日日是好日

退職後の日々を写真で記録

自分史(3) 高校・大学時代

2012-11-27 16:28:28 | 自分史
昭和37年4月に北海道立網走南が丘高等学校に入学した。
この高校は毎年秋に網走湖一周マラソンが恒例になっており、今でもそれは続いているようである。一周すると50kmほどある。
一年生のときはまじめに一周した。午前9時ころ学校をスタートし途中父兄が炊き出しをしてくれる女満別で休憩するものの、学校にゴールしたのは夜の7時ころだった。後半は足にマメができ、歩くのがやっとであった。そこに雨が降ってきてさんざんな目にあった。二年生からは半分の女満別までで、あとはバスで帰ってきた。しかし網走湖一周マラソンは南校生であれば誰しも思い出に残っている行事であろう。
一年生のときはA組で、二年生・三年生のときはD組であったが、D組のクラス会は今でも数年置きに開催されている。

大学では化学を勉強したいと考えていた。当時、国立大学は一期校、二期校の二校を受験できた。一期校は新潟大学農学部農芸化学科を、二期校は山形大学理学部を受験した。幸い両大学に合格することができたが、山形大学は一般教養の成績で科が決まると聞いたので、新潟大学に行くことに決めた。新潟地震の翌年の昭和40年4月に新潟にやって来た。8000円の特別奨学金をもらえることができたので、家からの仕送りは5000円で生活した。当時の間借りした部屋の家賃は3000円で学生食堂の食事代が約5000円であったのでこれらは奨学金でまにあった。日曜日は学食がなかったので裏古町の都食堂で食べるカツ丼がご馳走だった。その食堂は今でも営業しており、懐かしさもあり時々顔を出している。
大学二年の後半からは専門になり、卒論は小笠原長宏教授の下で抗生物質の探索をすることになった。小笠原教授は上越市出身の坂口謹一郎東大教授の弟子である。
抗生物質の探索は教育学部の大塚教授が菌株を探索し、農学部で精製し、医学部の宮村教授のところで毒性試験を行っていた。私はカビに効く抗生物質を精製することになった。当時カビに効く抗生物質はあまり無かった。教育学部で見つけた放線菌を坂口フラスコで培養し、カンジダを植えた弁当箱型のシャーレに精製した抗生物質の含む菌液を滴下してその効果を試した。効果の出たものを幾つも医学部にもって行き、その毒性等を調べてもらったが、いずれも人間に対して毒性があったり、既にあるものだったりした。
結局新しい抗生物質は見つけることができなかったが、これらの作業は中学生の頃に興味を持った細菌を思い出させてくれた。
就職は細菌を取り扱うことのできる会社にしようと決めた。
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TOKYOアイヌ

2012-11-15 20:03:34 | 日記

先日、新潟日報に紹介されていた映画「TOKYOアイヌ」が今日、新潟のりゅーとぴあで上映され、見てきた。

子供の頃、網走では毎年アイヌの人たちによるイオマンテ(熊祭り)が開催され、何回か見たことがある。懐かしさもあって、家内と出かけてみた。会場はスタジオで、パイプ椅子が並べられ、壁に映写する簡易のものであった。それほど多くの人が来ないだろうと思っていたが、大勢の人が来場し、係員は椅子を追加しなければならないほどであった。

映画はドキュメンタリーで、首都圏に住むアイヌの人たちの証言が続く。この人たちはもともとは北海道に住んでいたが、アイヌに対する偏見と差別から逃れるために東京に来た人たちである。昔、北海道は蝦夷と呼ばれていたが、明治政府ができて北海道と命名されると共に、政府はアイヌの人たちを追いやり、主食である鮭と鹿を捕ることを禁止し、アイヌ語の使用も禁じたとのこと。アイヌは、文字を持たないため、言葉の使用を禁じられたことは生活に不自由すると共に非常に屈辱を感じたことであろう。昔読んだ小説「最後の授業」を思い出した。このような中で、アイヌの人たちは差別されつらい日々を送ったことは想像に難くない。

東京に出たアイヌの人も、自分がアイヌであることは隠して生活していたが、この中の一人、宇梶静江さんが昭和47年に自分はアイヌであることを告白し、朝日新聞に「ウタリ(同胞)よてをつなごう」と投稿したことから、アイヌの復権活動が始まる。日本には先住民はいなかったとの立場をとっていた政府であったが、2007年に国連総会で「先住民族の権利に関する宣言」が採択されたのを受けて、2008年に「アイヌ民族を日本の先住民族として認めることを求める決議」が国会で可決され、ようやくアイヌ民族が日本の先住民族であることが認められた。たった4年前のことである。

私が網走に住んでいたとき、そのような偏見と差別があったのを知らなかったので、今回この映画を見て、恥ずかしながら初めて知った。考えてみればアメリカの先住民族であるインディアンも同様だったのであろう。

映画が終わった後、宇梶静江さんと若手の島田あけみさんとのトークがあり、そこでも宇梶さんは辛かった日々とアイヌの精神文化について熱く語った。また島田さんは、ニュージーランドの先住民族であるマオリ族の人々との交流を進めているとのことであった。

映画が終わり休憩に入ったとき、ロビーで販売されていた宇梶さんの本を購入した。映画ではアイヌ民族の精神文化についてはあまり語られなかったので、この本に少しでも載っているかと思い購入した。

トークも終わり、散会してから宇梶さんから本にサインを頂いた。

まだまだ偏見と差別が残っており、アイヌの人でもまだ自分がアイヌであることを隠している人も多いとのこと。これらの人々がアイヌであることを誇りにできる社会が一日も早く来ることを願っている。

因みに、「アイヌ」とは「人間」という意味だそうである。

 

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弥彦の紅葉

2012-11-10 16:19:30 | 日記
今年は弥彦に紅葉を見に行こうと思っていたが、毎日梅雨のように雨が降り続いている。そうしている内に紅葉は見頃を迎えてしまった。今日も朝から雨模様で天気予報では来週も雨が続くようであるので、思い切って出かけることにした。90歳になる私の母が北海道から五泉に来て4年目になるがまだ紅葉を見せていなかったので、家内と一緒に出かけた。
途中、強い雨に当たったが、不思議に弥彦に着くと雨は止んでくれた。弥彦駅前の駐車場に車を止め、車椅子に母を乗せもみじ谷に向かった。

何年か前に、初めてもみじ谷に来たとき、あまりにもの赤に感動した。燃えるような赤で、このような色の紅葉は見たことがなかった。
今年もその赤は健在だった。途中、偶然にも会社に同期入社したS氏夫妻に会った。



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北のカナリアたち

2012-11-06 15:43:49 | 日記

今日、、吉永小百合主演の映画「北のカナリアたち」をユナイテッド・シネマ新潟で見てきた。

この映画の舞台が北海道の利尻・礼文島であることと、昔からのサユリストとしては期待して見に行ったが、内容が少し重すぎて、少々疲れたと言うのが見終わっての感想である。

原案は湊かなえの「往復書簡」とのこと。この本を読んではいないが、おそらく映画より本を読んだ方が理解しやすいように思えた。特に映画のなかで吉永小百合と警官役の仲村トオルとの関係は取って付けたようで不自然であり、もし原作にこの関係が載っているのであれば、本の方がまだすんなりと受け入れられるのかも知れない。

吉永小百合は私の1歳年上なので今年67歳になるので、昔のような内容で映画を作ることはできないのかも知れないが、私は若いころの映画のほうが好きである。私が高校生・大学生時代に見た吉永小百合の映画は面白かった。

コメント (2)
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