尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

村上春樹訳「卵を産めない郭公」&アラン・J・パクラ監督のこと

2017年05月22日 21時28分43秒 | 〃 (外国文学)
 ジョン・ニコルズ卵を産めない郭公」(村上春樹訳)が刊行されたので、さっそく読んでみた。村上春樹・柴田元幸両氏が英米文学の旧作を新訳、または再刊する新潮文庫「村上柴田翻訳堂」の企画である。その話は前に書いたけど、まさか村上春樹の新作「騎士団長殺し」が先に出るとは思わなかった。昨年末にはチャンドラーの「プレイバック」も出てるし、すごい仕事ぶりだ。

 つい「騎士団長殺し」より先に読んじゃったんだけど、僕は後で書くように映画化作品「くちづけ」を若いころに見ていて、なんだか懐かしくなったのである。でも、作者のジョン・ニコルズ(1940~)って誰だ? まったく知らない。解説セッション(村上・柴田の対談のこと)を読むと、ロバート・レッドフォードが監督した「ミラグロ/奇跡の地」という映画の原作、「ミラグロ豆畑戦争」というのが、代表作だという。ノンフィクションも多く、今はニューメキシコ州に住んで環境活動家のような存在らしい。

 映画はもうあまりよく覚えてないけど、大学生のカップルのピュアで傷つきやすい関係を切なく描いた佳作だったと思う。この本を読んでみると、やはりそういう話なんだけど、ヒロインのプーキーが魅力的というか、ぶっ飛んでいる。そのハチャメチャな生き様が、心に突き刺さるような青春小説である。1965年に出た小説で、60年代前半の大学が舞台になっている。この時代性が絶妙だという話が対談を読むと実によく判る。50年代の抑圧でも、60年代後半の反体制でもない時期。

 大学自体がすごくいい(学力的にも、学費的にも)という話が解説にある。ニューイングランドのアイビーなんだけど、かなり小さな大学らしい。それとアメリカの大学は「全寮制」で、全然日本の感覚と違う。主人公は大学へ入る前の夏休み(もちろん、9月が新学期である)、長距離バスの休憩時に高校生のプーキーに話しかけられる。もう突然、雷に打たれたように知り合うのである。そして手紙の連発。翌年気づいてみれば、近くの女子大にプーキーが入っていた。

 その後、怒涛の「恋愛関係」が始まってしまう。それはアメリカの学生寮の独特の風習と相まって、嵐のような乱痴気騒ぎの日々というしかない。それで学業は大丈夫なのかと思うと、やっぱり危なくなって休みも取らずにレポート漬けになる。それじゃプーキーと会えなくなるというわけで、すったもんだの末、プーキーが寮に押しかけてくる。もう誰もいない寮で、二人だけの日々が始まる。突然、プーキーがカラスに気を取られて、カラスを撃ち殺そうとなって、ライフルを持ち出す。一体アメリカはどうなってるんだと思うけど、学生寮を二人で占拠できて、そこには銃も置いてある。(銃弾は自分で買う。)

 そんな日々が続いていくうちに、次第に二人の心が離れていき…。青春のどんちゃん騒ぎの日々は永遠に続かない。二人はニューヨークに行ったりするけど、あの素晴らしい日々は戻ってこない。誰にでも(多かれ少なかれ)あるような、若いころのメチャクチャな日々。そんな時代をともに駆け抜けた一風変わった女の子。そのイメージが忘れられない残像を残す。こういう、傷つけあう青春の物語は世界中で書かれたと思うけど、アメリカはまた独特だ。

 ところで、ここでは政治やドラッグが出てこない。その話は最後の対談でなるほどと思った。でも、その代わりに嫌というほどアルコールは出てくる。時代からして、もちろん手紙や電話でやり取りしている。その時のドキドキ感を知らない世代には、この物語はどう感じられるだろうか。もう少し時代が下ると、ベトナム戦争が大きい。「いちご白書」みたいな学生生活になる。もっとも60年代前半にも「公民権運動」はあったわけで、この物語の主人公の位置が「優秀な白人学生」だったのか。

