孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

再び、日本人の朴李化を憂う。

2015年09月09日 | 日記
東京五輪のロゴについてのいざこざは、収まったかに見えるようだが、相変わらず当のパクリエーター氏の過去の作品に関しての、「パクリだ」「オリジナルだ」の騒動は続いている。

しかし、私は今回の公儀である、組織委員会の事の収め方がどうもしっくり来なくて、個人的にはすっかり「テンションが下がってしまい・・」東京五輪に対する期待など雲散霧消してしまった。



今回の組織運営のあり方や問題が生じた際の対応の仕方、そしてその問題の真因の調査の仕方、責任の所在とその取り方・・と、何一つをとって見ても、本来あるべき姿からは程遠く、観ていて「ドッチラケ」てしまった。

製造業では、製品に不具合が発生したときは、なぜ起きたのか、それを起こす要因はなんだったのか。4Mといって、Man(人)、Machine(機械)、Material(材料)、Method(方法)に細分して、それぞれの起こりうる要因を抽出して調査し、分析し、不具合に至る根本原因を探り出すことに奮闘する。

一部門だけでは解決されそうも無いとなると、社内の全部門が集まり、さらに関連会社や親会社の専門家たちが勢ぞろいして議論することになる場合もある。

日本の製造業、あるいは工業力はこういう努力の積み重ねから今日の地位を得ていると言っても過言ではなかろう。

その末端にちょこっと関わってきた経験からすると、今回の騒動は、顧客から報告された製品の不具合情報を、「これは誰が悪い、彼が悪い、何が悪いという問題ではありませんよ。」と言って、不具合報告書を机の片隅にポンと放り投げたようなものだと感じている。

おそらく相当数の国民が私の抱く感情に似たものを感じているのではなかろうか。

本来、日本人はこんな風ではなかったはずだ。今回疑わしいロゴを取り下げることになったとき、その言い訳は別にして、「あぁ、日本人はやはり支那・朝鮮とは違う」と微かな安堵感を感じさせてくれたものだったが、その後がいけない。

赤穂浪士は、公儀の裁定に納得がいかず討ち入りから仇討ちに至った。江戸の町民たちも彼らに共感を抱いて事の成り行きと、公儀の対応を見守っていた。



忠臣蔵がこれほど日本人の心の琴線に触れ愛され続けてきたのには、それが日本人の独自性、同一性、カタカナ言葉でいえば、「アイデンティティー」であるからだ。

これが近頃かなり薄まってきて、丁度それまで年の瀬のお決まりだった「忠臣蔵」や「赤穂浪士」のドラマが見られなくなってきたことに重なるようだ。日本は、「朴李(パクリ)化」していると、私が繰り返し言うのはこのことなのだ。

欧米人のもっともらしい理屈や、隣国人たちの息を吐くように言い続ける嘘・出任せに日本はかなり汚染され、それが深刻化している。

進駐軍がとんでもない、「仇討ち」を奨励するようなこんなものは全面禁止だ、と指示したのは単に復讐を恐れただけではない。

それが、「日本人の背骨」、「バランス感覚の基本中の基本」のエピソードだったからに他ならない。

近松門左衛門の「仮名手本忠臣蔵」の中の創作(フィクション)だが、浪士たちに討ち入りに必要な武具を密かに援助した大阪の商人「天野屋利兵衛」という人物がいる。

近松は名前を「天河屋義平」として、登場させ、大石内蔵助ならぬ大星由良之助は、義平の真意を確かめるべく、仲間を忍び込ませる。

私が子供の頃父や祖父から聞いた話では、天野屋利兵衛は浪士を支援した疑いで役人に捕まり、徹底的に拷問されたのだが、シラを切り続けたそうだ。その時吐いた言葉が、「天野屋・・利兵衛は・・、男でござる・・。」だった。



小学生だった私は、この話が大好きになって、何度も父や祖父にせがんで聞いたのを覚えている。子供ながらに痺れるエピソードだった。

映画やドラマの赤穂浪士ではこのエピソードはあまり扱われていないので、どうも父や祖父たちは、今やすたれた浪曲や講談でこの話を仕入れていたのだと想像する。

面白いのは、この人物の話は近松の創ったフィクションかと思っていたら、何と京都の昆陽山地蔵院椿寺に墓があるそうだ。また、元禄時代に大阪の商人に「天野屋利兵衛」という人物も実在していたらしい。

らしいが、あまりのめりこむと、胡散臭い「郷土史研究家」が出てきそうだからこの辺で止めといた方が無難かもしれない。

私は、ただ2020東京五輪に対する冷め切ったテンションと、アスリート(この言葉使いたくも無いが)たちの複雑な心境を察すると、「公儀」に対しての不満が鬱積していくのである。

何とかこの溜飲を下げる方法は無いものか・・・。


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