去年台北旅行に行ったとき、「KANO」というタイトルのDVDを買ってきた。ブログにも書いたが、スポーツ根性物の実話に基いた台湾映画なのだが、全編ほとんど日本語である。かなりの長編大作映画だったが、これが台湾で大ヒットしたのだった。
KANOとは、嘉義農林学校の略称で、野球のユニフォームに縫い付けられた学校名である。そして、この中にも『八田與一』(はったよいち)は登場していた。
私はそれまで八田與一氏の名前も業績も、そして、この名前を知らない台湾人はいないほど、台湾では超有名な日本人であることもまったく知らなかった。
水源が無いため台湾の南部にあった嘉南平原は農作物は育たない荒地だった。
日本が日清戦争に勝利して、台湾を統治することになってから、東京大学で土木工学を学んだ八田與一氏は、嘉南平原の農業感慨を目的として台湾に渡った。1920年のことだった。10年の歳月をかけて、烏山頭ダムを造り、嘉南平原を台湾一の大穀倉地帯に一変させた功労者として、地元の農民達に慕われ、今でも彼の命日にはお墓が花で埋もれてしまうほどだという。
私が興味を抱いて、是非一度彼のお墓参りをしようと思い立ったのは、彼の残した業績のせいだけではなかった。工事中に被災して亡くなった方々を、日本人・台湾人のわけ隔てなく弔ったという、彼の姿勢のせいでもなかった。
それは、農民達の懇願を拒みきれずに、せめて見下すような銅像ではなく、腰を下ろした銅像を、と造ってもらったのだが、国民党軍が台湾にやってきて、銅や鉄の供出を強要した蔡に、農民達は八田の銅像を農家に隠して供出を免れたという、エピソードを知ったことだった。
更に、もう一つのエピソード。
ダムを完成させた後、八田が日本軍の輸送船に乗ってフィリピンに向う途中で、アメリカ軍の潜水艦に撃沈されこの世を去った。その翌年だったか、妻の外代樹(とよき)は、八田の造った水路に身を投げて、彼の後を追ったという、痛ましい話を知ったことがきっかけであった。
外代樹の写真がたくさん残っているが、見た感じ大柄の美人で、いかにも気骨のありそうなしっかり者の大和撫子のようだった。
当初、台北から嘉義までは台湾高速鉄道(新幹線)を利用しようかと考えたが、早朝台北駅のすぐ横にある、長距離バスのターミナルに行ったところ、ちょうど嘉義行きのバスが出るところだったので、チケットを買って飛び乗ったのだった。
嘉義まで3時間ちょっとで、350ドル(約1200円)。バスはエアコンがよく効いていて、しかもトイレつきだった。
高速道路の両側に広がる水田は、稲刈りがこれからという田んぼや、もうとっくに終えた田んぼが入り混じっていて、いかにも亜熱帯らしい光景が広がる。
ローカル鉄道の嘉義駅に到着したら、電車でダムまで最も近い隆田駅まで約40分。隆田駅前には、黄色のタクシーがたくさん止まっている。
切符、$52(約180円)
ローカル線車内
うさんとうすいくー(烏山頭水庫)と言うと、タクシーの運転手は「800ドル」と言ってきた。ガイドブックには700ドルとあったが、頑固そうなお爺さんだったので、800ドルで了解した。
ダムまではタクシーで10分ほどで着くが、中に入ってからは広大すぎて、とても徒歩では廻れない。
広大なダム湖
素朴な記念館だった。
子沢山の八田與一
そして、いよいよ與一の銅像(座像)の場所へ。
銅像の後ろには、八田夫妻のお墓がある。
八田夫妻のお墓の横は、農業指導で活躍した、『技師中島力男氏分髪』の碑があった。
八田與一祈念館では豊富な写真やその説明と、映像での功績紹介もあり、なかなか充実していた。そして、当日も台湾人5~6名が熱心に展示物に見入っていたのが印象的であった。
最後に、工事中の事故などで亡くなった134名の為に建立された殉工碑を見た。なくなった順番に氏名が刻まれていた。確かに、日本人・台湾人の差別はなかった。そして、八田自らが書いたという慰霊文も読み取ることができた。
タクシーの運転手が最初に言った通り、隆田駅に戻ったのは、出発してから約2時間後であった。
今度は隆田から嘉義駅までの切符を買い一路嘉義へ。
さらに、嘉義駅から高速鉄道の嘉義駅までの無料シャトルバスに乗って、いわば新幹線の嘉義駅へ。
出来立てのきれいな嘉義駅で台北までの切符を自販機で購入。
買い方は、事前に youtube で見ておいたので、何の苦も無く買うことが出来た。
しゃれたボトルスタンドが。
そして、1時間半で台北に到着しました。週末で混んでいましたが、何とか最初から座ることができました。1045ドル(約3300円くらい)