 というか、この小説の眼目は、主人公を置いてしゃべりまくる「プーキー」という女性にあるのだろう。久しぶりにあった彼女が思わず抱き着いてきたため、主人公が倒れて頭を打ち病院で何針か縫う羽目におちいる。それぐらい、スペシャルな存在感を発揮している。彼女は美人じゃなくて、体も貧弱。主人公もスポーツ苦手タイプの勉強タイプで、そういうアメリカ学生の「低位置層」カップルだったということが、実はこの小説の最大に魅力なんじゃないだろうか。

 初めっから危なげに見えたプーキーは、やっぱり大学を途中で辞めるという。そして家に帰った彼女から「最後の手紙」がやがて送られてくる。二人の関係も大丈夫かなと思うけど、それだけなら二人が別れるだけで大学は続けるだろう。問題は実社会に不適応なぐらい、独特な感性を持ち続けたプーキーという女性の「こころ」に方にある。そういう不安定な心を描いたという意味で、この小説は今の日本でもよく通じると思う。細部の状況は違っても、「危ない人を愛してしまう」時の心の揺れは、むしろ今の問題かもしれない。この小説は今こそ読まれるべきだと思う。

 ところで、この小説は1969年にアラン・J・パクラ監督によって映画化された。日本では1970年に「くちづけ」という題名で公開されている。主人公二人は、もう当然のようにセックスしてる時代だけど、それでも「キス」に大きな意味があった。なかなかいい題名だったかもしれない。ヒロインのプーキーは、ライザ・ミネリ(1946~)。言うまでもなくヴィンセント・ミネリ監督とジュディ・ガーランドの娘で、それ以前にブロードウェイで活躍していた。映画に本格的に主演した最初の作品だったと思う。そして、1972年の「キャバレー」でアカデミー賞主演女優賞を得たわけである。

 監督のアラン・J・パクラ(1928~1998)は、もう亡くなってかなり立つので覚えている人も少ないだろう。サスペンス映画や社会派的映画に手腕を発揮した監督だった。もっともアメリカのことだから、独自の「映画作家」というより、演出の専門家というべきだろう。デビュー作が「くちづけ」だったけど、それ以前にもプロデューサーとして「アラバマ物語」を作った。アカデミー監督賞には「大統領の陰謀」一作しかノミネートされてないが、「コールガール」でジェーン・フォンダ、「ソフィーの選択」でメリル・ストリープにアカデミー主演女優賞をもたらしている。

 どこか奇特な会社が現れて、この機会に「くちづけ」をリバイバル上映してくれないだろうか。DVDもないようだし、村上春樹訳ということなら見に行く人もいるんじゃないか。そして、できることなら、ジャーナリズムのあり方、大統領弾劾の前例という意味で「大統領の陰謀」、今も数多く作られているホロコーストをテーマにした映画「ソフィーの選択」(1983年キネ旬ベストワン)と合わせて、パクラ特集をやって欲しいと思うんだけど、まあ無理でしょうね。この監督は、その他に「推定無罪」や「ペリカン文書」など話題のミステリー映画化なども残している。大監督というんじゃないけど、しっかりした演出力で安定していた人だろう。
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渡瀬恒彦の映画、石井輝雄の映画

2017年05月21日 21時12分59秒 |  〃  (日本旧作)
 土日は列島各地で猛暑となったが、僕は二日間とも古い日本映画を見に行った。ところで、2015年は「戦後70年」だったわけだけど、70年を二分すると35年になる。その分かれ目は、なんと1980年である。1970年代までは「戦後前半」であり、1980年代以後は「戦後後半」になる。となると、占領期から高度成長まで、前半期に重大な変化が起こり、80年代後はずっと「バブル」とその崩壊しかなかったような気になる。今回見た映画は、「戦後前半」の終わりごろということになるけど、この自由さは何だろう。

