日日是好日

退職後の日々を写真で記録

野口英世はなぜ間違ったのか(3)

2013-01-30 10:15:24 | 野口英世
英世は黄熱病の病原体はレプトスピラであると報告する間違いをおかした。なぜだろうか。
英世のレプトスピラの知識が不足していたのだろうか。そうではない。英世はレプトスピラを知り尽くしていた。
それを彼が発表した7編の論文から見てみようと思う。
下の写真がその第一報の論文である。


レプトスピラに関する第一報論文概要
1.アメリカで捕獲した野ネズミは腎臓にスピロヘータを持っており、それは稲田によって発見されたSprochata icterohamorrhagiae の形態的及び特性的特徴を持っている。
2.そのスピロヘータのアメリカ株、ベルギー株及び日本株の培養は特別な技術で得られる。
3.日本株に対して能動的に免疫した動物は同株だけではなくベルギー株とアメリカ株の接種に対して耐える。ベルギー株は3株全てに対して等しい免疫効果を作り出す。アメリカ株による免疫は実施中。
4.これらの発見により日本、ベルギー及びアメリカ株は同一であるとの結論になる。
5.その特色ある特徴から、新しい属としてLeptospira(レプトスピラ)をこの細菌の名前として提案する。

ここで重要なのは、ワクチンを作製し、それをモルモットに接種し、有毒株で攻撃したとき、ワクチンを接種しなかったモルモットは死亡するが、ワクチンを接種したモルモットはワイル病の症状を呈することなく、生き残ったことである。
この手法はある病気の病原体を確認するのに使用できる。
英世は黄熱病の病原体として発見したレプトスピラとワイル病のレプトスピラとでこの試験をしたのだろうか。(英世の黄熱病に関する論文はまだ読んでいない。)
また、この論文でLeptospira の属名を提案し、現在もこれが使用されているのは、英世の業績の一つであろう。



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野口英世はなぜ間違ったのか(2)

2013-01-29 10:33:43 | 野口英世
ワイル病とレプトスピラ

ワイル病は1886年にドイツの医学者Adolf Weilによって報告された疾病で、以前はワイル氏病と呼ばれていた。
1915年に日本の稲田らによりワイル病の病原体が発見され、Spirochaeta icterohaemorrhagiae と命名された。その後、野口英世の提唱によりLeptospira(レプトスピラ)属に分類されることになった。

これはレプトスピラの電子顕微鏡写真であるが、大きさは6~20μmのらせん状の細菌で、菌体の両端または一端がフック状に曲がっているのが特徴で、活発に運動する。
このレプトスピラの環境中での自然宿主はネズミなどの野生動物で、感染動物はレプトスピラを腎臓に保菌し、尿中に排出する。人はネズミなどの感染動物の尿で汚染された水田や土壌との接触により経皮的または経口的に感染する。
レプトスピラは世界各地で分離され、免疫学的性状により250以上の血清型が知られていることから、これらによる病気をワイル病の他にレプトスピラ症とも呼ばれる。
ウィル病では5~8病日目に黄疸が発現し、皮膚に点状出血が現れる。さらに循環障害や腎不全を起こし、重症に発展することもある。

英世は上司を通じて、稲田らが発見したこのレプトスピラを入手している。同時にアメリカを含む世界各地で分離されたレプトスピラも入手していた。
これら複数のレプトスピラを用いて英世はレプトスピラに関する論文を7報発表している。
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野口英世はなぜ間違ったのか(1)

2013-01-25 16:44:00 | 野口英世
野口英世といえば多くの伝記が出版されており、千円札の肖像にも載っていることから知らない人はいないであろう。
私も子供の頃、子供向けの伝記を読んだものだ。
英世は幼い頃、手に火傷をおいながらも勉学に励み、医師となる。その後アメリカに渡り、数々の業績を上げるが、アフリカで黄熱病研究中に黄熱病に罹り殉職する。
福島県の猪苗代にある野口英世記念館へ行くと、英世の生い立ちと業績に関する資料が多数展示されている。


英世は多くの研究業績を残したが、現在ではその業績のいくつかは、間違いであったことが知られている。なかでも、英世の業績中、最も大きな業績である黄熱病の病原体の発見は間違いであった。
英世は黄熱病の病原体を梅毒の病原体であるスピロヘータの仲間であるレプトスピラであると報告している。
黄熱病の病原体はウイルスであったことから、後世の人々は英世の時代にはまだ電子顕微鏡はなく、発見しようにも無理であったと彼を擁護した。
しかし、私は電子顕微鏡が無かったために、間違ったのではないと考えている。
当時、既にレプトスピラはワイル病の病原体として、日本の稲田らによって発見されており、英世もその病原体を入手していた。しかも、その病原体をレプトスピラと命名したのは英世本人であったのである。
ワイル病と黄熱病は黄疸と出血の症状は共通しているとはいえ、ワイル病の病原体と承知している細菌を黄熱病の病原体とするには、かなり無理がある。
その無理をなぜ通したのかを、英世のレプトスピラ、黄熱病に関する論文及び英世の手紙などから検証してみようと思う。
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讃岐うどん

2013-01-10 16:34:05 | 日記
1月10日(木) 曇り時々雪

午前中に今年初めて亀田体育館のトレーニングルームへ家内と出かけた。
年末・お正月と普段より多く食べ、運動をしてなかったため、少々体重が増えている。
先ず、10分間ほどストレッチ運動をし、30分間のウオーキングマシンで汗をかいた。
その後、腹筋と背筋の運動をして、今回は終了。

昼食は亀田駅前通りにある讃岐うどんを食べると決めていた。
平成9年だったと思うが、香川県に出張したとき、醤油をかけて食べるうどんに初めて出会った。美味しかった。
何年か前から新潟でも、この様な讃岐うどんを提供する店ができた。
今日行ったのは「丸亀製麺」というお店。

注文したのは「釜玉うどん」。釜揚げうどんに生卵を絡ませたうどんである。カルボナーラのようになる。それにだし醤油をかけて食べる。

今回はネギとテンカスと少量の生姜をトッピングした。
満足して帰ってきた。
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91歳の誕生日

2013-01-09 15:15:50 | 日記
1月8日

母が91才の誕生日を迎え、いつものように割烹Yで家内と三名でお祝いの食事をした。五泉へ来てから四度目の誕生日である。
北見に住む弟夫婦から贈られた花を母の横に置き食事を始めた。

母は運ばれてくる料理を刺身を除いて次々に完食した。北海道出身の母は刺身は白身しか食べない。食べ慣れない赤身の刺身は苦手のようである。それがマグロのトロでもある。
母は8人兄妹の三女であるが、その兄妹も今は母と網走に住む末の妹だけになった。

母は若くして樺太に渡り親戚の店を手伝っていたが、そこで父と結婚した。
そしてロシアは南樺太に進攻してきた。日本の人々は逃げ惑い、子供を捨てて逃げる人もいたとのこと。また、その子供を連れて逃げる人もいたそうである。
結局、両親はロシアに占領された南樺太から網走に住む母の一番上の姉を頼って昭和22年に一歳の私と共に北海道へ引き上げて来た。
それからの生活は多くの人々がそうであったように苦しいものであったことは、幼い私にも理解できた。
そうして、今日91歳の誕生日を迎えることができた。掛かり付けの医師の話では、骨は丈夫で骨粗鬆症ではないとのことである。しかし、足は以前より大分弱くなったように見える。
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