昭和37年4月に北海道立網走南が丘高等学校に入学した。
この高校は毎年秋に網走湖一周マラソンが恒例になっており、今でもそれは続いているようである。一周すると50kmほどある。
一年生のときはまじめに一周した。午前9時ころ学校をスタートし途中父兄が炊き出しをしてくれる女満別で休憩するものの、学校にゴールしたのは夜の7時ころだった。後半は足にマメができ、歩くのがやっとであった。そこに雨が降ってきてさんざんな目にあった。二年生からは半分の女満別までで、あとはバスで帰ってきた。しかし網走湖一周マラソンは南校生であれば誰しも思い出に残っている行事であろう。
一年生のときはA組で、二年生・三年生のときはD組であったが、D組のクラス会は今でも数年置きに開催されている。
大学では化学を勉強したいと考えていた。当時、国立大学は一期校、二期校の二校を受験できた。一期校は新潟大学農学部農芸化学科を、二期校は山形大学理学部を受験した。幸い両大学に合格することができたが、山形大学は一般教養の成績で科が決まると聞いたので、新潟大学に行くことに決めた。新潟地震の翌年の昭和40年4月に新潟にやって来た。8000円の特別奨学金をもらえることができたので、家からの仕送りは5000円で生活した。当時の間借りした部屋の家賃は3000円で学生食堂の食事代が約5000円であったのでこれらは奨学金でまにあった。日曜日は学食がなかったので裏古町の都食堂で食べるカツ丼がご馳走だった。その食堂は今でも営業しており、懐かしさもあり時々顔を出している。
大学二年の後半からは専門になり、卒論は小笠原長宏教授の下で抗生物質の探索をすることになった。小笠原教授は上越市出身の坂口謹一郎東大教授の弟子である。
抗生物質の探索は教育学部の大塚教授が菌株を探索し、農学部で精製し、医学部の宮村教授のところで毒性試験を行っていた。私はカビに効く抗生物質を精製することになった。当時カビに効く抗生物質はあまり無かった。教育学部で見つけた放線菌を坂口フラスコで培養し、カンジダを植えた弁当箱型のシャーレに精製した抗生物質の含む菌液を滴下してその効果を試した。効果の出たものを幾つも医学部にもって行き、その毒性等を調べてもらったが、いずれも人間に対して毒性があったり、既にあるものだったりした。
結局新しい抗生物質は見つけることができなかったが、これらの作業は中学生の頃に興味を持った細菌を思い出させてくれた。
就職は細菌を取り扱うことのできる会社にしようと決めた。
この高校は毎年秋に網走湖一周マラソンが恒例になっており、今でもそれは続いているようである。一周すると50kmほどある。
一年生のときはまじめに一周した。午前9時ころ学校をスタートし途中父兄が炊き出しをしてくれる女満別で休憩するものの、学校にゴールしたのは夜の7時ころだった。後半は足にマメができ、歩くのがやっとであった。そこに雨が降ってきてさんざんな目にあった。二年生からは半分の女満別までで、あとはバスで帰ってきた。しかし網走湖一周マラソンは南校生であれば誰しも思い出に残っている行事であろう。
一年生のときはA組で、二年生・三年生のときはD組であったが、D組のクラス会は今でも数年置きに開催されている。
大学では化学を勉強したいと考えていた。当時、国立大学は一期校、二期校の二校を受験できた。一期校は新潟大学農学部農芸化学科を、二期校は山形大学理学部を受験した。幸い両大学に合格することができたが、山形大学は一般教養の成績で科が決まると聞いたので、新潟大学に行くことに決めた。新潟地震の翌年の昭和40年4月に新潟にやって来た。8000円の特別奨学金をもらえることができたので、家からの仕送りは5000円で生活した。当時の間借りした部屋の家賃は3000円で学生食堂の食事代が約5000円であったのでこれらは奨学金でまにあった。日曜日は学食がなかったので裏古町の都食堂で食べるカツ丼がご馳走だった。その食堂は今でも営業しており、懐かしさもあり時々顔を出している。
大学二年の後半からは専門になり、卒論は小笠原長宏教授の下で抗生物質の探索をすることになった。小笠原教授は上越市出身の坂口謹一郎東大教授の弟子である。
抗生物質の探索は教育学部の大塚教授が菌株を探索し、農学部で精製し、医学部の宮村教授のところで毒性試験を行っていた。私はカビに効く抗生物質を精製することになった。当時カビに効く抗生物質はあまり無かった。教育学部で見つけた放線菌を坂口フラスコで培養し、カンジダを植えた弁当箱型のシャーレに精製した抗生物質の含む菌液を滴下してその効果を試した。効果の出たものを幾つも医学部にもって行き、その毒性等を調べてもらったが、いずれも人間に対して毒性があったり、既にあるものだったりした。
結局新しい抗生物質は見つけることができなかったが、これらの作業は中学生の頃に興味を持った細菌を思い出させてくれた。
就職は細菌を取り扱うことのできる会社にしようと決めた。