日日是好日

退職後の日々を写真で記録

僧侶になったわけ

2020-06-30 10:14:26 | 日記
43年務めた製薬会社を65歳で定年退職した。
25歳のとき初めて接心に参加し座禅を始めたが、仕事が忙しくなるにつれて一週間の休暇を申請することが無理になり飛び飛びの参加になり最後の接心は40歳ころだったと思う。
退職後は時間がたっぷりできたので家内の勧めもあり接心の参加を再開した。
何回か接心に参加してから、僧侶になってみようかを思うようになった。
そのような気持ちになったのには二つほどの理由がある。

その一つは高橋宝善さんとの約束。
高橋宝善さんは隣町の平等寺の住職をしていた尼僧だった。
平等寺にはぶらっと立ち寄っただけだったが、その後日曜には平等寺にでかけていた。
高橋方丈は私のことを「変わった人で、お寺に来ても本尊さんに手を合わせるわけでもなく、手土産を持ってくるわけでもなく、昼寝して帰って行く」と檀家の人に言っていたらしい。
その方丈がある日、突然座禅に行ってこいと、着物、袴、座布を用意して言った。
そうして二度目の接心で見性を許され帰ってきたとき、方丈は「坊さんにならないか」と聞いてきた。さらに「このお寺は檀家が少ないので檀家から入る年収は3万円だが、裏の山へ行くと食べることができる草が沢山ある。」と付け加えた。
お坊さんになって平等寺を継がないかと言っていると思った。
私は「今仕事が面白くなってきているので、会社が潰れたり、首になったりしたら考える」とその時点ではお断りした。
会社はつぶれず、首にもならず退職できた。ほぼ40年前の話だが覚えていた。
すでに高橋方丈は亡くなっていたが、あの約束を果たしてみようかと思った。

もう一つの理由は死が近づいているとの思いである。
70歳に近づくと死の準備をふと考えたりする。
高校のクラス会が時折開催されるが、その名簿を見るとすで多くの同級生がすでに亡くなっている。
いずれ死ぬのであれば、もう少しましになってから死にたいものだと思った。

北海道に住む僧侶Gさんに相談した。Gさんは友人の死をきっかけに僧侶になった。

最後は接心で指導を受けている福島の好国寺専門僧堂の玉木老子にお願いし弟子にしていただいた。
雲水として8人の人たちと僧堂の暮らしが3年間続いた。
8人とも若い人たちで、みなお寺を継ぐ立場の人たちであった。
しかし私には昨年亡くなったが、認知症の母がいたので毎日の修業はできなかったが3年間何とか続けてから送行した。
雲水としての修業だけでは住職の資格は取れないが、それでも良かった。
少しはましになったかどうか分からないが自分では変化を感じ取ることができた。
送行後は僧侶として老子に言われたように、早朝の座禅と朝課、晩課をほぼ毎日続けている。

付)
3年修業をしたからといって名僧になれるはずもなく、73歳の小僧を続けています。
「生きるとは何か」と問われてもチンプンカンプンの返事をしてしまう。
「生と死の問題」とも違う。改めて考えてみました。
「朝起きたら歯をみがき、顔を洗う」と出してみました。
当たり前のことを三昧になって行うことです。歯をみがくときは歯磨きに、顔を洗うときはそのことだけに一生懸命になる。草取りするときは草取りに、車を運転するときは運転だけに三昧になる。
禅的?で腑に落ちないでしょうか。

以前テレビか何かで瀬戸内寂聴さんが言った利他に関する言葉を書きだし、私の机の上のガラス板の下に入れてあります。それがこれです。


意味はそのままですので特に説明はいらないかと思いますが、「他」とは人だけでなくあらゆるものが考えられます。ここでは「人の幸せにつながるよう」とありますので人で考えてみます。
老夫婦であれば最も近い他は夫であり妻でしょう。
夫(妻)に奉仕してみましょう。例え現在険悪の状態でもです。
愛語をもって「たまにはランチに行ってみようか」と言ってみましょうか。
これも奉仕でしょう。必ず自分に返ってくるでしょう。
みんな、そう長くなく死ぬのです。少しでも穏やかに死にたいものです。







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R2ツバメ日記(16)-食事は平等か-

2020-06-27 11:34:10 | ツバメ
令和2年6月27日(土)

