上でコロコロ動かしながら、キセルに二服目のタバコを詰め、手早く左手のタバコの玉にキセルの先を持っていき、火を移す様は、私の大好きな所作だった。
食事は極めて質素で、出されたおかずは必ずと言っていいほど、半分残し、蝿帳にしまうのだった。そして、茶碗にお茶を注ぎ、沢庵を一切れ取って、器用に茶碗に付いたご飯粒を掃除してから、沢庵を口にポイと放り込み、茶碗のお茶を飲み干した。
この一連の所作と同じ所作を、「たそがれ清兵衛」という映画の中で主人公の侍がするのを数年前に観た事があったが、祖父は別に武家の出身ではなかったので、昔の日本人のごくありふれた食後の所作だったのだろう。
時々、祖父あてに届く手紙に書かれた住所と宛名は、毛筆で書かれた私が読めない「草書体」だった。祖父は愛用の細い筆先を噛んでほぐしてから、同じ書体でサラサラと返事を書いていた。小学生のとき、私は田んぼのあぜ道に祖父と並んで座り、「おじいちゃん、筆で書く書き方ってどこで習ったの?」と、かねてから疑問に思っていたことを聞いたことがあった。すると、祖父は近くの鎮守の森を指差し、「昔あそこに寺子屋があってな、そこで習ったんだ。」と教えてくれた。子供の私はには、寺子屋の意味が理解できなかったが、きっと塾みたいなものだろうと想像した。
私が物心ついたときは、祖父はこれと言った定職はなかったようだが、わずかな農地と茶畑で自給自足のような暮らしぶりだったようだ。人望があり、世話好きであったそうだから、お寺の建前の指揮を執ったようだった。明治生まれの人は、ちょっと違うな、といつも思い出しては誇りに思う私である。
そして、建前の指揮をしたのは、何処どこに住む誰々という方だと住職が言ったとき、私も含めてその場にいた私の親族たち一同は、「ええぇ・・!」と声を上げて驚いた。何処どこに住む誰々というのは、まさしく30年ほど前に他界した私の祖父だったからだ。
明治生まれの祖父は、幼い私から見ると、まるでスーパーマンだった。家には、よく時代劇に登場する大工の熊さんが仕事に出かけるとき肩に載せて行く大工道具の入った道具箱と同じような木箱があり、祖父が買い揃えた大工道具一式が入っていた。幅1cm位のノミかから6cmくらいの大きなノミまで色々なサイズがあって、祖父はそれらの道具を使って、納屋や車庫などを一人で建ててしまうのだった。
山から木を切ってきては、菌を打ち込み近くの山できのこ栽培などもやっていた。冬は共同の炭焼き釜で、一人黙々と炭焼きをしていた。私が小学生になる前までは馬を一頭飼っていて、野良仕事に使っていたそうだ。近くの河原で行われた草競馬では、その馬に乗って優勝したこともあったそうだ。
いつも刻みタバコをキセルで吸っていた。日向ぼっこをしながら、わらの細い茎の部分をキセルに通してヤニ取りの掃除をしているのを、幼い私は興味深げに覗いて見ていた記憶がある。一服吸って、二服目を吸うときは、左の手のひらにまだ火の付いた刻みタバコをポンと落とし出し、手のひらの上でコロコロ動かしながら、キセルに二服目のタバコを詰め、手早く左手のタバコの玉にキセルの先を持っていき、火を移す様は、私の大好きな所作だった。
食事は極めて質素で、出されたおかずは必ずと言っていいほど、半分残し、蝿帳にしまうのだった。そして、茶碗にお茶を注ぎ、沢庵を一切れ取って、器用に茶碗に付いたご飯粒を掃除してから、沢庵を口にポイと放り込み、茶碗のお茶を飲み干した。
この一連の所作と同じ所作を、「たそがれ清兵衛」という映画の中で主人公の侍がするのを数年前に観た事があったが、祖父は別に武家の出身ではなかったので、昔の日本人のごくありふれた食後の所作だったのだろう。
時々、祖父あてに届く手紙に書かれた住所と宛名は、毛筆で書かれた私が読めない「草書体」だった。祖父は愛用の細い筆先を噛んでほぐしてから、同じ書体でサラサラと返事を書いていた。小学生のとき、私は田んぼのあぜ道に祖父と並んで座り、「おじいちゃん、筆で書く書き方ってどこで習ったの?」と、かねてから疑問に思っていたことを聞いたことがあった。すると、祖父は近くの鎮守の森を指差し、「昔あそこに寺子屋があってな、そこで習ったんだ。」と教えてくれた。子供の私はには、寺子屋の意味が理解できなかったが、きっと塾みたいなものだろうと想像した。
私が物心ついたときは、祖父はこれと言った定職はなかったようだが、わずかな農地と茶畑で自給自足のような暮らしぶりだったようだ。人望があり、世話好きであったそうだから、お寺の建前の指揮を執ったようだった。明治生まれの人は、ちょっと違うな、といつも思い出しては誇りに思う私である。
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