さぬき市地方は気圧の谷の影響で雲が広がり、雨や雷雨の所があるらしい。香川県では、26日夜遅くまで急な強い雨や落雷に注意するようにと呼びかけている。気温は21度から30度、湿度は86%から67%。風は2mから4mの南東の風が吹いていた。明日の27日は、気圧の谷や湿った空気の影響で雲が広がり、午後は雨の降る所がある見込みとか。
今日は雨になるというので早めに山の旧宅跡に行ってみた。雨になる前に草刈りを終えてしまいたかった。
ここにもイタドリの親が背を伸ばして前が見えないほど。
これを刈り払うとこうなった。一本だけ残っているのは「タラの木」。来春のタラの芽を採るために残しておいた。
旧宅跡地もこのようにさっぱりとした。逆から見ると、こうなる。手前側が昨日に刈った部分。
南から北を見ると、こうなる。手前側が今日、刈り払った部分。けっこう広い敷地である。
STIHL社製の刈り払い機の「一文字仕様」で、斜面、急傾斜地などで使うもの。このあたりの中山間地ではもっぱら、こうした刈り払い機を使っている。このタンクに混合油を満タンにすれば、およそ1時間の草刈りが可能。
ということで、6月期の「山の家」・「島の家」・「山の旧宅跡」の三ヶ所の草刈りはおしまい。まだまだ、刈り払う場所はいいくらもあるが、キリがないのでこのあたりで打ち止め。次は8月上旬の「月遅れのお盆前」までお休み。
今日も昨日と同じように、シャワーを浴びて、作業着を洗濯して干して・・・。一休みしてから少しばかりお勉強をしておいてお出かけ・・・。
毎度おなじみになった、四国霊場88番札所大窪寺の門前にある「八十八庵」というお土産屋さん。別にお土産を買うためにやってきたのではない。
このお店ののれんの字が読めるだろうか。「打込うどん団蔵うどん」と染め抜いてある。今日は、そのお話。麺が細めの夏の風物である冷やしうどん。 今から約48年前に、 今は亡き歌舞伎役者『市川団蔵』が、四国霊場八十八ヶ所巡礼の旅を終えた後、このお店に立ち寄り、 「時間がないので早くできるうどんを」と注文されたので、短時間で茹で上がるように初代店主がうどんを細切りにして出したところ、 「とてものどごしがよくて美味しい。こんなうどんは今までに食べたことがない。 はじめて、うどんの味がわかりました。」と感嘆してお店を後にして小豆島の島四国を廻った後、大阪行きのフェリーボートから身を投げて亡くなった。お店では市川団蔵さんを偲んで「団蔵うどん」と名前をつけたのだという。48年前の6月のことだった。
これが、その「団蔵うどん」。四国遍路の途中、「我死なば 人に迷惑 かけるなよ 仏頼まず さらば地獄へ」と、さらりといってのけた。そして旅の途中にこの歌を、「我死なば 香典受けな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」と変えたとも話した。これが市川団蔵の辞世の歌になった。おそらく、「老醜をさらしたくない」という思いと、歌舞伎界への決別の意味での四国遍路であり、居場所のなくなった男の覚悟の旅であったのだろう。
団蔵は「わたしが死んでも墓はいらない」と漏らしていたそうだ。都会のわずらわしさをのがれて、旅に出た団蔵は、巡礼の日程も終り、思い残すこともなく、小豆島にたどりついた。そして、この自然のふところで、満足しきった心境になり、海に飛込めば、葬式もいらない、人々もいつかは自分をわすれるだろう―と、死を選んだのではないかと考えられている。団蔵が最期の夜を過ごした、小豆島たちばな荘の門内には、勘亭流で書かれた「八代市川団蔵之碑」が立っている。
例年、金毘羅歌舞伎を終えた一行は、この場で団蔵の追善供養を行ったという。芸道に徹して80年もの長い間打ち込み、しかもその半分は老け役で通してきたという歌舞伎界にとって驚異的存在だった老優が、四国遍路で見つめ続けたものは何だったのだろうか。
今日の掲示板はこれ。「屏風は折れるから立つんだよ 突っ張っているとじき倒れるよ」という、荒了寛さんの言葉から。ひとりりよがりにならずに楽しむ事は、これが簡単そうで難しい!自分の意見の前に相手の気持ちを思いやる。正しい事でも相手の事を考えてから意見する。屏風って知ってるよね。絵画を飾る額縁とは違って、壁に立て掛ける物でも吊す物でもない。屏風だけで立てる物なのだけど。その屏風は、折れるから立つんだよね。突っ張っていると、じきに倒れるんだよなぁ~。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。