尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日中戦争と海軍の責任-「日中戦争全史」を読む①

2017年12月09日 23時14分36秒 |  〃 (歴史・地理)
 笠原十九司「日中戦争全史」(上下、2017、高文研)を読んだ。今年出たもっとも重要な本(の一つ)じゃないかと思う。上下2巻それぞれ2300円もするんだけど、日中戦争に関して長く研究を続けてきた笠原十九司氏(1944~、都留文科大名誉教授)の集大成的な一般書である。日中戦争が本格化して80年である2017年に読んでおきたかった。読んだら新知見がずいぶんあった。

 本の帯に「戦争には『前史』と『前夜』がある」と書いてある。戦争は突然起きるのではなく「前史」がある。それがいよいよ開戦「前夜」になったら、謀略でも偶発事件でも簡単に戦争になってしまう。日本国民が日中戦争の歴史から学ぶべきことは、いつから「前史」が始まり、いつ「前夜」に転換したかを知ることだという。こんなに判りやすく現時点で歴史を学ぶ意味を教えてくれる言葉はないだろう。一般書と専門書の中間のような本だけど、ぜひ多くの人が読んで欲しい。

 まず「前史」だが、1915年の「21か条要求」から書かれている。ずいぶん早い感じだが、確かにその時に認められなかった条項も、日中戦争で「実現」したことばかりだ。そして、1928年が「前史の転換点」となった。蒋介石の国民革命軍の「北伐」に干渉した「山東出兵」、そして「張作霖爆殺事件」の年である。この認識は誰も異論がないだろう。そして、1931年、「満州事変」が起きた。

 「満州事変」の発端となった柳条湖事件は、よく知られているように関東軍の謀略だった。その後「満州国」建国に至る過程も国内外で謀略的に進められた。関東軍とは関東州=中国から租借した遼東半島や満鉄を守備する陸軍部隊である。一方、「満州事変」から日中戦争への過程は案外知られていない。その後、「アジア太平洋戦争」になると、日中戦争もその一環とされ戦争の意味も大きく変わった。その期間も含めて日中戦争だけをまとめた研究はほとんどない。

 今回ビックリしたことは、日中戦争を本格化させた責任は海軍が大きいということ。すでに1936年段階で「帝国国防方針」を改定して、盧溝橋事件の前に日中戦争を準備していた。史料を虚心に読めば、なるほどその通りである。満州事変を起こして、陸軍は国防予算の大増額を勝ち取っていた。陸軍は満州国をベースに「北進」、つまり対ソ連戦を想定していた。それでは海軍の存在価値がなくなってしまう。日中戦争から対米英開戦にいたる海軍の事情はぜひ本書を直接読んで欲しい。

 1937年7月7日に起こった盧溝橋事件は、確かに偶発事件だった。しかし、本書を読めば現地は「マッチを擦れば火事になる」状況だったことが判る。それでも「北支事変」、つまり中華民国の首都だった南京や国際都市上海には飛び火させず、「華北」に戦闘を止める可能性は十分にあった。それを本格的に大戦争にしたのは、海軍の謀略だった。衝突を上海に飛び火させた「大山事件」は海軍が起こしたのである。これは笠原氏が2015年に刊行した「海軍の日中戦争」で初めて論証した。

 海軍にも「陸戦隊」という組織がある。アメリカの海兵隊みたいなもので、僕は1937年に作られた「上海陸戦隊」という熊谷久虎監督(原節子の義兄)の映画を見て知った。その上海陸戦隊で派遣隊長をしていた大山勇夫中尉が中国軍に狙撃されて死亡したのが「大山事件」である。中国側の不法な発砲なら、「予想しない死」である。しかし大山中尉は遺書のようなものを残し、身辺整理をして部下にも講話した後に、運転手に命じて中国側が支配していた飛行場に突入した。「自爆テロ」である。

 大山は26歳で妻子もない三男で、父もすでに亡く長兄が家を継いでいた。国家主義者の頭山満に心酔するマジメ一途の皇国青年だったらしい。(「童貞中尉」と呼ばれていた。)「後顧の憂い」がない点に上司が目を付けて、彼にお国のために命を捧げることを求めたのである。そして、その事件をきっかけに戦争は上海に飛び火し(第二次上海事変)、それが南京攻略戦につながっていく。恐ろしいことだが、このように謀略で戦争が拡大したのである。そんなことを海軍が命じるのかと思うかもしれないが、それが軍隊なのである。大山中尉の家族が異例の厚遇を受けたことも証拠になる。

 海軍と言えば、何となく陸軍より平和的だったイメージがある。満州事変を起こしたのは陸軍の関東軍。二・二六事件では海軍出身の岡田啓介首相や斎藤実内大臣が襲撃され、以後陸軍が主導権を握った。陸軍出身の東条英機内閣で米英との戦争が始まり、敗戦時の御前会議でも、陸軍はポツダム受諾反対を主張した。それらを見ると、確かに戦争は陸軍が勝手に始めたような感じで、比べれば海軍の方が平和的だったイメージになる。しかし、それも再検討が必要だろう。天皇の戦争責任を免責するため、「すべては陸軍の軍閥が悪かった」と陸軍にすべてを負わせる方針が作られた。そこで天皇とともに、海軍は免責される側に回れたんじゃないか。

 当時の海軍は伏見宮軍令部総長を務めていた。(旧憲法では「軍政」は軍部大臣だが、「軍令」(作戦や用兵)は天皇直属で、陸軍は参謀本部、海軍は軍令部で行っていた。)皇族という権威には誰も逆らえず、海軍では伏見宮の寵臣のみが出世できたのである。山本五十六井上成美らが、「内心では日米戦争に反対だった平和主義者」とされることがある。だが彼らこそ、中国各地の都市、特に南京や重慶に対する不法な大空襲の責任者だった。真珠湾攻撃の準備は、すべて中国空襲で行われていたのである。他にも論点は多いが、とりあえず2回に分けたい。
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清水潔『「南京事件」を調査せよ』を読む

2017年12月08日 23時18分01秒 |  〃 (歴史・地理)
 清水潔氏の『「南京事件」を調査せよ』(2016、文藝春秋)を読んだ。去年出た時に買おうかどうしようか迷ったけど、やっぱり買っておいた本。ホントはもう単行本はあまり買いたくないんだけど。テレビで南京事件のドキュメントが評判になったし、清水潔氏の本だから買ったのである。清水さんは「殺人犯はそこにいる」という本を書いた。その本は去年になって「文庫X」として突然大評判になった。僕は本が出た少し後で読んで、『「殺人犯はそこにいる」という本』をブログに書いた。

 いま読んだのは、ちょうど南京攻略戦と大虐殺事件から80年だからである。だからだろう、今月の文春文庫新刊を見ると、早くもこの本が文庫化されているではないか。池上彰氏の解説も付いてるし、一年ちょっとで文庫になるんなら待ってれば良かった。まあ、多くの人が手に取りやすくなったわけだから、僕が読んで紹介しておこうかと思って書いておく次第。

 この本を買うかどうか迷ったのは、目次を読んでパラパラと読んでみたところ、おおよそ知っていることばかりなんじゃないかと思ったのである。読んでみて(後述するように)、実際知っていることが多かった。だけど、僕はちょっと間違っていた。清水氏は1958年生まれで、桶川ストーカー事件や足利事件などで活躍したジャーナリストである。現代史に関しておおよそのことは知ってるだろうと思ったんだけど、案外知らなったことも多いらしい。それなら世の中で知らない人がいるのも当然。

 清水氏が南京事件を調査していたのは、2015年の頃だった。戦後70年のその年、朝日新聞に対するバッシングが起こっていた。清水氏も「右派」からの論難に足をすくわれないよう、細心の注意を払って調査を続ける。読んでいて、そこまでするのかとちょっと驚いた。世の中には、日本政府が一度も否定できない南京事件を全否定してしまう人もいる。しかし、清水氏も書く通り、否定論には一次史料に基づく根拠がない。清水氏が求め続けるのは、一次史料による証明力と言っていいだろう。

 そうなると、兵士の残した日記などの一次史料が重要になる。もう当時従軍していた兵のほとんどは世を去っている。そこで1996年に出された「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」に注目する。この本をまとめた小野賢二氏は、福島県に住む「化学労働者」で勤務の合間を縫って郷土の兵士を訪ね歩き多くの史料を発掘した。現代史に関心がある人には知られているけど、まだ知らない人も多いんだろう。小野氏はもう退職していたとこの本で知った。

 小野氏が発掘した多くの日記は、大体は元の持ち主に返されているが、いくつかは小野氏に寄託された。そこで清水氏も現物を見ることになるが、いかにホンモノらしく見えても、さらなる証明力を求める。例えば、紙やインクは当時のものなのか。確かに僕もそう言われてみると、筆記具やインクの歴史に詳しいわけじゃない。でも、墨と筆があれば書けるわけだし、日露戦争の兵士の手紙もずいぶん見つかっている。部隊は詳細な記録を残さないといけなんだから、筆記具は行き渡っていたに違いない。万年筆は第一次大戦後に盛んになり、日中戦争ころに一番作られていたようだ。

 まあ、そのような手順を踏んでいき、日記に出てくる地名や船の名前などを確認していく。確かに朝日が「吉田証言」であれだけたたかれたから、細かな確認をクリアーしていかないと、日本テレビでドキュメント番組を作ることはできない。そうやって、日記に記されていた出来事、「揚子江の惨劇」を立証していく。これは南京占領後、入城式(12月17日)を前にぼう大な捕虜を大量に虐殺した出来事である。日本の上海派遣軍の司令官は皇族の朝香宮だったから、入城式当日に不祥事が起こらないように徹底した掃討を行ったのである。

 なお、それらの事件には「自衛発砲説」や「暴動鎮圧説」を主張する人もいることはいる。それらには著者が反論しているのでここでは触れない。その後、著者は現地を訪れたり、さらにさかのぼって日清戦争時の旅順虐殺を調査したりする。その結果、自分の祖父も日清、日露戦争に従軍していた歴史を知る。そういう自分につながる近代史を調査する時間の旅になっていく。

