以前何かの番組で、竹田恒泰(タケダツネヤス)さんが地下鉄車内で体験した話を面白おかしく語っていた。
それは、竹田さんが座っていた近くに立っていた茶髪の大学生風の二人連れの会話についてだった。
一人が、「この前の戦争で、日本がアメリカと戦ったときさぁ・・」と言いかけると、もう一人が、「えぇっ!日本がアメリカと戦ったぁ?!ウソォ! マジでぇ?」と驚いた。
「日本、アメリカと戦争したじゃんかよ!」「ウソだろ?マジかよ。・・・で、どっちが勝ったん??」竹田さんの方が、「マジかよ?!」と叫びたかったそうだ。
これと似たようなことを、以前近所の中学生たちに英語と数学を教えていた時、私も体験した事がある。
何かで話が脱線した時、「日本が日露戦争でロシアをコテンパンにやっつけた時ね・・。」と言いかけたら、一人の少年の目がパッと大きく開いて、「えぇ?日本がロシアと戦争やったんすか?」と驚いた様子で呟いた。
私は、「あれっ?学校で習わなかった?」と言って、簡単に当時の近代史を説明した。
日本が当時、日清戦争や日露戦争で連勝して、世界中がそれに驚いたこと。さらに、その後列強諸国の白人たちとも戦争して、その結果しばらく日本はアメリカ軍に占領されたことを話すと、「アメリカとも戦争したんすかぁ?」とびっくりしていた。
学校の授業がまだ近代史まで進んでいなかったのか、あるいは教師があえて丁寧に教えなかったのか、理由はよく分らなかったが、私も竹田氏に負けないくらい驚いたものだ。
日露戦争での日本の勝利は、世界中で大騒ぎとなったそうだ。当時ロシアに悩まされていた小国は特に、弱小国と思われていた日本が、世界最強のバルチック艦隊に完勝したことを知り、溜飲を下げるだけでなく、自分たちだってやれば出来るんじゃないかという勇気を感じたのだった。
今回の横須賀日帰り旅行は、死んだ親父の替わりに企画実行したものだったが、私としても、興味津々でワクワクする小旅行であった。
親父は戦死ではなく、老衰で死んだのだが、あえて「英霊」と呼ぶとすると、それは親父の英霊を慰めるものであった。総意識すると、なんだか昨日は一日中、私の右斜め40度くらいの離れた空間に、親父の英霊がフワフワ浮かんでいるようだった。
午前10時ころJR横須賀駅に降り立ち、そこから海沿いに出来た公園を散歩しながら、昔、横須賀海軍工廠(こうしょう)のあった場所に向かった。
フランス人技師のヴェニールに因んで、ヴェニール公園と名付けられた公園には、途中当時の幕臣、小栗上野介の胸像が立っていて、ここは以前から私が一度訪れたかったところだった。なぜ小栗上野介かを説明すると長くなるので、別の機会にしよう。
途中、ベンチがあったので、休み休みゆっくり歩いていくと、「横須賀基地はこちら」の交通標識が見えた。今はアメリカ海軍基地となったが、その前は横須賀海軍工廠のあったところで、親父たちが養成所で、軍艦の造り方の講義を受けていた場所だった。
基地が近づくにつれて、歩道を歩く米軍将校らの姿が多くなってくる。みんな背が高く足が長く、体格は筋骨隆々としていて、よくまあ当時の日本兵たちは、こんな奴らを相手に苦しめ、戦ったものだと改めて感心する。
基地正門からさらに道沿いに10分ほど歩くと三笠公園にたどり着く。ロシアのバルチック艦隊を見事に全滅させた、日本海海戦の連合艦隊司令長官、東郷平八郎の載った旗艦「三笠」が記念艦三笠として、現存する公園である。
日本海海戦の当時の名セリフは、今でもよく耳にするものだ。例えば・・・
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。
さらに、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。
私は、昭和30年生まれだが、この私でも当時のこういうエピソードの数々を聞くたびに、胸がジーンとなり、ワクワクさせられてしまう。
艦内では、こういうエピソードが色々なVTRや写真、展示物で紹介されていて、年配者だけではなく、結構若い方も真剣に観ていた。
親父がよく口にしていた「どぶ板通り」にも行ってみた。ネットで調べたところ、今では米軍グッズの店や、飲食店が多く、どちらかというと夜になって人が集まる通りのようだ。
やはり、どぶ板通りは、昼間来るところではないようだった。右斜め上からフワフワ付いて来ていた親父はどんな感想だっただろうか。懐かしさを感じただろうか。
最後に、小腹が空いてきたので、海軍カレーの看板がかかった店に入って、その名物「横須賀、海軍カレー」を注文した。
サラダと牛乳がセットになったカレー。艦内で食べたら最高だったろう。
