昨年の自分のブログを見ると6月から12月の間は殆どブログを書いていない。
そこで備忘録を兼ねて少し補充しておこうと思う。
6月13日に義弟が胃がんでがんセンター新潟病院に再入院し、その後緩和ケア病棟に移り、8月26日に亡くなった。
この間、家内と私は病院へ通った。特に家内は毎日出かけた。私が行けない日は高速バスで通った。
緩和ケアの先生、看護師さんたちは親切で大変お世話になった。おかげで義弟も穏やかな入院生活を送ることができたように思う。
義弟の葬儀が終わった翌日、新しい施設に移った私の母が発熱し具合が悪くなり、今度は毎日施設に通うことになった。義弟が亡くなって一ヶ月もしない9月24日13時44分に老衰で亡くなった。97歳だった。
葬儀は福島の玉木老師にお願いした。弟妹たちもすぐに北海道からやって来た。
母の葬儀が終わると次に義弟の四十九日の法要と母の四十九日の法要。
両方の四十九日の法要は老師の許可を頂いて私が行った。
また二人の死亡後の手続きが続いた。さらに10月23日義弟の納骨を両親の眠るお墓に行った。
母の納骨は11月16日に予定したが、前日の新千歳までの飛行機の予約が取れなかった。この時期飛行機が取れないことは無いと思っていたら北海道の弟がその訳を教えてくれた。札幌でジャニーズの嵐のコンサートが3日間開催されるとのこと。新潟から札幌までコンサートに行くのかと思っていたら、なんと中国からもこのコンサートのために来る人がいるのだという。
それではフェリーで行こうと新潟ー小樽の予約を取ったが、前日に強風のため欠航になってしまった。
結局11月18日に飛行機で新潟-新千歳-女満別にてようやく網走に着くことができた。翌日、父の眠るお墓に納骨し、その後ホテルで会食した。
翌日は親戚を回り、夕方に道の駅(流氷街道)に寄ると網走でロケを行った吉永小百合主演「北の桜守」のセットが置かれていた。
この映画「
北の桜守」については以前にブログに書いたが、吉永小百合の役と母とは名前が同じ(てつ:母はテツ)で、樺太からの引揚者でその後、網走に住んだことも一致する。
母の納骨後に母の若い頃を思わせる「北の桜守」のセットと出会うとは思ってもみなかった。
この道の駅は網走川の畔にありオホーツク海も見渡せる。
母は海を見るのが好きだった。網走に居たときは高台に住んでおり、窓からはオホーツク海が見えた。
(網走港)
(帽子岩)
11月21日に女満別-新千歳-新潟で帰省した。