 そこも面白いんだけど、ここでは触れられていないことを書いておきたい。兵士の記録を中心に調査しているが、ことは上司の命令によるものだから、上官の記録にも触れて欲しいところ。また当時の各国外交官、あるいは国際難民区の状況などの重要だろう。この本では「捕虜」の虐殺が中心になってるが、略奪、強姦、放火も非常に多かった。「船で逃げる捕虜」を攻撃するとして、アメリカのパネー号を海軍機が爆撃した事件なども起きていた。

 南京戦に関しては、犠牲者数がどのくらいだったかは、今では二義的な問題だろう。国際法上明らかに不法な南京攻略戦がどのように起こされたかという本質の方がずっと大事だ。準備もなく、軍中央の命令もないまま突撃していった「作戦」とも言えない「作戦」。だから当然食料の補給などはなく、現地での略奪に頼ることを前提にしていた。そんな作戦が多くの軍紀違反を生むのは当然だったろう。(なお、「揚子江」は「長江」で統一すべきだろう。何十年も前から、教科書は長江である。)
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劇団民藝『「仕事クラブ」の女優」たち』を見る

2017年12月07日 23時10分35秒 | アート(演劇・落語等)
 劇団民藝による『「仕事クラブ」の女優たち』を見た。長田育恵作、丹野郁弓演出。三越劇場。ちょうど一年ほど前に、同じ作、演出で柳宗悦を描いた「SOETSU」を見たのもそこ。デパートの中にある古い劇場で、このような戦前のプロレタリア演劇を扱った芝居を見るというのも不思議。17日まで。

 僕は近年、作者の長田育恵さんのお芝居をよく見ている。日本近代史、中でも文化史、思想史に材を取った作品に共感することが多い。それでも最近は書き過ぎではないか。この作品は戦前の「新劇」の初期を扱っている。「新劇」といっても、何が「新」なのか半世紀も前から判らなくなっている。今じゃ普通のリアリズム演劇を見ると、「旧劇」の感じもしてしまう。だけど、日本では歌舞伎など「女形」を使う演劇が伝統芸能だった。「女優」がいるだけでも「革新」だったわけである。

 劇団民藝は、そういう「新劇」の流れを受け継ぐ劇団の一つである。この作品を上演するにはふさわしい。この劇は、昭和初期のプロレタリア演劇が弾圧に次ぐ弾圧を受けた時代を描いている。その時代を扱った演劇はいくつかあるが、この作品はとてもストレートに弾圧を生き抜く人々を描いている。演劇には様々な人々が関わっているが、ここでは題名通り「女優たち」の苦悩が描かれる。今も昔も演劇だけで生きていける人は少ないが、この時代にはまだまだ女優への偏見も強いし、逮捕された夫を支えたりするケースもあった。だから自分たちでアルバイトあっせん組織を作っちゃおう。

 それが「仕事クラブ」で、実話をもとにしている。当時は大きく報道もされたらしい。実際に仕事の依頼もそれなりにあった。プログラムに写真が載っているが、山本安英細川ちか子原泉子高橋豊子などの姿がある。山本安英は「夕鶴」のつうで有名。細川ちか子は戦前戦後に長く活躍した大スターで、美人女優として人気があった。戦後は民藝に所属した。原泉子は名脇役で知られ、中野重治夫人。高橋豊子は小津の晩年の映画で女将役をやってた人。

 そのような実際の写真を見ると、なんか現実感が湧いてくる。プログラムを買うのも意味がある。劇の中には、美人ともてはやされたり、夫が捕らわれた作家だったり、映画に活躍の場を移したりする女優たちが出てくる。劇の中には実名で出てくる人はいないのだが(亡くなっている小山内薫などは別として)、現実の人々をモデルとして書かれていることが判る。長田育恵さんは早稲田大学の演劇博物館に勤めていたことがあり、在任中に築地小劇場展などもあったという。

 ところで、この劇には奈良岡朋子が出ている。もう奈良岡さんの新作舞台をいくつ見られるだろうかというのも、この芝居を見たかった理由。奈良岡朋子演じる秋吉延という人物は多分創作だろう。築地生まれらしいが、広島の人。東京に来ていて、ビラを銀座でもらい劇を見に来た。だけど、左翼のプロパガンダのような芝居には批判的。近くで倒れていて劇団に連れられてきて、静かな言葉でいろいろと批判を繰り広げる。その中から、女優たちは自分たちで仕事探しをしようというアイディアを得る。そして、劇団に居ついて料理などを担当するようになる…という設定である。

 観念的に思想や芸術を広言する若き女優たちを異化するとともに、高齢の人生経験を生かして皆の心をまとめる。なかなか面白い役で、劇場の片隅で拾った本ということで、井伏鱒二「山椒魚」を朗読する場面がある。頭が大きくなりすぎて穴蔵から出られないという山椒魚に、当時の演劇運動の象徴のような意味を込めているんだと思う。劇の流れを止めて、ただ朗読の場面を入れるというのも面白い試みだった。奈良岡朋子への「充て書き」なんだろうが。

 今じゃ「新劇」を見に来る人も高齢化しているから、言わなくても通じるのかもしれないけど、ここには「伯爵夫人」が重要な役で登場する。伯爵というのは、日本の新劇運動の中心人物の一人、土方与志(ひじかた・よし)のことである。土佐出身の元宮内大臣、土方久元の孫として伯爵を継いだ。築地小劇場そのものを土方が資金を出していた。夫人は土方梅子。土方はチェーホフやゴーリキーなどを演出して翻訳劇を身近にした。劇中でも「夜の宿」を見たときの感激を皆が語っている。「どん底」はそのころ「夜の宿」と呼ばれていた。そんなことを知らなくても通じると言えば、多分そうだろう。でも芝居のもとにある細かな知識がある方がより面白い。

 彼女たちには、女優として、女として、左翼劇団として、さまざまな悩み、苦悩が押し寄せる。しかし、最後には彼女たちは良き日を目指して生きていく。革命的オプティミズムのようなものを感じる。それはそれでいいんだけど、現実には自由な演劇活動、表現活動をできるようになるまで、日本と世界には10年以上もの恐るべき苦難が訪れた。築地小劇場の建物そのものも、東京大空襲で灰塵に帰した。そういうことを考えると、今を生きる我々にももっと苦難が続くんじゃないかと僕なんか最近はペシミズムに襲われてしまう。そんなことも感じてしまったお芝居である。
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「シベリア出兵」とは何だったか-中公新書「シベリア出兵」を読む

2017年12月05日 23時04分10秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書の麻田雅文「シベリア出兵」を読んだ。2016年9月に出た本だから、およそ1年間買ったままだった。先にロシア革命100年を書いたから、それに続く問題意識で読むことにした。1917年のロシア革命100年は過ぎ、来年の2018年は米騒動と原敬内閣、そして「シベリア出兵」から100年だ。でも、僕でさえこの問題は詳しく知ってるとは言えない。多くの歴史教員もそうだろうから、当然生徒の方も「そんなのあったっけ」という人も多いんじゃないだろうか。

 この本にも「近代日本の忘れられた七年戦争」と副題が付いている。読んでみて、これは現代にもつながる問題で、もっと知っておくべき出来事だと強く思った。当初は第一次世界大戦中で、連合国の共同出兵による「ロシア革命干渉戦争」だった。しかし、他国が撤退したあとも日本のみが残り続け、撤退の機を逸し続けてゆく。出兵を開始した寺内正毅内閣に始まり、原敬、高橋是清、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦圭吾、加藤高明と内閣が変わり続け、7年間も続いてしまった。

 一度戦争を始めてしまうと、なかなか撤退できない。それは同時多発テロ事件の後に、アフガニスタン攻撃を始めたアメリカが、いつまでも残り続けていることでも判る。どちらも正規の政府に対して宣戦布告した「正式の戦争」ではなかった。「過激派勢力」を排除すると称して出兵したものの、相手政府がうまく機能しないからズルズルと残留しないといけない。そういう点は、日本がその後に起こした日中戦争にも似ている。現地の状況を無視して始め、始めた以上は成果無しでは撤兵できないという感情論で引くに引けなくなる。戦争というものは始まる前に止めないといけないのだ。

 「シベリア出兵」と言うけど、その言葉はあまり適切ではない。本書でもそれが一般的用語だから使用すると述べているが、読んでみると「シベリア戦争」と言うしかない。日本軍はウラジオストクを長期に占領し、ハバロフスクからチタ、イルクーツクまで侵攻した。またニコラエフスクで起きた日本軍民の虐殺事件(尼港事件)をきっかけに、北樺太を5年近く占領した。日露戦争後のポーツマス条約で、日本は南樺太を領有していた。だから一時は樺太(からふと=サハリン島)全島を支配したわけだ。なお、北樺太には石油が出た。この資源をねらった面もある。

 あまり細かな事実に深入りするのは避けたい。この問題に関しては、いくつかの専門書が出ている。原喗之「シベリア出兵」(1989)という大著の研究書を持っているけど、ものすごく分厚いから結局まだ読んでない。歴史の教員だって、自分の専門以外の研究書まではなかなか読めない。そして、シベリア出兵に関しては、手に取りやすい一般向け新書などは今までなかった。今回の著者、麻田雅文氏は1980年生まれの若手研究者で、岩手大准教授。この本でも何度も取り上げられる原敬の出身地盛岡で書かれたことは「何かの縁であろう」と書かれている。

 当初は国際的な駆け引きが激しく行われた。ロシアのボリシェヴィキ政府はドイツと単独和平してしまったから、英仏等は日米にシベリアからロシアとドイツをけん制して欲しかった。原敬は当初は野党党首として出兵には反対し、その後も極力撤退しようとするがなかなかできない。「統帥権の独立」で、本来総理大臣の権限は軍の命令指揮権には及ばなかったからである。陸軍内は明治維新から続く長州の山縣有朋が元老としてまだ権力を持っていて、陸相の田中義一もなかなか力及ばない。この山縣と原をめぐる駆け引きは近代史上に有名な話だけど、実に興味深いと思う。

 結局、ロシア領内に取り残された「チェコスロヴァキア軍」の救出を目的にして、米英中伊仏カナダとともに出兵することになった。(チェコスロヴァキアは大戦当時はオーストリア帝国の植民地で、ロシア国内にいたチェコ人や捕虜で軍隊を作って独立を目指していた。)ロシア国内では様々な反革命勢力があったが、日本は謀略的に多くの人々と接触し、コルチャーク政権を樹立した。このように、現地に傀儡政権を作って裏から操ろうというのは、後の満州事変、日中戦争でも繰りかえされた。

