まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

行く先を決めているのかカタツムリ

2021年06月27日 | 時には日々是日

 さぬき市地方は、気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、雨の降っている時間帯があった。気温は22.3度から25.2度、湿度は90%から76%、風は1mから3mの東北東の風が少しばかり。明日の28日のさぬき市地方は、引き続き気圧の谷や湿った空気の影響で曇り、昼過ぎから雨の降る所がある見込み。

 

 108/69/79 36.3c-98% 64.4Kg 22.3c-73%-1008hPa 昨日は半ばダウンしていた。どうにもおなかが張って苦しくて、昼食はおそばを少しばかり食べたけれど、夕食は食べずに寝た。利尿剤の頓服も飲んでみたし、整腸剤も飲んでみた。

 

 そのせいかどうか、今朝は普通に4時半に起きて、普通通りに歩けた。朝食は野菜ジュースにトマト一個にした。

 

 この「ガイド手習い帳」のバージョンアップの準備をやっていた。危機管理の条項を追加するためである。最近は「個人情報」「LGBT問題」「みなし差別や関係者差別」「異常気象情報」やら「地震対策」から「津波対策」など危機管理は多方面にわたる。私たちに、そういう危機はどこにどのように発生するのか・・などと。

 

 さすがに「梅雨」という感じの毎日。何もしないご隠居さんだから雨が降ろうが振りまいが関係はない。雨の日は雨の日なりに・・・である。

 

 で、小雨もあがったようなので、ガス抜きのために「現地調査」に行ってみた。正面が本堂で右側に阿弥陀堂がある。弘法大師空海が「南無阿弥陀仏」を称えていたというと、「そんなバカな・・」と言われるけれど、空海さんが「南無大師遍照金剛」などとは称えることはなかったのだ。835年に亡くなった空海さんに「弘法大師」の諡号が下賜されたのが、921年のこと。つまり86年後のことである。つまり、我々は「空海」=「弘法大師」と認識しているが、当人に「弘法大師」の自覚はない。

 

 この石仏群は、九州のある小さなお寺(庵)にあったものだが、夜中に庵主さんの夢枕に立って、「大窪寺に行きたい・・」というので、翌日にトラックで運ばれてきたというもの。そんな、バナナ・・と思うのだが、お寺にはいろんな事情があるらしい。

 

 これは、土佐の長宗我部藩の侍大将であった「正木修理亮」という人の子孫が、「私の祖先がお寺を焼き尽くし、多くのお坊さんや民衆を殺しました。お詫びします」という罪業消滅の石碑である。ちなみに、ここのお寺が焼けたのは「天正2年」の兵火で、長宗我部軍が讃岐に攻め入ったのは天正6年から8年までの間であった。

 

 かたつむりは、私らが見ていると、なんだかのんびりでゆったりとした歩みでいいなぁと思うけれど、かたつむりにしてみれば、これでも一生懸命に歩き続けているのかもしれない。俺はこれでも目一杯、急いでいるんだぞ・・と言うているのかも知れない。

 

 で、今日は奥方にお願いをしておかゆを作ってもらった。右はところてんで、胃袋をふくらませるだけのカロリーゼロの食べ物。これでお昼からもおなかすっきりとなった。

 

 で、午後からは小雨が降り出してきたので、次なる総合ガイドブックを作る作業をやっていた。私の明日が見えないので、「これぞ完全版!」というバイドブックを残しておきたいと考えているからである。

 

 という、今日見てきたことをまとめておいた。

 

 歴史というものは、誰かが書き残さなければ歴史にはなりえない。伝聞や伝承はあくまで伝承であって歴史ではない。

 

 今日のおやつはブロックスイカにした。今の時期、相当に甘くなっているなぁと思いながら食べてみた。今夜は夕食が食べられそうだ。

 

 今日の記事とは全く関係がないが、今日の掲示板はこれ。「有る角も 出さねば丸し かたつむり」というもの。持っているツノも、出さなければ丸く済むではないかという、かたつむりにかけたことばである。江戸時代の始め、姫路の近くの網干(あぼし)というところに盤珪禅師(ばんけいぜんじ)という禅僧がいた。ある僧がたずねてきて、「私は生まれつき短気で困ります。すぐ腹を立てて、人には器が小さいと思われるし、師匠にも叱られる。盤珪さん、なんとかこの短気をなおす方法はありませんかねぇ。」という相談に盤珪さんは、「その短気とやらを、この場に出してみなされ。短気の正体を見ないことには、なんともならんからのぉ。」と言った。「いや…いまのところは、短気はござらぬ。何かの折にひょいと短気が出ます。」「そんなことがあるものか。生まれついてのものなら、いつなりとも、どこなりとも出せるもの。本当に無いのか?」「腹の中を探ってみても見当たりません。人と面倒を起こしているときには顔を出します。」「なんともお主はおかしなことを言われる。自分の身びいきで、出たり引っ込んだりする ものを、生まれついてのものと言うのか。自分の我欲の罪を親になすりつけて、生まれつきだと言うのは、親不孝者だぞ‼」短気に実体のないことを気付かされたこの僧は、「気」に振り回されることなく、自在にコントロールできるようになったそうである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


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