日日是好日

退職後の日々を写真で記録

野口英世はなぜ間違ったのか(42)

2014-05-28 13:44:37 | 野口英世

英世に関するある本の存在を知りネットで調べるとある古本屋さんに1冊だけ見つかり、早速注文した。それが写真の本である。

「野口英世博士の面影」と題したこの本は昭和6年に発行されたもので、著作者は畑嘉聞という医師である。彼は17歳まで漁師をしており、その後医師になった変わった経歴の持ち主である。

畑は英世が日本に帰国したとき済生学舎の同窓ということで、歓迎会を開いた縁で、彼がアメリカに留学した際に英世にお世話になり、その時の様子を自費出版したのがこの本である。畑がアメリカに渡ったのは1918年(大正7)の11月であった。そのとき英世はエクアドルのグアヤキルで黄熱病の研究をしていたが、まもなくニューヨークに帰ってきて対面した。その後約一年間の英世夫妻との交流が生き生きと書かれており、その様子は目に浮かぶようである。それは英世のどの伝記を見ても記載されていない内容である。評判とは異なり、英世の面倒見の良さが溢れている。

さて、この本をここに持ち出したのには訳がある。ここには英世は間違いだと気付きながらも、なぜ黄熱病の病原体を発見したとの論文を出さなければならなかったのかを考えるのに助けとなるであろう一文が載っている。それを、そのままここに記載する。英世が畑に語った内容である。

「凡ての學説は強ち完成を待つ必要がない。自分のやった事や、自分が考へて居る事はどんどんと發表したほうがよい。吾々の研究の如きでも完成はせないにしろ大抵目鼻がつくと直ちに發表する事になつて居る、自分ではまだ出しては不可ぬと思ふて居る事でもロックフェラー研究所では其の發表を急いで出してしまうと云ふ風で、現に黄熱病の病原菌などの發表でも自分では不滿足でまだ之れと云ふ確定をして居らぬのであるが、、世間では確定したものとして賞賛をしてくれて居る。私の心中に於てはまことに忸怩たるところがあるのである。然し其の世人の賞嘆が益々刺戟となり、感奮となつて自己の責任を尚ほ以上に感ずる事になる、そして大覺悟を以て突進をして仕事を仕遂げると云ふ事になるのである。そして叉一方に於て自己の意見或いは仕事の概略でも發表すると、世間に於て其の問題に着眼をして居るものである、或るものは賛成し或者は反對して來る、其の多くの議論や研究が出て來ると自分の研究に對して大なる助けになる事もあり、叉自分で氣の附かなかつた事柄も人から教はる事になる、其處で段々と雪達磨が大きくなつて來るやうに物事が大成してくるのである。凡そ大業は己れ一人では達し得らるるものでない、其れは皆なの合成力によつて出來あがる、そして結局月桂冠は最初の發表者の頭上に着せられる事になる。故に自己の所信の學説や研究して居る事柄などは假令間違つて居つたとしても世間に持ち出すに躊躇する必要はない、どしどし書かれた方がよろしいと思はれると語られ、・・・」

これを読むと、英世は明らかに黄熱病の病原菌についてはまだ自信を持っていないことが窺われる。そしてロックフェラー研究所が研究所としての業績を上げるために焦る様子も見て取れる。最近どこかの国でも同じようなことがあったように思うが。

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今日は野口英世の命日

2014-05-21 20:38:15 | 野口英世
平成26年5月21日

5月21日は英世の命日である。
1928年(昭和3)5月21日に英世はアフリカの地で黄熱病研究中に黄熱病に罹り死亡した。享年51歳であった。
英世の棺はニューヨーク郊外のウッドローン墓地に埋葬されている。
英世がなくなってから今年で86年になる。

英世を記念しての賞が二つある。
一つは「野口英世記念医学賞」である。この賞は英世が生前行った研究業績に関係ある優秀な医学研究に対し授与される。
一度だけこの賞の授賞式に参列したことがある。第42回(平成10年)の授賞式で知人が受賞し、招待状を頂いた。式場は東京の野口英世記念会館だった。
もう一つの賞は「野口英世アフリカ賞」である。この賞はアフリカの感染症等の疾病対策のための研究及び医療活動のそれぞれの分野において顕著な功績を遂げた人を対象にした賞で賞金1億円が授与される。5年に一度の授与である。
第1回は2008年に、第2回は昨年授賞式が行われた。それを記念して特殊切手が発行された。



英世が愛用した顕微鏡と地球儀、福島県の花であるネモトシャクナゲ及び母シカ直筆の手紙があしらわれている。
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野口英世はなぜ間違ったのか(41)

2014-05-21 12:57:45 | 野口英世
英世はエクアドルのグアヤキルで黄熱病と思われる患者からレプトスピラを分離して、それを黄熱病の病原体であると考えたが、まもなく、それは間違いであったと気が付いた。その理由は「野口英世はなぜ間違ったのか(40)」に記載した。
自分の間違いに気が付きながら、英世はその後「黄熱病の病理学」のタイトルで14編の論文を書いている。間違いに気が付きながら論文を書くと、当然不自然な記載が見られると思われるので、改めて各論文を見直してそれらを検証してみようと思う。