台北は曇天で少し小雨が降ったようですが、宿に戻って一休みしているうちに、本降りになってきました。遠くに遠雷も響いていました。
KANOとは、嘉義農林学校の略称で、野球のユニフォームに縫い付けられた学校名である。そして、この中にも『八田與一』(はったよいち)は登場していた。
私はそれまで八田與一氏の名前も業績も、そして、この名前を知らない台湾人はいないほど、台湾では超有名な日本人であることもまったく知らなかった。
水源が無いため台湾の南部にあった嘉南平原は農作物は育たない荒地だった。
日本が日清戦争に勝利して、台湾を統治することになってから、東京大学で土木工学を学んだ八田與一氏は、嘉南平原の農業感慨を目的として台湾に渡った。1920年のことだった。10年の歳月をかけて、烏山頭ダムを造り、嘉南平原を台湾一の大穀倉地帯に一変させた功労者として、地元の農民達に慕われ、今でも彼の命日にはお墓が花で埋もれてしまうほどだという。
私が興味を抱いて、是非一度彼のお墓参りをしようと思い立ったのは、彼の残した業績のせいだけではなかった。工事中に被災して亡くなった方々を、日本人・台湾人のわけ隔てなく弔ったという、彼の姿勢のせいでもなかった。
それは、農民達の懇願を拒みきれずに、せめて見下すような銅像ではなく、腰を下ろした銅像を、と造ってもらったのだが、国民党軍が台湾にやってきて、銅や鉄の供出を強要した蔡に、農民達は八田の銅像を農家に隠して供出を免れたという、エピソードを知ったことだった。
更に、もう一つのエピソード。
ダムを完成させた後、八田が日本軍の輸送船に乗ってフィリピンに向う途中で、アメリカ軍の潜水艦に撃沈されこの世を去った。その翌年だったか、妻の外代樹(とよき)は、八田の造った水路に身を投げて、彼の後を追ったという、痛ましい話を知ったことがきっかけであった。
外代樹の写真がたくさん残っているが、見た感じ大柄の美人で、いかにも気骨のありそうなしっかり者の大和撫子のようだった。
当初、台北から嘉義までは台湾高速鉄道(新幹線)を利用しようかと考えたが、早朝台北駅のすぐ横にある、長距離バスのターミナルに行ったところ、ちょうど嘉義行きのバスが出るところだったので、チケットを買って飛び乗ったのだった。
嘉義まで3時間ちょっとで、350ドル(約1200円)。バスはエアコンがよく効いていて、しかもトイレつきだった。
高速道路の両側に広がる水田は、稲刈りがこれからという田んぼや、もうとっくに終えた田んぼが入り混じっていて、いかにも亜熱帯らしい光景が広がる。
ローカル鉄道の嘉義駅に到着したら、電車でダムまで最も近い隆田駅まで約40分。隆田駅前には、黄色のタクシーがたくさん止まっている。
切符、$52(約180円)
ローカル線車内
うさんとうすいくー(烏山頭水庫)と言うと、タクシーの運転手は「800ドル」と言ってきた。ガイドブックには700ドルとあったが、頑固そうなお爺さんだったので、800ドルで了解した。
ダムまではタクシーで10分ほどで着くが、中に入ってからは広大すぎて、とても徒歩では廻れない。
広大なダム湖
素朴な記念館だった。
子沢山の八田與一
そして、いよいよ與一の銅像(座像)の場所へ。
銅像の後ろには、八田夫妻のお墓がある。
八田夫妻のお墓の横は、農業指導で活躍した、『技師中島力男氏分髪』の碑があった。
八田與一祈念館では豊富な写真やその説明と、映像での功績紹介もあり、なかなか充実していた。そして、当日も台湾人5~6名が熱心に展示物に見入っていたのが印象的であった。
最後に、工事中の事故などで亡くなった134名の為に建立された殉工碑を見た。なくなった順番に氏名が刻まれていた。確かに、日本人・台湾人の差別はなかった。そして、八田自らが書いたという慰霊文も読み取ることができた。
タクシーの運転手が最初に言った通り、隆田駅に戻ったのは、出発してから約2時間後であった。
今度は隆田から嘉義駅までの切符を買い一路嘉義へ。
さらに、嘉義駅から高速鉄道の嘉義駅までの無料シャトルバスに乗って、いわば新幹線の嘉義駅へ。
出来立てのきれいな嘉義駅で台北までの切符を自販機で購入。
買い方は、事前に youtube で見ておいたので、何の苦も無く買うことが出来た。
しゃれたボトルスタンドが。
そして、1時間半で台北に到着しました。週末で混んでいましたが、何とか最初から座ることができました。1045ドル(約3300円くらい)
台北は曇天で少し小雨が降ったようですが、宿に戻って一休みしているうちに、本降りになってきました。遠くに遠雷も響いていました。