 そもそも日本軍がなかなか撤退しなかったのは(そのことは諸外国から大きく批判された)、シベリアの隣である「北満州」「モンゴル」への勢力増大を狙っていたからである。すでに日露戦争で朝鮮と南満州は勢力圏にしていたから、そのすぐそばに社会主義政権ができることは認められない。日本の中でも一部はシベリア領有まで主張したが、さすがにシベリアまで領土化することはできない。陸軍は歴史的に「北進」(ロシア、ソ連を仮想敵国とする)を求めることが多い。「満蒙は日本の生命線」と後に主張するわけだが、シベリア出兵こそその原点とも言える。

 尼港(にこう)事件のくわしい事情もあまり知られていないと思う。僕もパルチザンによる虐殺事件という程度しか知らなかった。でも、日本軍は単に駐留していたのではなく、事実上反革命勢力そのものとしてボリシェヴィキのパルチザンと戦っていた。だが、民間人捕虜も虐殺されたので、ボリシェヴィキ側の残虐性は否定できない。それでも革命進行時に外国勢力に干渉された「恨み」が残り続けたことも理解するべきだろう。やはり外国軍による干渉はよくない。

 結局、1925年になって、原敬はずっと前の1921年に暗殺され、レーニンも1924年に死亡したのちに、やっと日本は北樺太から撤退する。(同時にソ連を承認し、治安維持法を制定する。)「死者への債務」が撤退を政治家・軍人が決断できない理由に挙げられている。犠牲者を出したあとでは、犠牲者が納得できるような「お土産」(利権)がないと国民の反発を恐れてしまう。

 そんな中でも少数の批判者はいた。石橋湛山などの他、与謝野晶子も批判していた。
 「無意義な出兵のために、露人を初め米国から(後には英仏からも)日本の領土的野心を猜疑され、嫉視され、その上数年にわたって撤兵することが出来ずに、戦費のために今に幾倍する国内の生活難を激成するならば、積極的自衛策どころか、かえって国民を自滅の危殆に陥らしめる結果になるでしょう。」これは1918年3月17日付で横浜貿易新報に発表されたものだという。実際の出兵は1918年8月だから、5カ月も前にその後の推移を完全に「予言」していた。

 見える人には見えていたということである。そのことも今に残された思い教訓だと思う。なお、兵士の苦闘などには触れられていない。軍事、政治、外交史が中心になっているけど、「渦巻ける烏の群」などを書いたプロレタリア作家の黒島伝治などは紹介して欲しかった気がする。壷井栄を生んだ小豆島出身の作家である。極寒の地に贈られた兵の苦労は並大抵のものではなかった。
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2017年11月の訃報

2017年12月04日 21時28分09秒 | 追悼
 2017年11月は大きな訃報は少なかったけれど、やはりまとめて書いておきたい。まず僕にとってということでは、歴史学者の姜在彦氏や荒井信一氏から書きたい。
  (前=姜在彦、後=荒井信一)
 姜在彦(カン・ジェオン、11.19没、91歳)氏は僕にとって一番信頼できる朝鮮近代史の研究者だった。60年代までは民族運動に関わっていたが、70年代以後に組織を離れ歴史研究に入り、『朝鮮の攘夷と開化 近代朝鮮にとっての日本』『朝鮮の開化思想』などのすぐれた著作を書いた。これは要するに、朝鮮には自発的な近代化の可能性はあったのかどうかという切実な問いを研究したものだ。その後にまとめた一般向けの『日本による朝鮮支配の40年』『玄界灘に架けた歴史 日朝関係の光と影』などは実に使い甲斐のある本で、歴史教師必携だと思う。今もそれらの本の多くは文庫や選書などで手に入る。日本人にとっても知っておくべき朝鮮史の第一人者だった。

 荒井信一氏(2017.10.11没、91歳)は10月に亡くなったが、公表されたのは11月になってからだった。現代の様々なテーマ(第二次世界大戦、原爆、戦争責任等)についての著作があるが、むしろ編著者としての仕事で知っていたような気がする。それにやっぱり「日本の戦争責任資料センター」の共同代表ということで僕も一番知っていたかなあと思う。茨城大、駿河台大名誉教授。
 (岩田正)
 歌人の岩田正氏が11月3日に死去、93歳。僕は短歌のことはよく知らないんだけど、馬場あき子さんの夫だった人で、独特のユーモアと平和への思いを歌った。「現代秀歌」には、
 ときにわれら声をかけあふどちらかがどちらかを思ひい出だしたるとき
 が取られている。他にも紹介されている短歌は、
 イヴ・モンタンの枯葉愛して三十年妻を愛して三十五年
 オルゴール部屋に響けり馬場さんよ休め岩田よもすこし励め  は思わず笑える
 東京新聞の追悼文には
 九条の改正笑ひ言ふ議員このちんぴらに負けてたまるか というのがある。歌を詠むだけではなく、「万葉九条の会」というのを立ち上げたそうである。

 元赤軍派議長の塩見孝也氏が11月14日死去、76歳。1970年に赤軍派は日航機よど号ハイジャック事件などを起こすが、塩見氏はその直前に別の事件で逮捕された。よど号事件の共同共謀正犯として起訴され、本人は無罪を主張するも他の事件と合わせて懲役18年が確定した。1989年12月に出所したのちは独自の立場で思想的、政治的活動を続けていた。晩年になって地元の東京清瀬市で駐車場の管理人の仕事について、65歳になって初めて「労働者」になったと話題を呼んだ。著作もいくつかあるが読んでない。でも、結構面白いタイプの人だったんだろうなと思う。
 (塩見孝也)
 元朝日放送アナウンサーで、参議院議員となった中村鋭一氏が11月6日に死去、87歳。活動のベースが関西だったから、全然知らない。大の阪神ファンで有名だったというが、1980年の大阪選挙区に民社党推薦で出て当選したということで名前を知った。86年は西川きよしが出たから落選。89年に出身の滋賀県から連合の統一候補として当選。96年には大阪から衆議院議員に当選した。

 史上最高齢の囲碁棋士、杉内雅男九段(11.28没、97歳)、声優の鶴ひろみ(11.16没、57歳)、などが亡くなった。経済学者の西山千明(11.20没、93歳)は大学で講義を聞いた記憶がある。

 外国では、マルコム・ヤング(AC/DCのリーダー、11.18没、64歳)やデビッド・キャシディ(歌手、俳優、11.21没、67歳)、ファッションデザイナーでボディコンの創始者、アスディン・アライア(11.18没、77歳)などの訃報があった。しかし、やっぱり一番の「大物」と言えば、チャールズ・マンソンだろう。1969年に映画監督ロマン・ポランスキーの妻だった女優シャロン・テート等を殺害したカルト集団のリーダーである。この事件こそ、多くの恐るべき事件の元祖とでも言えるおぞましい惨劇だった。終身刑でカリフォルニアで拘禁されていた。83歳。
 マンソンの今昔)
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水村美苗「続明暗」を読む

2017年12月03日 21時21分01秒 | 本 (日本文学)
 漱石の「明暗」に続いて、水村美苗が書いた「続明暗」を読んだ。けっこう夢中で読んでしまったので、早く書かないと忘れてしまう。書いても「明暗」を読んでない人にはあまり意味がない。1990年に出たこの本が文庫化された時に買ったまま、僕もずっと読んでなかった。はっきり書いてしまえば、これは「明暗」よりずっと面白い。漱石がもう少し元気で、「明暗」を完成させていたとしても、多分これほど面白くはないだろう。そのことには著者も自覚的で、筋の展開を劇的にして心理描写を少なくするなど現代の読者に受け入れられるように書いたと言っている。

 「続明暗」が出た時点で、水村美苗(1951~)という作家はまったく無名と言える存在だった。親の仕事の都合でアメリカで育ち、エール大学で学んでいる。その後もアメリカで日本文学を教えていて、日本の文壇とは無縁だった。夫は経済学者の岩井克人で、1885年に「ヴェニスの商人の資本論」で一般にも知られるようになった。僕も岩井の名は知っていたが、「続明暗」が出た時点まで水村の名は知らなかった。(二人が夫婦だということも今回調べて初めて知った。)
 (水村美苗)
 「続明暗」はまるで漱石が描いたような文体で書かれている。現在の日本語に接しない環境だからこそ、何十年前の文章の世界に入っていけたのかもしれない。漱石がよく使う当て字も、ところどころで使っているが、さすがに漱石ほど目立たないように書いている。今じゃ校正でチェックされるはずだから、あまり目立ってもおかしいということかもしれない。

 しかし、一番ビックリしたのは文体模写ではない。漱石が「明暗」の中に書き散らした伏線を限りなく回収する手際の良さである。ほとんど完璧に近いと思う。「明暗」の最後で、主人公の津田が病後の転地療養を理由に温泉に行く。そこには結婚前に親しかった清子も療養に来ていた。そのことを津田に知らせ、旅行のお金も出してくれたのは、会社の上司の夫人である「吉川夫人」である。湯河原と思われる温泉宿で、いよいよ津田は清子に再会した。

 という、オイオイ、一体どうなるんじゃというところで作者病没のため未完になったわけである。で、いろいろあるんだけど、温泉宿へ津田の妹秀子と津田の友人小林が連れ立って乗り込んでくる。もうこの二人に出番はないのかと思っていたら、水村美苗はこんなところで使っている。じゃあ、どうしてこの二人が来るのかと言えば、その論理構成には寸分の隙もない

 一応書いてみると、津田の妻、お延が吉川夫人から事の真相を告げられる。夫人の構想では、それをもって「良き妻の教育」につなげるつもりが、お延はショックを受けて放心してしまい、いろいろあるが結局自分で湯河原に乗り込むことにする。そうなると、翌々日にいとこの岡本嗣子の見合いに出かける用事が果たせないので、下女のお時に命じて翌日になったら電話で延子が風邪をひいてしまって行けないと連絡させる。延子を信頼している嗣子は、延子の見舞いに訪れ、お時から真相を聞き出す。岡本は驚き、津田が育った叔父の藤井家に行くと、そこに小林もいる。岡本が見合いのため湯河原に行けないので、津田の妹秀子と事情を知る小林が湯河原行きを引き受けざるを得なくなる。

