まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

行く今日を 追いかけもせず やぶ椿

2016年12月02日 | たまにはご法務

 さぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は9.8度から14.5度、湿度は70%から62%、風は1mから2mの西北西の風が少しばかり。明日の3日は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込みらしい。

 

 朝、季候も良いし気分もいいので、玄関周りの落ち葉を掃除してみた。時期的にすぐそばの山から降るように落ち葉が落ちてくる。夕方になれば元通りになっているかもしれない。

 

 で、久々に「落ち葉焚き」をやってみた。サツマイモはたんとあるのだが、焼き芋をするような気分にはなれなかった。子どもでもいればやると楽しいのかも。

 

 庭の「サンシュウユ」の実がきれいに色づいていた。

 

 ふと、気がつくと、もう10時。急がなきゃ遅れるわ~。支度しなきゃ。

 

 今日はお仕事の日、報恩講が厳修される日。この看板は「勤修(ごんじゅ)」で、力強く法要を勤めること。「厳修(ごんしゅ)」は厳かに法要などをつとめることらしい。

 

 妙好人庄松さんにもご挨拶。なんまんだんぶぅ・・・。

 

 今日はからりとして暑くもなし、寒くもなしのお天気になった。

 

 13時半からのお勤め。導師は善海さん。

 

 14時からはご法話で、川田慈惠師。お正信偈の中身のお話だった。お正信偈には何が書いてあるか・・ということだった。

 

 五劫思惟之摂受・・・五劫とは、気の遠くなるような長い期間をいうのだが、いろんな考え方があるらしい。一劫は4億3200万年という説もあるがどこから出てきた数字だろ。一般的には落語の「寿限無」で有名なんだけれど。

 

 勝覚寺は讃岐国名勝図会には、開基は明暦三年(1657)沙門正哲の草創とあるが、寺伝によると、天正四年三好氏落城のとき、その家臣板西城主赤澤信濃守は中富川の合戦において討ち死にし、天正十年(1582)赤澤信濃守の一子正本法師が菩提を弔うため、大坂天満興正寺で証秀上人につき得度し、丹生の郷小砂村に小砂坊を開基したのが勝覚寺の始めとされている。古い安楽寺末寺帖にも小砂正覚寺とあり、追加の記事にも三本松正覚寺とあり、創建も寺伝による天正年間が正確といえる。安楽寺末寺となったのは、阿波三好氏の関係であろうと思われる。その後正覚寺と号した。

 

  九代目願故のときの貞亨元年(1684)三本松村に移り、海暁山勝覚寺となったとされ、港町三本松の発展とともにその勢力をひろめ、寺院としての体裁を整えた。第二十世住職赤沢融海は幕末から明治期の名僧として詩画歌俳にも秀でていた。また、妙好人谷口庄松は当寺の門徒であった。

 

 今日の掲示板はこれ。「この一年 悔いなしと散る 落ち葉かな」というもの。花には花の役割があり、葉っぱには葉っぱの役目がある。冬が近くなると、広葉樹などは広い葉っぱでは水分を発散させるので木が弱るために葉っぱを切り落と す。また、光合成能力の落ちてきた葉っぱでも植物は弱る。そこで葉っぱを捨ててしまう。紅葉はその前段階で変色するものらしい・・・。紅葉も落葉もお仕事 を終えた葉っぱを切り離すことでおきる自然現象。これを悲しいと見るか、寂しいと見るかは人間様のこころのありようだけ・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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