それは、竹田さんが座っていた近くに立っていた茶髪の大学生風の二人連れの会話についてだった。
一人が、「この前の戦争で、日本がアメリカと戦ったときさぁ・・」と言いかけると、もう一人が、「えぇっ!日本がアメリカと戦ったぁ?!ウソォ! マジでぇ?」と驚いた。
「日本、アメリカと戦争したじゃんかよ!」「ウソだろ?マジかよ。・・・で、どっちが勝ったん??」竹田さんの方が、「マジかよ?!」と叫びたかったそうだ。
これと似たようなことを、以前近所の中学生たちに英語と数学を教えていた時、私も体験した事がある。
何かで話が脱線した時、「日本が日露戦争でロシアをコテンパンにやっつけた時ね・・。」と言いかけたら、一人の少年の目がパッと大きく開いて、「えぇ?日本がロシアと戦争やったんすか?」と驚いた様子で呟いた。
私は、「あれっ?学校で習わなかった?」と言って、簡単に当時の近代史を説明した。
日本が当時、日清戦争や日露戦争で連勝して、世界中がそれに驚いたこと。さらに、その後列強諸国の白人たちとも戦争して、その結果しばらく日本はアメリカ軍に占領されたことを話すと、「アメリカとも戦争したんすかぁ?」とびっくりしていた。
学校の授業がまだ近代史まで進んでいなかったのか、あるいは教師があえて丁寧に教えなかったのか、理由はよく分らなかったが、私も竹田氏に負けないくらい驚いたものだ。
日露戦争での日本の勝利は、世界中で大騒ぎとなったそうだ。当時ロシアに悩まされていた小国は特に、弱小国と思われていた日本が、世界最強のバルチック艦隊に完勝したことを知り、溜飲を下げるだけでなく、自分たちだってやれば出来るんじゃないかという勇気を感じたのだった。
今回の横須賀日帰り旅行は、死んだ親父の替わりに企画実行したものだったが、私としても、興味津々でワクワクする小旅行であった。
親父は戦死ではなく、老衰で死んだのだが、あえて「英霊」と呼ぶとすると、それは親父の英霊を慰めるものであった。総意識すると、なんだか昨日は一日中、私の右斜め40度くらいの離れた空間に、親父の英霊がフワフワ浮かんでいるようだった。
午前10時ころJR横須賀駅に降り立ち、そこから海沿いに出来た公園を散歩しながら、昔、横須賀海軍工廠(こうしょう)のあった場所に向かった。
フランス人技師のヴェニールに因んで、ヴェニール公園と名付けられた公園には、途中当時の幕臣、小栗上野介の胸像が立っていて、ここは以前から私が一度訪れたかったところだった。なぜ小栗上野介かを説明すると長くなるので、別の機会にしよう。
途中、ベンチがあったので、休み休みゆっくり歩いていくと、「横須賀基地はこちら」の交通標識が見えた。今はアメリカ海軍基地となったが、その前は横須賀海軍工廠のあったところで、親父たちが養成所で、軍艦の造り方の講義を受けていた場所だった。
基地が近づくにつれて、歩道を歩く米軍将校らの姿が多くなってくる。みんな背が高く足が長く、体格は筋骨隆々としていて、よくまあ当時の日本兵たちは、こんな奴らを相手に苦しめ、戦ったものだと改めて感心する。
基地正門からさらに道沿いに10分ほど歩くと三笠公園にたどり着く。ロシアのバルチック艦隊を見事に全滅させた、日本海海戦の連合艦隊司令長官、東郷平八郎の載った旗艦「三笠」が記念艦三笠として、現存する公園である。
日本海海戦の当時の名セリフは、今でもよく耳にするものだ。例えば・・・
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。
さらに、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。
私は、昭和30年生まれだが、この私でも当時のこういうエピソードの数々を聞くたびに、胸がジーンとなり、ワクワクさせられてしまう。
艦内では、こういうエピソードが色々なVTRや写真、展示物で紹介されていて、年配者だけではなく、結構若い方も真剣に観ていた。
親父がよく口にしていた「どぶ板通り」にも行ってみた。ネットで調べたところ、今では米軍グッズの店や、飲食店が多く、どちらかというと夜になって人が集まる通りのようだ。
やはり、どぶ板通りは、昼間来るところではないようだった。右斜め上からフワフワ付いて来ていた親父はどんな感想だっただろうか。懐かしさを感じただろうか。
最後に、小腹が空いてきたので、海軍カレーの看板がかかった店に入って、その名物「横須賀、海軍カレー」を注文した。
サラダと牛乳がセットになったカレー。艦内で食べたら最高だったろう。
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