 「明暗」を読んでない人には全然判らないと思うけど、これは実にすぐれた「明暗」理解だろう。それぞれの登場人物の立場と人柄を合わせ考えると、漱石がどう書いたかは判らないけど、おそらくこのような展開になるべき必然性がある。そういう凄みをこの展開に感じた。また、「明暗」の冒頭の方に出てきてそのまま忘れていた、病院で清子の夫関に偶然会う場面。それを清子との会話に生かす。実際にこのようなことを言えるかどうかは判らないし、当時の新聞小説では不可能ではないかとも思うが、実に慧眼だと思った。(書いてしまうことにするが、関は性病治療に行ったのではないか、その病気が清子の流産の原因ではないかと津田は想像するのだ。)

 まあ、そう言った筋書きの作りはともかくとして、この「続明暗」によってこそ、漱石晩年の試み、「エゴイズム」追及という小説が誕生した気がする。それも湯河原の自然描写を背景に、人間ドラマも絡んで実に読みごたえがある。そして最後に延子を通して「則天去私」を語らせる。これが漱石のねらいだったか。最後まで強い緊張を持って、作中の人々は物語世界を疾走し、ラストで一応の決着を見る。それが「続明暗」で、漱石ファンに限らず多くの人がセットで一度は読んでみる価値がある。

 あえて言えば、当時有夫の女性と親しくするのは刑法上の疑いを招くことをもっと強調するべきではないか。「姦通罪」があり、夫が訴えれば刑務所行きである。そこまでのシーンはないけれど、津田には揺れる心もある。だが津田を思いとどまらせるのは、社会的制裁への恐れだったかもしれない。周りの人々もそのことをもっと心配したのではないかと思う。なお、最後に津田がどうなるかは書かれていない。津田を死なせる決着もあったと思うけど、作者はあえて延子に試練をくぐらせる。男性作家の漱石は違ったラストを用意したかもしれない。

 水村美苗はその後、「私小説」「本格小説」「新聞小説」という題名の長編を書いて、押しも押されもせぬ大作家になっている。「日本語が亡びるとき」という評論も大きな評判を呼んだ。どれもこれも読んでないけど、今度ぜひ続けて読んでみたいと思った。非常に読みごたえがあったので、その後の本も読みたくなる。
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感涙映画「八重子のハミング」

2017年12月02日 23時23分33秒 | 映画 (新作日本映画)
 もう終わってしまったんだけど、東京に残された数少ない名画座ギンレイホールで、「人生フルーツ」と「八重子のハミング」を見た。飯田橋にあるギンレイホールと高田馬場にある早稲田松竹が、建物もそのままで新作・旧作映画を邦洋問わず上映してくれる「名画座」である。ギンレイは2週間続きの番組だから、来週でもいいやと思ううちに終わってしまう。何とか最終日に見に行ったわけ。

 ドキュメンタリー映画ながらヒットしている「人生フルーツ」を見に来た観客が多いようだった。それも悪くはないけど、僕はもう一本の劇映画「八重子のハミング」について書いておきたい。映画っていうのはいろんなジャンルがある。話題の原作の映画化もあれば、アイドルがはじける青春恋愛映画もある。監督が自己の美学を追求した芸術映画もあれば、社会派のドキュメントもある。そんな中に「良心的映画」とでもいうべきジャンルがあって、僕はあまり見ることはないなと思う。

 子どもが難病になる、老人に介護が必要になる。まあ、そういうことが人生にある。病気や福祉の知識はあった方がいいし、家族や友だちが一生懸命に面倒を見ている姿を見て、考えさせられることが多い。でも、大体は実話をもとにしているそういう映画って、展開が似ている。芸術的にはそんなに新味があるわけじゃないから、ベストテンなんかには入って来ない。でも、とにかく泣ける。皆で安心して見に行ける。劇場公開が終わっても、映画館のない町で公民館などで上映されていくような映画。

八重子のハミング」は山口県萩市で教育長を務めた陽信孝(みなみ・のぶたか)という人が若年性アルツハイマー病の妻を12年間介護した原作をもとにしている。映画では石崎誠吾と名を変えているが、中学校長だった石崎がガンになるところから始まる。最初は夫の方だったのである。随所に短歌がはさまるので、国語の先生だったのだろうか。妻の八重子も音楽の教員で、一緒に山の小さな学校に勤務したこともある。その時は「男先生」「女先生」と呼ばれて、子どもたちに親しまれた。  

 そんな八重子が、夫の看病をする中でおかしなそぶりを見せ始める。外部の見舞客には普通の対応をするけれど、ずっと見ている夫の目からは違和感が募るようになってくる。友人の医者、榎木に見てもらうと、どうも若年性アルツハイマー病ではないかという。そんな中、自分がまたガンになる。仕事もあるし非常に大変になるが、妻は夫の病気を治すために自分が病気になったと周囲に言われて、自分が頑張らないといけないと心を強く持って復帰する。

 そういう日々が多くのエピソードでつづられていく。冒頭から、実は講演会の場面で、その講演の合間に、回想的に昔の話が描かれている。彼は妻の生前から、病気や介護に関する講演活動を行っていた。時には妻を連れて行く。だんだん病は重くなるけど、映画で映像を見ることで病気の様子がよく判る、また家族はどのように接するべきかなど、なるほどと思うことが多い。それらのエピソードが巧みに描かれていくから、かなり涙腺刺激映画になっている。周りでもハンカチを手放せない女性観客が多いようだった。泣けるように作っているんだから、泣くのも当然だが。

 エピソードのいちいちは書かないけど、主人公が言うのは「怒りには限界があるが、やさしさには限界がない」ということだ。そうなんだ、なるほどと思う。また教師として二人で勤務した学校では、誠吾が「元気でいいけど、これでもう少し学力があれば」というと、八重子の方は「元気が一番」といって「教育はすぐに結果が出ない。10年後、20年後のこの子たちが楽しみ」という。

 いつも二人の子供たちと遊んでくれた早紀という少女は、ある日椿の公園にいた二人に会う。今は小さな会社の社長夫人だという彼女は、その後も顔を見せてくれ、いつかは女先生の介護をしたいと介護資格の講座に通っているという。これが「教育はすぐに結果が出ない」という長い目で見た信頼の教育の「成果」なのである。これはとっても感動的なエピソードで、今の学校で一番大切なことじゃないだろうか。学校が目先の成績を競うことになってはいけないのである。

 「ハミング」というのは、もともと音楽教師だった八重子は病が重くなっても音楽に反応するのである。「ふるさと」を一緒に体を動かしたり。谷村新司が好きで、「」や「いい日旅立ち」が特に好きだった。(ラストに「いい日旅立ち」が流れる。)トイレでもなかなか脱げないのに、なぜか「長州なのに会津磐梯山」と主人公がいぶかるけど、会津磐梯山は宝の山よと歌うとおとなしくなる。

 家族がみな協力的だし、主人公は神社の神官であるらしく、家もしっかりしている。早期退職しているとはいえ、当然退職金はかなりあっただろうし、共働きだったんだから年金も相当になるだろう。家族が難病になると、金の問題も出てくるし、誰が介護するかで家族もバラバラになりやすい。そういう負の問題がここには全然出てこない。八重子の病気が最大の葛藤で、ドラマに他の問題が出てこない。出来過ぎな感じなんだけど、それはこういう映画に求めるものではないのかもしれない。

 そんな八重子は何十年ぶりに映画主演の高橋洋子。「旅の重さ」や「サンダカン八番娼館 望郷」で思い出深い女優だが、若い人には初めてかもしれない。「北陸代理戦争」のトークショーで、この映画に久しぶりに出た話は聞いていた。夫の石崎誠吾は升毅(ます・たけし)。人生初主演を、丁寧な役作りで好演している。友人の医者榎木は、誰だろうと思ったら梅沢富美男。今じゃ「プレバト」で俳句名人の印象ばかり強くなって、つい誰だと思ってしまった。長女は文音(あやね)。

 監督は佐々部清で、「チルソクの夏」「半落ち」「夕凪の街 桜の国」「ツレがうつになりまして」など、日本の「良心的映画」の名匠。気負いなくストレートに作っていくので、技巧は感じないけど、素朴な感動がある。そういう映画が多い。山口県下関市の出身で、山口県を舞台にした映画が多い。萩を中心に、山口県各地でロケしていて、地方の落ち着いた美しい風景も心に沁みる。松下村塾など全国的な名所が一切出てこないところもいい。どっかでやってたら、カップルで見て欲しい映画。
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横綱・日馬富士を送別する

2017年12月01日 23時18分09秒 | 社会(世の中の出来事)
 大相撲の第70代横綱・日馬富士(はるまふじ、伊勢ケ浜部屋)が引退した。九州場所が始まって少し経って、休場していた平幕・貴ノ岩が日馬富士にケガさせられていたと報道され、以来マスコミはこの問題で大騒ぎである。警察に被害届が出され、鳥取県警で捜査が進められているから、僕がここで書くべきことは特にない。相撲協会の内部抗争のような報道もされているが、そういうことに関心が全然ないわけじゃないけど、特に書きたいとも思わない。

 日馬富士という力士は、この問題が起こらなくても、そう遠くない時点で引退を避けられなかったと思う。幕内最軽量ながら闘志あふれる相撲を取ってきて、ケガが多く満身創痍というのが実情ではないか。2016年はすべて出場したものの(名古屋場所で優勝)、2017年は初場所を途中休場していた。その後も春場所が10勝、その後3場所が11勝だった。全部10勝以上はしているんだから、横綱失格とは言えないけれど、優勝にはちょっと遠い場所が多かった。秋場所は終盤で大関豪栄道が失速し、11勝4敗で優勝決定戦を制して9回目の優勝となった。

 最後に優勝できたのは良かったけど、他の横綱、あるいは大関が元気なら、11勝では優勝に届かないのが普通だろう。それでも序盤に3敗しながらも、よく付いていったもんだと思う。いま星取表を調べてみると、3日目に琴奨菊、4日目に北勝富士(ほくとふじ)、5日目に阿武咲(おうのしょう)と3連敗した。その後、10日目に貴景勝(たかけいしょう)に負けた。横綱が3連敗したら、日馬富士も休場してもおかしくない。その後優勝までする精神力はすごいと思う。