Ⅱ報:黄熱病の病原体を発見し、それはモルモットに感受性がある。
この論文は1919年3月27日に受付されている。Flexner 宛の手紙(ワイル病の免疫血清がこの黄熱病病原体によるモルモットの感染を防御する)は1918年8月17日に書かれているので、この間、7ヶ月以上ある。この間にどのような状況が進行していたのか、後に考察してみたい。
Ⅱ報では、自分の発見した黄熱病の病原体は感染性黄疸(ワイル病)の病原体に似ているとの記載はあるが、ワイル病の免疫血清に反応したことは伏せられている。

Ⅷ報:黄熱病の病原体としたicteroidesとワイル病の病原体であるicterohaemorrhagiaeの免疫学的検討を行った。
ここでicterohaemorrhagiaeの免疫血清はワイル病の病原体として由来の明確な日本株やアメリカ株、ヨーロッパ株を用いて作製したものを用いず、わざわざグアヤキルでネズミから分離した株で作製したものを用いている。しかも日本株等で作製した免疫血清を既に持っているのに、それらを用いていない。これは明らかに不自然な実験のやり方である。
日本株等で作製した免疫血清はFlexner への手紙に書いたように自分の発見した黄熱病の病原体が反応することを知っているので、それらを使用できなかったのであろう。
英世の実験成績が正しいとしたらグアヤキル株の血清型はicterohaemorrhagiaeではなく、別の血清型であったと思われる。どうしても自分の見つけたレプトスピラはワイル病のレプトスピラとは異なることを述べるためにはグアヤキル株は都合が良かったのであろう。

Ⅸ報:この論文は非常に雑な論文である。
icteroides株を接種したモルモットを蚊に刺させ、その蚊をすり潰したらレプトスピラがいたというもの。黄熱病はシマ蚊が媒介することが分かっていたため、強引に行った実験である。本当にレプトスピラが蚊の体内にいたのであれば、そのレプトスピラが先にモルモットに接種したものと同じものである事を証明しなければならない。そのためにはそのレプトスピラを培養し、免疫学的にicteroidesであることを確認する必要があるが、それらを全く行っていない。しかも対照としてモルモットを刺していない正常な蚊をすり潰した試料も調べてレプトスピラがいないことを確認しなければならないが、それも行っていない。これら数々の行わなかった実験については、英世は当然行わなければならないことを知っていただろうが、icteroidesがワイル病の病原体である事を知っていたため行わなかったのであろう。

Ⅹ報:この論文では改めてicteroidesとicterohaemorrhagiaeとの免疫反応を詳しくみている。
それぞれの免疫血清にそれぞれのレプトスピラを反応させ凝集試験、Pfeiffer反応を行っているが、結果は同種の血清には反応するが、他種の血清には殆ど反応せず、交差反応は見られなかった。この結果は英世が先に書いたFlexnerへの手紙の内容とは異なることからデータの捏造がなされたといわざるを得ない。
しかし、この捏造は「野口英世はなぜ間違ったのか(34)」に書いたようにタイラーとセラーズによって明らかにされる。彼らは英世と同じ実験を行い、これらのレプトスピラは血清学的に同一であることを証明したのである。すなわち、英世が黄熱病の患者から発見したicteroidはワイル病の病原体のicterohaemorrhagiaeと同じものであり、黄熱病の病原体ではないと突きつけたのである。

以上いくつかの論文の不自然な点を指摘したが、それでは、なぜ英世は自分の発見したレプトスピラはワイル病の病原体であることを初めから知りながら、しかもデータの捏造をしてまでも突き進まなければならなかったのであろうか。後ほど考察してみよう。
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花は紅

2014-05-18 16:44:00 | 日記
平成26年5月18日 曇りのち晴れ

今年もその時になるとハマナスが紅の花を咲かす。これが自然の摂理なのだろうが、そこにはブレがない。



このハマナスは30年ほど前に、北海道の叔父が送ってくれたものだが、ハマナスは故郷の原生花園にたくさん咲いていたことから、昔を思い起こさせる花でもある。


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ペコロスの母に会いに行く

2014-05-14 15:52:53 | 日記

新潟日報に毎週火曜日に掲載されている漫画がある。それは「続・ペコロスの母に会いに行く」のタイトルで62歳の漫画家である岡野雄一が認知症の自分の母との日常を描いたものである。

毎週火曜日は此の漫画を見ているがタイトルに「続」と付いているので、以前から描かれていたのであろうと思い、先日、書店で捜してみた。その書店の一番目立つ所に平積みされていた。

ペコロスとは小型のタマネギのことで、自分の体型とツルツルの頭からペンネームにしていると、此の本の中に書いている。

私の母も認知症である。漫画の母・みつえさんは大正12年生まれとのことなので、私の母の一つ年下である。毎年、約一万人が新しく認知症と診断されていると、先日テレビの認知症の特集番組で言っていた。長寿社会になり、今後益々増えてゆくのだろう。何とか早くに認知症の治療法が見つかり普及してもらいたいものである。

「私(うち)がボケたけん父ちゃんが現れたとなら、ボケるとも悪か事ばかりじゃなかかもしれん。」が印象的である。

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