ツバメの写真を撮るときは巣に一番近い窓の左右のカーテンを引いてその隙間からレンズを出して撮る。



五羽のヒナがいるのだか、多くは四羽しか写らない。左奥の一羽は写らない。
今年の親ツバメたちは必ず巣の右側から飛んできてヒナたちに食事を与える。



従って一番奥のヒナに食事を与える機会が最も少ないのではないかと思われる。
そこで反対側の窓から撮ってみた。



一番左のヒナを撮ることができたが、親が来ても口さえ開けていない。
他のヒナより少し小さく見えるのは気のせいだろうか。
反対に一番右側のヒナは大きく見える。


ある本で「餌をもらったヒナは後ろに退き別のヒナに場所を譲る」と書かれていたが、そのような様子は見られない。
当然与えられた食事の量により体の大きさが違ってくるだろうし、巣立ちにも影響する。
毎年巣立ちの際には一羽だけ遅れることがある。そのような時は体の大きさが他のヒナに比べて明らかに小さい。
食事量が平等でなかった結果であろう。
誰か場所を換わってくれませんか。
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R2ツバメ日記(15)-ヒナ5羽確認-

2020-06-26 09:43:53 | ツバメ
令和2年6月26日(金)

昨夜からの雨は上がりましたが青空は見えません。
それでも両親ツバメは朝早くから子供たちの食事の調達に懸命です。




昨日ヒナの数が5羽であることが確認できました。
鳴き声もだんだん大きくなってきました。


ヒナたちは生きようと一生懸命です。


このヒナたちはもう三か月ほどすると、越冬のため南の国へ数千キロの旅に出なければなりません。
そうして来年の春にはまた生まれたところへ無事に帰ってきてほしいものです。


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R2ツバメ日記(14)

2020-06-24 13:46:54 | ツバメ
令和2年6月24日(水)

今朝5時前の両親ツバメです。


顔を出しているのは2羽のヒナだけです。だいぶ大きくなりました。
頭に産毛のような毛が生えています。


お父さんツバメが食事を運んできました。





自分で巣の外に排便できるようになりました。



フンが落ちるすぐ横に先日小さな紫陽花が咲きました。




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父の日に想う

2020-06-23 14:31:40 | 日記
先の日曜日は父の日で娘二人からプレセントが届いた。
毎年プレゼントを送ってくれるが、そのたびに少し面はゆい気持ちになる。
娘たちが子供のころはほとんど父親らしいことをしてこなかったからである。
子供の躾などはほぼ母親がやっていたように思う。
いまさら反省しても仕方がないが、父の日にはいつもそういう気持ちになる。

昨夜、NHKの「ファミリーヒストリー」で柳葉敏郎さんが8歳で死別した父親ら家族の歴史について放送されたのを見ながら自分の父親のことを思っていた。

父は長男であったが、なぜ、何歳で樺太に渡ったのか私は知らない。
父もそのことをほとんど語らなかった。
終戦後真岡で生まれた私と母を伴い引き上げて北海道の実家に戻ったが居場所がなく私の母の姉妹を頼って網走へ行き職に就いたと母から聞いた。
父は穏やかな人だった。怒られた記憶はない。網走で生まれた弟妹たちもおそらく怒られたことはなかったであろう。
その点は私は受け継がなかったようである。どちらかというと性格は母親の血を引いたようである。
しかし、顔も話し方も年とともに父にそっくりになってきた。

今朝、私が子供のころの父親と撮った写真を探してみた。
たった2枚だが見つかった。
1枚は住んでいた家の前にあったニワトリ小屋の前で父が1歳になるかどうかの妹を抱いて男兄弟3人と映った写真。
ニワトリを10羽ほど飼っていたように思う。毎朝卵を取りに行くのが私の役目だった。
もう1枚は弟子屈の硫黄山の前で父と私が並んで撮ったもの。私が三年生ぐらいであろう。
おそらく父の職場の慰安旅行に同行したのだと思う。

父とは会話が多かったとは言えないが、私が大学生だった頃だろうか、社会人になってからだったか覚えていないが「生まれた真岡へ一度行ってみたい」と言うと「お前もそんなことを言う年になったか」とポツリと言った。





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