 僕は特に日馬富士が好きなわけじゃない。今じゃもう相撲にも、野球にもサッカーにも…、特に誰か好きなスポーツ選手がいるわけじゃない。ただ、「注目すべき存在」と思う人はいて、そういう人を見ていきたいとは思う。(スポーツに限らず、俳優や映画監督、政治家なんかでも似たようなもので、自分の生きている「熱」そのものが下がっているのかと思う。)日馬富士という人は、そういう意味で「注目すべき」人だった。何しろ横綱でありながら、日本で大学院へ通うとか、絵の個展を開くというんだから、ただものではない。単なる力士という枠に収まらない「」を持っている。

 その「熱」、つまり「熱い生き方」がここぞという時の素晴らしい速攻相撲にもなるし、悪い方に出れば今回のような事件を起こすのかもしれない。横綱在位31場所で、優勝5回、休場が今場所を含め6場所、9勝6敗が3回。調べてみるとそういう数字になる。大関時代にはかなりあった8勝7敗はなかったけれど、多くの場所は10勝とか11勝である。(15場所。)やはり軽量を突かれて序盤に失速して優勝に絡めない場所が多かったような印象がある。

 だけど、それだけならここで書く意味はない。横綱昇進を決めた、2012年の名古屋場所、秋場所の連続全勝優勝、この文句なしの横綱昇進は見事だった。今回も秋場所の白鵬との相撲をテレビでやってたけど、名勝負だった。横綱になって活躍できるのかと心配したけれど、全勝優勝を2回続ければ、誰も文句を言えない。(連続全勝優勝はかつての貴乃花の昇進と同じだった。)

 そして今年で言えば、三月の春場所、全勝を続けていた新横綱稀勢の里に、13日目に横綱としての初黒星を付けたあの相撲、驚くほどの速攻が思い出される。その場所は白鵬が途中で休場していたので、ほぼ稀勢の里が連続優勝かというムードだった。しかし、この取り組みで稀勢の里は負傷することになった。翌日は鶴竜に負け、千秋楽に1敗だった大関照ノ富士に勝って、決定戦に持ち込んで優勝したのだった。だが、この無理がたたって翌場所から休場が続くことになる。照ノ富士もその後大関から陥落する。この場所の日馬富士を調べると、10勝5敗ではないか。でも「記憶に残る」相撲を取った。そういう決定機に見せる「熱」は捨てがたいものがあったなあと思って書いた次第。
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精神医療改革から刑務所改革へ

2017年11月29日 22時55分05秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京新聞2017年11月25日(土)に掲載された「考える広場 論説委員が聞く」の「刑務所から見るニッポンー増える高齢者や障害者ー」という記事は最近になく重要な指摘だと思う。佐藤直子記者が浜井浩一氏(龍谷大学教授 刑事政策、犯罪学、統計学)にインタビューしている。

 リンク先を読んでもらいたいと思うが、その最初のところだけ引用しておく。「刑務所の内側を想像したことがありますか。映画や小説に出てくるような残忍な受刑者はむしろ少なく、そこで刑に服しているのは、貧困のために無銭飲食や万引などの軽微な犯罪を繰り返す私たちの「隣人」が大半です。高齢の受刑者が急増し、心身の障害で働けない者も多い。出所しても家も仕事もないような人たちの再犯をどのように防ぐのか。元法務省官僚の法学者、浜井浩一さん(57)と一緒に考えます。」

 浜井さんの本は読んだような気がしたので、調べてみると「2円で刑務所、5億で執行猶予」(光文社新書、2009)。同じような問題意識で書かれた河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」(岩波書店)などとともに、世間に流布する「凶悪犯罪が増えている」などという印象に統計的に反証している。じゃあ、なんで治安が悪化していると思うかというと、数が少ないからこそ全国のどこかで起こった殺人事件を集中的に各テレビが追いかけることが可能だからである。
 (浜井浩一氏) 
 「世界の殺人発生率 国別ランキング・推移」というサイトを見ると、日本の殺人事件発生率がいかに低いかが判る。(2017年5月30日データ更新と書いてあり、直近データは2015年。だから、相模原や座間で起こった異様な事件は反映されていないけど、統計的には大きな変化はないと思う。)全201か国中、日本は197位で、10万人当たりの殺人事件発生率は「0.31」になっている。

 日本より下位にあるのは、香港、シンガポール、マカオ、ナウル、リヒテンシュタイン、アンドラ、ニウエ、サンマリノである。ナウル以下の五か国は発生率「0.00」になっているけど、どこも非常に小さな国だ。日本だって小さな離島の殺人発生率は、大体の島でゼロだろう。なお、ニウエってのが判らなかったので調べてみると、ニュージーランドの北東にある人口1229人(!)の島国で、ニュージーランドと自由連合を組んで、外交・防衛は委任しているという。世界で20か国しか国家承認していないけど、中国やインドに続き、日本も2015年に承認したということだった。

 世界で一番殺人発生率が高いのは、中米のエルサルバドルで「108.63」、次がやはり中米のホンジュラスで「63.75」になっている。主要国ではロシアが「11.31」、アメリカ合衆国が「4.88」、イギリスが「0.92」、イタリアが「0.78」、中国が「0.74」などとなっている。もっとも警察の統計がどのくらい正確か、また「殺人発生率」とは何かという問題もある。傷害致死や正当防衛などをどこまで含めるか、多少の違いはあるだろう。年による違いもあると思うが、おおよその傾向は変わらない。

 日本は21世紀初頭には「0.5」前後だったのが、次第に下がって行って2010年代には大体「0.3」前後になっていて、人口が多い国としては、世界で一番低いグループに入っている。そのような実態にもかかわらず、20世紀の終わりごろから「厳罰化」が進行した。1995年のオウム真理教事件が最大のきっかけだろう。アメリカや欧州諸国に先がけて、日本は大規模テロ事件を経験した。そのこともあって、社会全体に寛容性が失われ、歴史修正主義が勢力を伸ばすようになった。

 そのような「厳罰化」によって、刑務所に障害者や高齢者が多くなっていったと言われる。そういう話を聞くようになって、もうずいぶん経つように思う。なんでそうなるかというと、「累犯」(るいはん=前刑終了後、5年以内に新たな罪を犯したもの、あるいはそういう犯罪が3回以上続くもの)を重く罰する規定があるからである。一般的に考えると、もう二度と刑務所には戻りたくないと思って犯罪を思いとどまることを期待して、累犯重罰規定がある。懲りずにまたやった者ほど重く罰するのである。

 日本では一度刑務所に行った人を正社員に雇う企業は少ないだろう。もともと社会的に恵まれない環境にある者ほど罪を犯しやすい。精神的、あるいは知的な障害があるものにとっては、ただでさえ生きがたい社会である。そんな社会で他者といさかいを起こしたり、万引きを繰り返したり、無銭飲食をしたりする人もいる。刑務所に行っても、それらの原因が解消されるわけではないから、刑期が終わるとまた同じような罪を犯す。次第に刑務所でしか生きられないような人間になってしまう。

 もともと「言われた通りにルールを守っていればよい」刑務所は、発達障害や知的障害を抱える受刑者にとって、一般社会よりもずっと生きやすいのだと思う。だから、出所後にまた軽微な無銭飲食をわざと起こして、刑務所に舞い戻ったりする。三食保証付きだから、支える家族がない人だったら、そっちの方がいいと思う人がいて当然だろう。ある時期までは親が面倒を見てくれるが、親が先に死ぬと無情な社会に放り出される。福祉のセーフティネットがあるだろうと思うかもしれないけど、人とうまくかかわれず、ぼう大な提出書類を書く能力がない人には難しい。

 ところで浜井氏の紹介するイタリアの事例は、受刑者が市民と交流する新しいタイプの刑務所と作り再犯率が激減したという。(平均の半分以下の18%になったという。)ミラノのボッラーテ刑務所では、百人以上の民間ボランティアが受刑者と一緒に社会的企業を作り、は委嘱サービス、コールセンターなどを運営している。そんな例が紹介されている。イタリアでそのような改革ができたのは、1978年成立の「精神保健法」(バザーリア法)が大きい。

 バザーリア法は精神保健に関心が深い人にはかなり有名だけど、精神病院を廃止して地域で病気を回復するシステムを作ったのである。いくつかの映画でも描かれている。そのような「成功体験」が、刑務所改革を可能にさせたというのである。これはとても大切な指摘だと思う。日本でもまず、もっと精神保健改革が必要なのかもしれない。そして、すべての人を地域から排除しないシステム作りを考えていく必要がある。日暮れて途遠しの感が強いが、やがて日本でも必ずそうなるだろう。

 なお、日本でどうして殺人事件発生率が低いのか、いろいろな仮説が考えられる。大災害などが起きると、家族の力が発揮される。日本では家族に包摂されて犯罪が起きにくいと思える。逆に、犯罪が起きるときは家族内が多く、虐待等で家族が機能しない場合に犯罪が多くなるとも言えるだろう。しかし、最大の原因は少子化だと思う。犯罪を起こすのは、汚職事件なんかだと権力者にならないとダメだから高齢者が多い。でも殺人事件などは、失うものが少なく、体力と時間的余裕があり、社会体験が少ない人ほど起こしやすい。つまり10代、20代の男が多くなる。これは当然のことだ。その世代が少ないから、母数が減る。これが最大の理由だと思うのだが、どうなんだろうか。
 (高齢化が高まる刑務所を示すグラフ=東京新聞所載)
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「明暗」-漱石を読む⑨

2017年11月28日 21時24分43秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石全集を読んできて、やっと最後の長編小説である。188回連載されて、ついに未完に終わった「明暗」。未完ながら最長の小説で、600頁を超える。読み終わるのに6日掛かったので、だんだん最初の方を忘れてしまう。中身の方も「大菩薩峠」か、カズオ・イシグロ「充たされざる者」かと思うぐらい、自己増殖的にひたすら長くなっていく。だけど読みにくいわけではなくて、スラスラ読める。