 20日から、池袋の新文芸座は「渡瀬恒彦追悼特集」、渋谷のシネマヴェーラ渋谷は「石井輝雄監督特集」である。けっこう見たい映画の日程が被っているいるが、だからと言って朝から夜まで4本見る元気はすでにない。まあ時々見に行きたいなという感じ。まず、20日は新文芸座で「暴走パニック 大激突」(1976)と「狂った野獣」(1976)を見る。その前に中島貞夫監督、俳優片桐竜次のトークショー。当日来ていた「狂った野獣」に出ていた橘麻紀が飛び入り参加。「狂った野獣」製作時を初め、当時の東映映画人のエピソードが面白い。中島監督はちょっと前に松方弘樹追悼特集で来たばかり。

 今回の2作は、渡瀬恒彦が自分で運転するものすごいカーチェイス映画として有名で、公開当時にも見て、すごく面白かった。最近も時々上映されているけど、見直す機会がなかった。やっぱりすごいなと思うカーチェイスで、どうしてここまでやれたのかと思う。「暴走パニック 大激突」ではドアがぶっ飛んでも運転してるし、「狂った野獣」では大型バスを横転させる。スターの渡瀬が自分で運転している。エアバッグどころか、シートベルトもない時代に、よくそんなことをしたもんだ。
 
 細かい筋を書いても仕方ないけど、「大激突」の方は銀行強盗を重ねる二人組がいて、最後にするつもりの神戸でドジを踏む。相棒は逃げる途中でトラックにひかれ、渡瀬一人が逃げていく。そこへ腐れ縁的愛人の杉本美樹が道連れになり、死んだ相棒の兄室田日出男やなぜかドジな警官役の川谷拓三が渡瀬を追い続ける。それだけでも面白すぎるけど、そこに一般のドライバーの野次馬、暴走族、ラジオ中継車まで出てきて、派手に壊しまくる。ここまで破壊的かつ反警察的な撮影が許されたか。

 「野獣」は銀行強盗に失敗した川谷拓三、片桐竜次が、路線バスを乗っ取る。そこに渡瀬恒彦はじめ、何人もの乗客がいる。運転手は心筋梗塞の持病があり、いつ倒れるかもしれない。渡瀬は一度うまく降りようとするが、荷物のギターケースを持ち出せない。そこに何が入っているのか。渡瀬はケースを取り戻すべく、バスを走って追い、自転車で追い、愛人のバイクで追い、ついには窓から乗り込んでしまう。と思ったら、運転手が死んでしまい、渡瀬が代わりを務めるが…。彼はテストドライバーだったが、目が悪くなってクビになったばかりだった…。バスの大暴走とは世界的にも珍しい。

 「カーチェイス映画」というのは、ピーター・イエーツ監督「ブリット」(1968)から大ブームが起こった。ちょうどその映画も新文芸座で最近見直したばかり。スティーヴ・マックイーンの運転は今も迫力があったが、さすがにちょっと今では物足りない気もした。だけど、サンフランシスコを舞台にしているので、坂道を上り下りするスリルがある。それ以後世界的に大ブームになり、70年代には何本も見た気がする。今もあるけど、最近はGPSもあるし、技術的に進んでしまったので、単純なカーチェイスが少ない。あまりパトカーをぶっ壊すのも、いろいろ問題なんだろう。大体は特撮か、そうでなくてもスタントマンがやる中で、主演スターが自分で全部運転したこの2作の魅力は、日本映画史上に特筆されるべきだ。

 一方、石井輝雄監督特集は、2005年に亡くなった監督の13回忌とうたっている。今回はあまり「代表作」的な作品が少ない。初期の新東宝では「黄線地帯」や「黄色い風土」、東映では高倉健の「網走番外地」第1作や、第3作の「望郷篇」、あるいは千葉真一の「直撃地獄拳」、さらに晩年につげ義春漫画を自主製作した「ゲンセンカン主人」や「ねじ式」…。これらはすべて上映されない。

