日日是好日

退職後の日々を写真で記録

野口英世はなぜ間違ったのか(9)

2013-02-25 11:25:30 | 野口英世
野口は ETIOLOGY OF YELLOW FEVER(黄熱病の病理学)のタイトルで14編の論文を発表している。
以降、順次それらの論文の要旨とコメントを記す。
第1報は下の写真の論文で、黄熱病の症候と病理学的発見について記載している。

この論文では南米のエクアドルの最大都市であるグアヤキルの黄熱病病院に収容された黄熱病症例で観察された臨床症状と病理学的変化について記載されている。
野口英世の年譜を見ると、「1918年(大正7年)6月、エクアドル・グアヤキルに出張、9日目に黄熱病病原体を発見。」とあるので、この論文はこの際の研究をまとめたものと思われる。

論文の要旨

臨床症状
1)一般的な症状
・潜伏期間は3~6日で、重い頭痛、腰痛及び食欲不振になる。
・吐気と嘔吐があり、黒い吐物が発病後、初日又は数日後にあり、激しい胃部の痛みに苦しむ。
・舌が白いコートを持ち、先端と脇が赤くなり、その後茶色になり乾燥する。
・非常にのどが渇く。
・結膜は2~3病日に黄色っぽくなり、2~3週間続く。
・皮膚は通常乾燥し、黄疸が現れる。
・歯肉はおびただしく出血する。
・尿は量が減り、多くの症例では一日、無尿である。
・死亡は4~9病日の間におきるが、まれにはその前後に起きる。
2)個々の症状
熱:1~2病日は非常に高く、39~41℃に達する。
黄疸:黄熱病の最もコンスタントな出現症状の一つである。黄疸の強さは病気の激しさに比例する。4日又は5日目に黄疸は濃くなり、体全体が明るいサフラン色から黄土の黄色を呈する。
白血球:一般に病気の1日目に少し白血球増多症になるが、直ぐに正常に戻る。そして数日後に著しい白血球減少が始まる。
出血:生存中、出血はいろいろな形(鼻出血、吐血、メレナ(黒色になった変質血液を吐くこと、同上の便を出すこと)、血尿、歯肉の出血、結膜斑状出血、時々皮下溢血及び点状出血)で現れる。
吐気と嘔吐:食欲不振に伴う吐気は初期からあり、直ぐに嘔吐が続く。黒い吐物については上記したが、しばしば胆汁のように見える。
痛み:激しい頭痛は全ての患者が最初の3又は4日の間に訴える。胴、腰、ふくらはぎと腕の筋肉の痛みが全てのケースで見られる。
3)人間における黄熱病の死体解剖による発見
黄熱病で死亡した人を解剖し、各種臓器の変化について記載している。(以上)


野口はこの論文で、黄熱病の臨床症状と死体解剖で各種臓器の変化を非常に詳しく記載している。従って野口は黄熱病を熟知していたと思われる。
なのに野口はなぜワイル病と黄熱病の患者を取り違えたのであろうか。確かにワイル病と黄熱病では黄疸や出血の類似した臨床症状はあるが、黄熱病では吐気、嘔吐があり、嘔吐の際には黒色の吐物を出すなど、明らかに異なる点が多くあるのに。
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野口英世はなぜ間違ったのか(8)

2013-02-22 17:33:42 | 野口英世
野口は黄熱病の病原体の発見を1919年に発表しているので、これから示すレプトスピラに関する最後の論文はその後のものであり、黄熱病の病原体としてしてのものである。(先に野口はレプトスピラに関する論文を7報発表していると書いたが、6報の間違いであったので、ここに訂正する。)


論文の要旨

ペルーのPayta、PiuraとMorropon の黄熱病回復期の患者の血清はGuayaquil(エクアドルの都市)とMerida(メキシコの都市)で分離されたLeptospira icteroides 株でのPfeiffer反応で陽性を示した。それらの血清はこれらの株からモルモットを防御した。
Pfeiffer反応は全ての最近の回復期の患者(7~36日)で陽性を示したが、黄熱病に10ヶ月前に罹った患者からの血清では少し又は部分的にしか陽性を示さなかった。
Morropon株の毒性はGuayaquil又はMerida株のそれとほぼ同じであることが分かった。
一つの株での最少致死量(モルモット)は感染モルモットの腎臓エマルジョンの0.00001cc以下であった。
感染物の2000~20000致死量を接種されたモルモットに抗icteroides血清の十分量を与えると、感染の増悪又は死亡を防いだ。
それらの血清は潜伏期又は発熱後に与えられた。潜伏期では0.0001~0.001ccの少量の血清投与で十分であった。発熱期では0.01~0.1ccが病気の進展を阻止するのに必要であった。黄疸が既に現れたときでさえも、0.1から1ccの接種は、株3を接種した4匹のモルモットのうち3匹を救った。そして株1を接種した3匹のうち1匹を救った。(以上)