 朝日新聞に1916年(大正5年)5月26日から12月14日にかけて連載された。漱石は1916年12月9日に亡くなっている。49歳10か月。1917年に刊行された、まさに100年前の物語である。漱石はずいぶん昔の作家のように思うけど、同じ1867年生まれの幸田露伴は1947年まで生きて80歳で亡くなった。今より寿命が短い時代とはいえ、第二次大戦後まで生きていたっておかしくなかった。

 この小説を読む限り、仮に完成していても「失敗作」なんじゃないかと思う。人生にとって大事なものは何か。「お金」と「結婚」と言ってしまえば、今もおおよそ同じだろう。今では「結婚しない」という人生も昔より広がっている。でも広い意味での「」は人生を根本的に成立させているものだろう。「お金」は普通は仕事をして得るが、裕福な家に生まれれば不自由しない。でも結婚してしまうと、一時的に実家にいるよりビンボーになったりすることもある。そういう夫婦の話。

 津田延子と結婚して半年ほど。周りは津田は妻を大事にし過ぎている、結婚して変わったと言われている。それで幸せなら、はたがとやかくいうことじゃないと思って読んでいくと、必ずしも夫婦がうまく行っているわけじゃないことも判ってくる。そんなときに津田が病気をして手術が必要になる。以前の病気が残っていたもので、大きな手術ではないとはいえ、仕事やお金の苦労がある。

 津田は京都にいる父から毎月の仕送りを受けていた。賞与で返すという約束だったが、それを果たさなかったので父は金を送れないと言ってきた。手術の費用もあるし、どうしようか。延子も両親が京都に住み、東京のおじ岡本家で育った。両家の父は京都で知人で、たまたま京都へ行ったいた時に延子は津田を知った。というようなことがだんだん判ってくるけど、それでもなんだか判らない。小林という津田の学友が現れ、貧しい育ちの彼は朝鮮へ勤めると決心して彼の外套を貰いに来る。

 このように小説を半分読んだところでは、「お金」をめぐる物語なのかなあと思う。ところが実は違っていて、途中から再び三度、漱石お得意の「三角関係」が前面に出てくる。津田には、延子との結婚前に結婚を考えていた女性があった。(もっとも大正時代だから、自由に会えるわけじゃない。もちろん肉体的な関係などない。)しかし、その清子は突如彼のもとを去り、津田の学友でもある関と結婚してしまった。その不審に悩んでいた時に延子が現れたということらしい。

 この間、彼の病室には、彼の妹の秀子が現れ大げんかになる。また夫婦の仲人でもあり、津田の会社の上司でもある吉川の夫人も現れ、津田を病後の療養との名目で温泉行きを進めお金もだしてくれる。そして同じ温泉にいま清子が逗留していると告げる。吉川夫人は彼のいない間に、延子を彼にふさわしい妻にすると請け合う。どうもおかしな話なんだけど、この一種の陰謀家、吉川夫人は生きている。作者の思惑を超えて、その度はずれたお節介によって物語を動かしていく。

 でも他の人物、特に小林や妹お秀は、いくらなんでもこんな人はいないだろう。日本人は大人同士で大議論することなど少ないのに、「明暗」では他の漱石の小説にもまして、皆が大論戦を繰り広げている。しかも、漱石の小説では珍しく、立場の違う様々な人々の内面が描写されている。今じゃ、神様でもないのに作者はどうして何でも知ってるのかと思われてしまうが。一般には日本の近代小説は「私小説」で作者自身と同一化した主人公が苦労する話が延々と続くことが多い。

 もっと総合的に社会を描き出す小説、まあフランスやロシアで書かれたような大長編小説が作家にとって目標だった。だが、いくつか書かれた本格小説もあまり成功していない。そもそも「社会」がちゃんと成立していないと、つまり「個性」を持った人間が社会にいっぱいいないと、長い小説は面白くならない。そしてそういう小説を楽しんで読む読者層が存在しないと、小説家が生きていけない。、朝日新聞の読者に男性の知識人層が多かった事もあると思うが、なにしろ「明暗」は理屈っぽい。漱石自身も多分そうなんだろう。それがこの小説にとっては致命傷だと思う。

 どうでもいいんだけど、100年前と今では様々な違いがたくさんある。昔の小説を読むと、「携帯電話がなんでないんだ」と言いたくなることがある。ケータイさえあれば解決しそうな悩みで苦しんでいることが多い。もっともインターネットが発達したことでまた違った悩みが現れ、それが物語にもなっている。それと津田が入院しても「健康保険」がないから、金策を心配しないといけない。やっぱり皆保険制度は大切なものだなあと思った。保険があれば、この物語もかなり変わってくる。

 漱石が死んだ後も何回か連載されているから、少し書き溜めてあったんだろう。でも、今後の展開を書き残したノートなどはなかった。どうなるのかは判らない。70年以上経って、水村美苗が「続明暗」を書いた。文庫本を買ってあったけど、「明暗」を読んでないのに続編を読んでも仕方ないからずっと放っておいた。続きが気になるから、続いて読み始めたので、それはこの次に書きたい。津田が向かうのは、湯河原温泉である。湯河原に津田と清子がそろうところから、「続明暗」が開始される。
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佐倉歴史散歩

2017年11月27日 21時21分11秒 | 東京関東散歩
 千葉県佐倉市堀田氏11万石の城下町である。天守閣などは残されてないけど、広大な城跡は「佐倉城址公園」として整備され、千葉県で唯一「日本100名城」に選ばれている。関東で一番武家屋敷も残っていて、一度は歴史散歩に行きたいと思っていた。京成佐倉駅に着いたのはお昼近く、駅前の観光協会でレンタサイクルもあるけど、どうしようかなと思った。史跡は点在しているが、写真を撮りながらブラブラ歩くのも良い。結局は「順天堂記念館」を省いて、歩いて回ることにした。

 まずは駅前からずっと歩いて「旧堀田邸」を目指す。国指定の重要文化財で、庭園は国指定の名勝である。と言っても江戸時代から残されたものではなく、佐倉藩最後の殿様である堀田正倫(ほった・まさとも)が1890年(明治23年)に建てたものである。けっこう駅から遠くて、ちょっとウンザリしたころに「ゆうゆうの里」という福祉施設が見えてくる。「旧堀田邸」こっちと出ているから、施設の中へ入って行くけどいいのかな。と思うと、確かにそこからしか行けないのだった。
   
 写真で判るようにお庭が素晴らしい。今は紅葉も見られたけど、「さくら庭園」と呼ばれて春の桜も見事なんだという。広々とした芝生が広がり、灯篭なども置かれている。下を通るバイパスが眼下に見えるが、こんなに高台にあったのかと思う。庭園の設計は東京巣鴨の植木職、伊藤彦右衛門という人によるものだと書いてある。元は堀田家農事試験場が広がり、3倍もの広さがあった。
   
 堀田邸の方は玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟、湯殿が残され、門番所、土蔵とともに重文に指定されている。元は台所棟もあったというが大部分が解体されている。庭の奥に門番所と土蔵があったみたいだが、見損なった。いろいろ細かな見どころがあるんだろうが、違いはよく判らない。

 堀田邸から武家屋敷までもけっこうある。印旛総合庁舎を通り過ぎ、坂を上ると近づいてくる。急坂が多く、これは自転車じゃ大変だったかもしれない。武家屋敷は10軒ほど残っているというけど、広壮な高級武士の館ではない。どう見ても下級武士の、映画「たそがれ清兵衛」が住んでいたような家ばかり。表から見るとそれなりだけど、裏には畑なんかが広がっている。
     
 武家屋敷は3軒が公開されていて、上の写真は旧河原家住宅(千葉県指定有形文化財)。ここで3軒分の料金を払う。この住宅が一番大きい。ここだけ中へ上れない。いったん道に出て、隣の旧田島家住宅(佐倉市指定有形文化財)へ。(写真の前2枚)ここは復元整備されたもの。どの屋敷も18世紀前半ころのものらしい。そこから旧武居家住宅(国登録有形文化財)へは裏を周って行く。この住宅は百石未満の藩士が住む規定と規模が一致しているという。
   
 佐倉の武家屋敷はこのように小さな屋敷が立ち並ぶところに面白さがある。公開されていないところも含めて、通り一帯に風情がある。後の2軒は上に上がれるということだたが、寒くなってきたし堀田邸を見たからもういいやと思ってしまった。また別に季節に行ってみたい。道の端っこに「ひよどり坂」という急坂がある。これまた昔そのままのような道。そこから市民体育館、佐倉中を経て、もう佐倉城の一部になってくる。歴博の「くらしの植物苑」という施設もあった。ここもいずれ行ってみたい。
  
 空堀が大きく、非常に広い。多くの人が散策している。紅葉も素晴らしい。本丸跡にも何も残っていないけど、歩きがいがある。二の丸跡には堀田正睦とハリスの銅像があった。下の最初の写真だけど、小さいから判りづらいかもしれない。堀田正睦は幕末に開国を進めながら、孝明天皇の勅許が得られず挫折した。後任の大老井伊直弼が日米修好通商条約を締結した。ハリスと堀田正睦というのはちょっと強引な組み合わせにも思うけど…。
   
 佐倉城は1611年から17年の間に、土井利勝によって築城された。江戸周辺の関東地方には譜代大名の重要人物、幕閣に列し老中などを務める人物が配置された。その後、諸氏が入城しているが堀田氏の時代が長い。家光時代の老中、堀田正盛とその子の綱吉時代の老中、堀田正俊、そして幕末の老中、堀田正睦(ほった・まさよし)が知られている。正盛と正睦が佐倉藩だから、ずっと続いていたのかと思ったら、正盛の子正信の時代に改易され、正俊の子孫が1746年に移って来たという。その後は幕末までずっと堀田氏が続いた。江戸時代の城下町の様子がかなり残される貴重な町だ。
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歴博で「1968年」展を見る

2017年11月26日 22時44分24秒 |  〃 (歴史・地理)
 昨日に引き続き千葉県に出かけた。10月はほとんど雨が降っていた。もうかなり寒くなってきたけど、本当に短い散歩日和がやってきた。千葉県佐倉市の歴史民俗学博物館(歴博)で、「1968年」という企画展を行っている。「無数の問いの噴出の時代」と名付けられている。あの「反乱の季節」も来年で50年、国立博物館で「歴史」となるに至ったわけである。良し悪しはあるだろうが、これは一応見ておきたいな。合わせて懸案の佐倉の町並み歴史散歩をしながら、歴博を訪れた。

