GSゲルマニウム原人の退屈な日々

見わたせば、気になることばかりなり・・

ブルースセッションでもどう?

お盆

2008年07月15日 08時33分12秒 | 徒然なるままに
秋葉原の事件のあと献花台が設けられているが。

最近、供えられたビールやペットボトルなどがホームレスに持って行かれるとニュースでやっていた。

う~ん、問題有るのか?

言ってみれば献花台のお供物とは、お墓参りにいってそのお墓に故人がお酒好きだったからワンカップを供えましょうと言う事と同じ行為なわけで、墓地の管理者からすると供えた物は「いったんお供えして、持ち帰って欲しい」が原則だと思う。それは、カラスや地方によっては野生の動物たち、また実際にホームレスの「エサ場」になっているからだ。

墓参りのシーズンになれば墓地に行けば確実に酒が手に入るのだからそれをもらいに来るのは分かり切っている、だから保安安全の面からもお墓の掃除をしてお供物をあげお参りをしたらその時点で気持ちは届いた訳でお供え物はおろして故人と一緒にお下がりとして頂くのが良いと思う。事実、神道のまつりごとでも神様にあげた物を下げて一緒に味わうという行為は普通に行われている。

さらに考えれば、事件の現場に設けられた献花台に飲食物を置く限り、供えたという事で精神的な「モノ」は故人には届いたと考えるべきで、その後それをホームレスやカラスが飲食する事は一種の「施餓鬼」につながるのではないか?仏教の伝来以来、持てる者が持たざる者に「施し」をする事の一種として「施餓鬼」は行われてきたし現在でもお盆の時に「施餓鬼棚」を設ける風習は多い。

せめて手を合わせてから持っていって欲しいという気持ちも分からないではないが「餓鬼道」に落ちてしまった者にそれを求めるのではなく、供物を上げた者が施しをした事によって功徳が得られて救われると言う考えが元のはず。相手に求めるのではなくあげた供物を持っていってくれて、持っていった者がつかの間でも喉を潤す事が出来た事をありがたいと思う事、そしてそれが自分の功徳になると受け止める位の気持ちがなければ献花台に物など上げずに「心一つ」を供えるべきではないのかな?

まさに、東京は7月15日「お盆」である、本当の意味で故人を思うと言う事を考える良いチャンスだと思うのだけど。
コメント (2)
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