Pfeiffer反応とは抗体を検出する方法で、有毒レプトスピラと血清とを混合しモルモットに接種したとき、モルモットが死亡しなかったら、その血清にはそのレプトスピラに対する抗体が存在していたと解釈する。
この論文は既に黄熱病の病原体はレプトスピラであると発表した後のものであるが、野口は同じレプトスピラであることからワイル病のときと同様にPfeiffer反応試験を用いて検査を行っている。
現在では黄熱病の病原体はレプトスピラではなくウイルスであることが分かっているので、この論文での黄熱病患者はPfeiffer反応が陽性であることからワイル病患者であったと思われる。仮に黄熱病患者だったとしてもワイル病を併発していたか、過去にワイル病に罹っていたものと思われる。
この論文で使用した患者を黄熱病と診断したのは野口ではなく、他の医者がワイル病を黄熱病と間違って診断し、野口は黄熱病患者の血清だとしてもらい受けたのだろうと思われる。
しかし、当時の黄熱病の診断基準はどのようなものであったのだろうか。真の黄熱病患者の血清を用いていれば、Pfeiffer反応は陰性になり、レプトスピラ病原体説に少しは疑問を持ったであろうに。
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野口英世はなぜ間違ったのか(7)

2013-02-15 20:04:53 | 野口英世
ワイル病に対するワクチンは稲田らによる病原体の発見(1915年)当初から検討されていた。稲田らは動物実験でワクチンが有効であることを立証し、次いで実地にも応用して著しい効果を発揮した。
しかし野口は、一つの菌株で作製したワクチンは他の菌株に対しても同等に防御するのかどうかの疑問を持っていた。そこで幾つかの菌株を用意し、それぞれでワクチンを作製して、その効果の比較実験を行い、論文とした。それが下の写真にあるレプトスピラに関する第5報目の論文である。

今回は、日本、アメリカ、ヨーロッパで分離された菌株間で、一つの株と他の株との関係を調べるための実験を行った。

論文の要約と結論

方法:
・アメリカ株2株、ヨーロッパ株1株、日本株1株のワクチンを作製した。
・各ワクチンの0.5、0.05、0.005cc を5日間隔で3回モルモットの皮下に接種した。
・各有毒株で最終接種後、2,4及び8週後に攻撃した。

結果:
・0.5ccのワクチンを接種したモルモットは、どの株での攻撃でも生き残った。
・0.05ccのワクチンを接種したモルモットは、ワクチン製造株と同じ株の攻撃には耐えたが、他の株の攻撃で死亡するものもあった。
・0.005ccの場合、アメリカ株1と日本株はワクチン株と同じ株での攻撃には耐えたが、その他の株での攻撃では死亡した。その他のワクチン接種モルモットは製造株での攻撃でも死亡した。
・以上のデータから、ワイル病ワクチンは、十分な量を接種すれば、モルモットは全ての株に対して免疫状態になるが、少量であると製造株に対しては免疫状態になるが、他の株に対しては防御できないかも知れないと結論付けられる。
・このことから、普遍的な免疫をつけるためには、ワクチンの作製においてできるだけ多くのタイプの株の入った混合ワクチンが良い。(以上)

この研究で野口は同じワイル病の病原体でも、少しずつ抗原性が異なることに気がついていた。しかしこの時点では現在知られているようなレプトスピラに多く(250以上)の血清型があることは想像もしなかったであろう。
では今回の研究技法を黄熱病病原体としたレプトスピラに対して野口はどのように利用したのだろうか。
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蘭越へ

2013-02-13 16:29:51 | 日記
2月8日(金)

昨夜はさっぽろ雪まつりを見てから小樽駅前のホテルに宿泊した。
小樽は叔母も居て、一度ゆっくりと見て回りたい街だが今回は時間がなく、朝早く小樽駅へ行き、蘭越へと向かった。

(ホテルの窓から撮った小樽駅)

小樽駅のジーゼル内で出発を待っていると、如何にも北国の列車が入ってきた。それは雪まみれで、逞しくもあった。


蘭越までは二時間ほどの旅だが、途中、スキー場で有名なニセコを通る。さすがに雪は多い。


途中車窓から外を見ていると、見慣れないもの見た。木々に大きな雪の玉が乗っているのである。それが、あちらこちらに有り奇妙であった。
どのようにして、このような雪の玉ができるのであろう。走る列車から撮った写真が下のものである。


蘭越には、昨年の摂心でお会いした僧侶の方が住んでいる。いろいろお話したかったので蘭越まで来てしまった。
午前中から話をして、夕方からは宿泊予定の温泉(蘭越町交流促進センター幽泉閣)に場所を移して、奥様も一緒に食事をしながら十時半頃まで
話ははずんだ。多くを教えて頂き、良い旅であった。

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さっぽろ雪まつり

2013-02-13 15:20:46 | 日記
2月7日(木)

高校を卒業するまで北海道に住んでいたが、札幌で開催される雪まつりは見たことがなかった。
一度は見たいと思っていたが、退職して時間ができたのと、他にも会いたい人もいて、家内と札幌へ出かけた。
新潟からの飛行機はお昼少し前に新千歳空港に着いたので、空港内の松尾ジンギスカンの昼食を取った。


食事後、直ぐに札幌へ出て、雪まつりを見に出かけた。札幌駅から大通り公園の会場までは地下道を歩いて行くことにした。
途中、雪まつりの公式ガイドをもらい大通会場3丁目で地下道を上がった。


地上に出ると、生憎の雪模様で、風もあったが、帰るわけにも行かず、見て回ることにした。以下はその雪像の写真である。
4丁目:伊勢 神話への旅


5丁目 豊平館


6丁目 中正記念堂(台湾)


7丁目 ワット・ベンチャマボピト(大理石寺院)


北海道の人は雪が降っても傘は差さない。我々も傘を差さずに歩き続けたが、雪と風が強くなってきたので、限界と思い、ここで引き上げることにした。
帰りも地下道を歩いたが、結構疲れた。宿泊予定の小樽へ向かった。
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