 散歩はまた別にまとめることにして、まずは「1968年ー無数の問いの噴出の時代ー」について。この企画展示に関しては、かなりマスコミ報道もされている。東京新聞に掲載された「個人の主体性前面に 企画展で振り返る全共闘時代」を挙げておく。この記事を読んだ時に、まず企画の責任者の荒川章二氏(歴博研究部歴史研究系教授)の写真が目を引いた。おっ、荒川さん、歴博にいたんだという感じ。荒川さんは立教の大学院の先輩だから、懐かしい。軍事史の研究が長かったから、旧軍の連隊があった佐倉はふさわしいかもしれないが、1968年の展示とは意外感もある。

 半世紀も経った以上、大部分の人はこの時代を直接は覚えていない。当時の僕は中学生で、時事問題や文学、映画などに関心を持ち始めたころだった。マーチン・ルーサー・キングやロバート・ケネディの暗殺、ヴェトナム戦争のテト攻勢やパリ和平会談、フランス五月革命、「人間の顔をした社会主義」を進めたチェコスロヴァキアにソ連などワルシャワ条約軍が侵攻して無惨に踏みにじったこと。メキシコ五輪ではチェコ事件直後のチャスラフスカが女子体操個人総合で連覇し、また米国黒人選手が拳を突き上げて人種差別に抗議した。今も忘れられない、心に刻まれた出来事ばかりである。

 日本も大きく揺れていた。「大学闘争、三里塚、べ平連・・・1960年代を語る資料を約500点展示 約50年後の今、「1968年」の多様な社会運動の意味を改めて問う」 歴博のホームページにはまずこのように書かれている。続いて少し引用すると、「本展は、1960年代後半に日本で起こった、ベトナム反戦運動や三里塚闘争・水俣病闘争などの市民運動・住民運動、全国的な大学闘争などの多様な社会運動に総合的に光を当てたものです。これらの運動は、戦後の平和と民主主義、そして高度経済成長や公共性を押し立てた開発計画のあり方、広くは戦後日本の政治的・経済的枠組みを「問う」ものでした。この時代に噴出した「問い」はいまなお「現役」としての意味を持ち続けています。」

 この展示は、地下の企画展示室の2室で行われている。まず第1部は『「平和と民主主義」・経済成長への問い』と題している。全体で5章に分かれ、ベトナム反戦、神戸に焦点を当てた地方都市から戦後社会を問う三里塚闘争(成田空港建設反対運動)、水俣病闘争横浜新貨物線反対運動が扱われている。神戸の運動、そして横浜の新貨物線問題は知らないが、べ兵連から三里塚、水俣というのは、今では社会運動史で広く認められているのかなと思う。それまでの党派や大組織(労働組合など)中心の社会運動から、「個」が結びあう新しい「連帯」へという理解である。

 第2部は『大学という「場」からの問いー全共闘運動の展開』である。三派系全学連も扱われているが、多くは全共闘、それも東大と日大の闘争に割かれている。まあ、実際に一番大きな問題で大きなインパクトを与えたから当然だろう。こういう展示を企画するときには、それしかないわけだが、逆に言えば知ってる人には知ってることが多くなる。だから、この展示は昔懐かしで訪れるオールド世代ばかりではなく、まったく知らない世代、ベトナム戦争って何? 全学連と全共闘って違うの? という人にこそ見て欲しいものだと思った。

 それと同時に「無数の問い」が噴出した時代にもかかわらず、「声を挙げられなかった人」がいるというもう一つの現実もよく考えないといけない。大学進学率がまだ低かった時代で、学生の地位は反比例して高かった。女子の大学進学率はさらに低かった。(1968年の4年制大学進学率は、男子22.0%、女子5.2%、計13.8%)女子の4年制大学進学率が2割を超えたのは、なんと1994年である。その時代の「大学闘争」が「女性の視点」を持ちえなかったのは当然だろう。女性解放運動は70年代に入ってから世界的に広まっていく。「フェミニズムがなかったころ」(by加納美紀代)なのだ。

 大学には当然「障がい者」もほとんどいなかった。障がい者の声も70年代以後に噴出していく。日本の近隣諸国、韓国・朝鮮、中国・台湾、東南アジア諸国のことも全然知らなかった。だから、ヴェトナム戦争終了後に、中国系住民がぼう大なボートピープルとして立ち現れた時も、何が起こっているのかすぐには理解できなかった。また、部落解放運動がその頃、解放同盟と共産党が路線問題で争っていた。その影響もあると思うけど、概して「差別問題」に関する感性のアンテナも弱かった。平和運動や労働運動とともに、差別解放運動が戦後の社会に与えた意味は大きいと思う。

 また、負の遺産も大きいと思う。僕は60年代の運動高揚時代は直接には全く知らないわけである。70年代半ば以後には、大学では「内ゲバ」の党派抗争だけが続いていた。新左翼諸党派による各大学の割拠も残されていた。世界各国で60年代の「問い」がいくつも現実化されているのに、日本では「凍結」されてしまった問題が多い。東大闘争のきっかけになった医学部の問題も、なかなか改革が進まなかった。精神医療の改革も遅れている。教育現場はむしろ悪化しているかもしれない。

 またここで取り上げなくていい問題だとは思うが、60年代末は「カルチャー革命」の影響が大きかった。演劇、映画、音楽、美術、マンガ、舞踏などで、ここで名前を挙げる必要もないと思うが、何人もの「文化英雄」がいた。集会などに参加する人もいたし、テレビで見る人もいた。「文化人」が存在価値があったのである。今回の展示でも、ところどころで触れられているが、僕にはそのような文化革命こそ1968年の神髄のように思える。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したように。

 歴博にはもちろん何度も来ている。当初は近現代の展示がなかったから、できるたびに見に来たから、全部まとめてちゃんと見たことがないんじゃないか。佐倉市という場所は、やっぱりそう簡単には行けない。ショップも充実しているから、教材に使えるものを買ったこともある。(「卑弥呼人形」は多分ここ。そんなものがあったのである。)でも、歴博がある佐倉城址をちゃんと見たこともなかった。今回は武家屋敷の方から歩いて城跡を少し歩いた。そのことは別記事で。疲れてしまったから、今回は「1968年展」だけ見てすぐ帰った。帰りに建物のそばで猫が落ち葉の上で寝ていた。上にもう一匹いるけど、色が保護色。落ち葉の上は温かいのかな。
   
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水木洋子邸から、荷風展へ-市川文学散歩

2017年11月25日 22時12分46秒 | 東京関東散歩
 久方ぶりに晴れていて気持ちのいい週末。市川市文学ミュージアムで永井荷風に関する展示をやっていて、荷風が生涯の最後に見た映画「パリの恋人」の上映もある。それに合わせて行きたかった水木洋子邸に行こうかなと思った。水木洋子(1910~2003)は50年代、60年代の素晴らしい日本映画の脚本家だった人である。長命をまっとうした後、邸宅や遺品は千葉県市川市に寄贈され、第2、第4の土曜と続く日曜に公開されている。公開日が少ないからなかなか行けなかった。
   
 水木洋子とは、いくつかの縁がある。僕は80年代に6年ほど市川の真間に住んでいた。水木邸のある京成八幡の隣駅である。また、水木洋子は東京府立第一高女の卒業で、僕はその後身の都立白鴎高校だから半世紀近い後輩ということにもなる。もっともそういうことは割と最近知ったことで、水木さんの生前は全然知らなかった。水木邸には、京成八幡駅が一番近い。駅を出て線路を渡って、北側の葛飾八幡宮を見ながら線路沿いの道を少し行くと、左へ進めという案内が出てくる。僕は今回と逆の行き方を数年前にたどって、道に迷って大変な目にあってしまった。
   
 初めの2枚の写真は、行くまでの道々。市川市は江戸川を隔てて東京の隣で、昔は真間、八幡あたりはけっこうな高級住宅地になっていた。今は代替わりでマンションやアパートが多くなっているが、今も道が細くて行き止まりが多い。ところどころにある案内に沿って徒歩10分ぐらい経つと、水木邸の看板が出てくる。昔よくあった一階建ての建物で、「水木邸」というより「水木宅」という感じ。50年代の暮らしがそのまま残されたような家である。入場無料。
   
 中へ入ると昔のまま保存されている。奥に執筆の場だった書斎がある。(上の一番最初の写真)和服をまとったマネキンがあるが、これが水木さんのものだから小さい。聞いてみると、150センチぐらいだったけど、威厳があったという。家には数多くの映画賞のトロフィーなども残されている。4枚目の写真は右側の一見タンスのようなものが、実は戦後すぐに特注されたレコードプレーヤーとラジオ。扉を開けると現れて、下がスピーカー。そういうものに囲まれ、ここでずっと母と住んでいた。

 面白いのが酒豪番付。ここで載せたのは映画人番付で、文壇番付もあった。横綱が内田吐夢と今井正。大関が三船敏郎と城戸四郎。この番付の東前頭9枚目に水木洋子がある。ちなみに、西の前頭9枚目が田中澄江になっている。女性のトップは小結に嵯峨美智子、久慈あさみがいて、他に女性としては高峰三枝子、越路吹雪、三宅邦子、水戸光子などが載っている。勝新太郎や石原裕次郎が低いのは、まだスターとして若かった時代の番付だからだろう。そうそうたる監督や俳優に交じって、脚本家が載っていることがすごい。そのぐらい知名度もあったということだ。

 水木洋子は文化学院を出たあと、左翼系の演劇活動をして舞台にもたっていた。しかし、24歳の時に父が亡くなり、それを機に舞台劇やラジオドラマの脚本を書くようになった。戦後に映画も手掛けるようになり、巨匠の脚本をたくさん書いた。特に今井正の「また逢う日まで」「ひめゆりの塔」「ここに泉あり」「純愛物語」「キクとイサム」など、成瀬巳喜男の「おかあさん」「兄いもうと」「山の音」「浮雲」など、この二人の監督の50年代の傑作はほとんど担当している。山下清を描く「裸の大将」(堀川弘通監督)も書いているが、山下清がいた八幡学園は水木邸からも近いところにあった(今は移転)。
  
 庭に出ると、外から見ていた時より広い感じ。芝生が広がり、そんな大きな家ではないけれど、気持ちがいい。そこから南の方にひたすら歩き、京成線、京葉道路、JRと越えていくと、日本毛織の工場跡に作られたショッピングモール「ニッケコルトンプラザ」が見えてくる。そのすぐそばに市川市文学ミュージアムがある生涯学習センターに着く。ここで「永井荷風展―荷風の見つめた女性たち―」をやっている。(2018年2月18日まで。)「パリの恋人」は案外空いていて、上映素材はよくないけど、まあヘップバーンを楽しめた。これはパリと付くけど、ハリウッドのミュージカル。
  
 荷風の愛した女たちと言われても、そのほとんどはいわゆる「くろうと」女性である。だから嫌いだという人もいると思うけど、荷風は家制度に収まる人ではなく、二度結婚したけど生涯はほぼ独身だった。自由に恋愛ができる時代ではなく、家制度に縛られたくない場合、男にはそういう場があったわけだ。ロマンティックな資質と、冷徹なまなざしを両方ともに満足させる道は荷風にとってそれしかなかったんだろう。二度目の妻、芸者の八重次は結局荷風の浮気に怒って離婚するが、後に藤陰静樹を名乗って日本舞踊の藤陰流の創始者となり、文化功労者に選ばれた。ところで今回ビックリしたのが、京成八幡駅前にあった「大黒屋」が廃業していたこと。晩年の荷風が毎日通い、同じものを食べた。そのカツどん、お新香、お銚子一本が「荷風セット」として有名だった。7月に廃業した由。
   
 文学ミュージアムから京成八幡駅まで結構あるが、のんびり歩いていくと、京葉道路沿いに「不知森神社」(しらずもりじんじゃ)がある。古来よりこの森が入ってはならない場所とされ、「八幡の藪知らず」という今も時々使われる慣用句(入ったら出られない藪や迷路)の語源となった。でも今はほんのちょっとしかない竹林で、迷いようもないぐらい。それでも近くの歩道橋の上から撮ると、こんもりとした様子がうかがえる。最後の写真は、その近くにある文房具屋「ウエダビジネス」。水木洋子や写真家の星野道夫の文房具を扱っていた店なんだと散歩マップに出ていた。
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映画の映画「人生はシネマティック!」

2017年11月24日 23時31分59秒 |  〃  (新作外国映画)
 イギリス映画「人生はシネマティック!」が案外の拾い物で面白かった。これは第二次大戦中のイギリスを舞台にしたロマンティック映画だけど、「映画を作る映画」という構造になっている。最近日本でも公開された映画「ダンケルク」の撤退作戦を国策映画にせよという命令のもと、空襲相次ぐ非常時のロンドンで、映画関係者が動き出す。そういう中で、クレジットされなかったけれど実は女性が裏で活躍していたという、これも最近よく作られる設定で進んでいく。

 ここで面白いのは、一つは「国策映画の作り方」。カトリンは画家の夫が空襲警備員をしているが稼ぎが少なく、情報省でアルバイトを始める。そんなタイピストのカトリンが、映画に女性の視点を取り入れるため映画作りに参加を命じられる。新聞で双子の女性が船を出して助けに行ったエピソードを読み、現地調査に派遣されるが、実際の彼女たちは内気なうえ、船は途中で故障していた。

 しかし、それを何とか、若くて美人の双子にして、恋物語をまぶし、犬を助けたエピソードを拾い上げて英雄物語を作っていく。本当は横暴な父が酔っぱらって寝てる間に船を出したのだが、父親役の有名俳優は情けない役柄を嫌って書き換えを要求する。船が故障した事実は、上から「イギリスの威信を傷つける」と書き換え命令。さらに極め付けは、その時点で中立のアメリカ世論に訴えるため、アメリカ人のパイロットを特別出演させろと陸軍大臣から直々の命令が…。やむを得ず、何とかジャーナリスト役を作るも、これがど素人の大根で撮影ストップ。カトリンの機転で乗り切るが…。

 というように映画作りにはつきもののトラブルだけど、国策映画ならではの苦労が尽きない。それが現代のプロパガンダにあり方として、見ていて面白い。ドイツ軍支配下のダンケルクでロケ出来るわけもないから、イギリスの海岸で撮るけれど、ドイツ軍をどう見せるか。この場合、ナチスドイツが「悪」だというのは、現代世界の共通理解だから、国策映画作りと言っても安心して見ていられる。

 一方、こういう映画では映画とは別にバックステージものの人間ドラマがあるわけだ。この映画でも、カトリンが大活躍するにつれ、ロケ現場など家を空ける機会が多くなり、それがどうなるか。しかも連日続くドイツ軍の空襲で、誰がいつ亡くなるか判らないという時代だった。そんな時期を背景にした出会いと別れが描かれる。定番的な進行かと思うと、ビックリする展開もある。

 「映画を作る映画」は結構あるが、トリュフォーの「アメリカの夜」、深作欣二の「鎌田行進曲」、山田洋次の「キネマの天地」、沖田修一の「キツツキと雨」などが思い浮かぶ。素人が映画を作る設定の映画もあるが、これらはプロの映画作りを映画にしている。そういう映画は「映画人の心意気」をうたい上げる映画が多い。「人生はシネマティック!」もまあそうなんだけど、時代背景が大きな意味を持っている点では一番かもしれない。ロンドン空襲、いわゆる「バトル・オブ・ブリテン」の様子を描いた意味でも見る価値がある。イギリスがいかに屈しなかったかの記録。

 監督はロネ・シェルフィグ(1959~)という女性監督。誰だと思うと、デンマークで「幸せになるためのイタリア語講座」というシャレた映画を作った人である。その後イギリスにわたって「17歳の肖像」など何本か撮っているが見てないので判らなかった。主人公カトリンはジェマ・アータートン。他の人も含めて達者の配役だけど、よく知らない。原作があるようだ。いわゆる「ウェルメイド」な出来だけど、戦争と女性、戦争と映画というテーマが面白い映画にもなるという企画のうまさが光る。
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ホドロフスキーの新作映画「エンドレス・ポエトリー」

2017年11月23日 21時24分29秒 |  〃  (新作外国映画)
 アレハンドロ・ホドロフスキー(ALEJANDRO JODOROWSKY 1929.2.17~)の驚くべき新作「エンドレス・ポエトリー」が公開された。監督87歳時の作品で、26年ぶりの前作「リアリティのダンス」(2014)には心底ビックリ、感激して「ホドロフスキーの『リアリティのダンス』」の記事を書いた。今回はさらにその続編というから、大いに期待して見たが、期待は全く裏切られない。

 ホドロフスキーという人は、70年代に作った「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」など「精神世界」を描くような映画で爆発的人気を得た。今やそれらの映画は代表的な「カルト映画」になっている。それらはメキシコで撮られていたから、メキシコの監督かと思っていたら、前作「リアリティのダンス」でチリ北部のトコピージャという港町の生まれだと知った。今回は一家で首都のサンチャゴに出てきたところから始まる。父母は前作と同じ配役で、母はオペラ歌手に憧れセリフをいつも歌で語る。
 (ホドロフスキー監督)
 そういうところは前作と同じで、リアリズム映画ではないことを最初から明確にしている。全編にわたって、幻想的な誇張見世物的な祝祭性詩と性と自由への憧れなどがうたい上げられている。40年代から50年代前半、ホドロフスキーがチリを去ってパリに赴くまでの青春時代、その詩的なドンチャン騒ぎ、疾風怒濤の輝きが描かれるが、時々本人が出てきて、実はこうだったとか、こうであるべきだと語っている。もう好き勝手というか、自由奔放な作りである。

 青春時代を描くから、親との葛藤、性のめざめ、友情、女性たちとの出会いと別れなどが、やっぱり重要なファクターとなる。医者になれと強制する父に反抗して、詩人を目指すアレハンドロ。詩人ニカノール・パラの詩に出てくる「毒蛇女」を求めて、詩人の集まる「カフェ・イリス」に出かけ、真っ赤な髪の女性詩人ステラに出会う。このステラを母親役と同じパメラ・フローレスが演じているが、見ている間は気づかなかった。暗示的な配役であるとともに、その巨体に圧倒される。フェリーニ的な世界。
 
 このステラも実在の人物だそうだが、その後同世代の詩人エンリケ・リンと出会って友人となる。詩人は何物にも左右されず、真っすぐ生きると宣言し、二人で街をひたすら直進する。途中で家があるが、家主の理解を得て中を進ませてもらう。車があっても上を乗り越えていく。こういうのは若い時にありがちの発想で、他の映画でも見たような気がするけど、青春という感じ。「国民詩人」と言われていたパブロ・ネルーダの銅像を塗りつぶしてしまうシーンも印象に残る。

 その後実家が焼けてしまい、バカ騒ぎの時間も終わって、アレハンドロはパリへ旅立つことを決める。旅立ちの埠頭に父が現れ、旅立ちを止めるようと争いとなる。そして和解をして、彼の人生は新しい段階に入っていくところで終わる。この後、パリでブルトンやマルソーに会って、それからメキシコへ行くという続編が企画されているという。その後も作れば自伝的5部作になるらしいが、とりあえずはパリ編は是非是非見てみたいものだ。新藤兼人やマノエル・ド・オリヴェイラを思えば、まだ若い。

 今回は撮影がクリストファー・ドイルが担当している。ウォン・カーウァイの「恋する惑星」や「ブエノスアイレス」を担当し、その後世界的に活躍している。非常に素晴らしい映像だと思う。アレハンドロの青年時代はアダン・ホドロフスキー(1979~)、父役はフロンティス・ホドロフスキー(1962~)で、どちらも監督の実の子どもたち。親子を演じているけど、15歳差だったのか。衣装デザインは監督夫人の「パスカル・モンタンドン=ホドロフスキーで、1972年生まれだから43歳差だからムガベ夫妻よりすごいではないか。こういう一家勢ぞろいの映画作りも前作と同様。「リアリティのダンス」の方が復活の驚きと映像美で感動は大きかったと思うけど、今回は今回で前衛的な青春映画の素晴らしさがある。
 (主演のアダン・ホドロフスキー)
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