 それでも見てない映画が山のようにあるわけである。特に僕は69年ごろに大量製作された「徳川異常性愛シリーズ」をほとんど見てない。70年代にも「悪名高い」映画で、さすがにやり過ぎと思われていたと記憶する。当時の名画座でもほとんどやってないと思う。それらの「異常性愛」映画が、それなりに評価されるようになるには時間が必要だったのだろう。

 一本目の「残酷異常虐待物語 元禄女系図」は、1969年に7本も公開された石井作品の最初。オムニバスで元禄の異常な残虐を描くけど…。最初の方はそうでもないんだけど、最後に出てくる小池朝雄の異常なお殿様が凄すぎる。実際に金粉を側室に塗りたくるシーンは異常さぶりが際立つ。次に見た「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」は1969年の7本目の映画。どっちも、暗黒舞踏の土方巽が出てくる。特に後者では、重要な役どころを演じている意味でも貴重だ。

 「恐怖奇形人間」は、日本映画史上に名高いカルト作品で、さすがにこれは前に見ている。乱歩の「パノラマ等奇譚」や「孤島の鬼」などを中心に、「人間椅子」「屋根裏の散歩者」などをアレンジして作られている。全編、異常な描写の連続と言ってよく、悪夢的なストーリイぶりはものすごい。だけど、前にも思ったけど、説明的な描写が多い。あまりにも雑多にたくさんのアイディアを詰め込んだ筋がちょっと弱い気がする。それにしても乱歩はすごいと改めて思う。

 映画とは関係ないが、この映画では「裏日本」という言葉がしょっちゅう出てくる。今ではほとんど死語だろうが、そういう言葉がムード醸成に一役買うわけだ。なお、どっちも吉田輝雄が主演している。新東宝で菅原文太らとハンサムタワーズで売り出し、その後松竹に移った。「秋刀魚の味」で岩下志麻に思われ、「古都」では岩下志麻と結婚する。木下恵介監督の「今年の恋」では岡田茉莉子の相手役という二枚目だったんだけど、次の東映では石井監督の異常性愛シリーズの常連になった。僕は吉田輝雄の再評価もして欲しいなと思う。
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草枕、二百十日、野分-漱石を読む③

2017年05月19日 22時53分32秒 | 本 (日本文学)
 漱石連続読書の第3回。夏目漱石全集の第3巻。「草枕」「二百十日」「野分」の3作品が入っている。1906年から1907年にかけて書かれた作品で、「坊っちゃん」(1906)と「虞美人草」(1907)の間の作品。「草枕」が一番有名で、前にも読んだことがある。他の2作は漱石全体の中でも、そんな小説あったっけという感じだろう。でも、「草枕」はけっこう難物で、若いころに読んだ時には全然判らなかった。
 
 冒頭が有名だけど、「智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」というのが、今ではもうちょっと考え込まないと意味が取りにくい。その後も、人生論や芸術論が多くて、なんか取っつきにくい。それに漱石の(明治人の)漢文素養に付いていけない。だから「草枕」の文章リズムが素晴らしいと言われて、判ることは判るけど、こっちはいちいち注を見ないといけないのでリズムになかなか乗れない。

 とまあ、そういう問題もあるし、一般的な小説における「個人」が描かれないから、ちょっと詰まらない。でも、漱石はこれを「俳画」のような作品、一種のイメージの連鎖のようなものとして書いたのだから、小説としての結構を批判しても仕方ない。ヒロイン格の那美の人物が描かれてないなどという批判も無意味だろう。確かに読後に、いくつものシーンでの那美の映像がくっきりと思い浮かぶ。

 と同時に、読み直してみたら、これは(「猫」などと同じく)日露戦争の「銃後小説」だったことに驚いた。戦争で婚家が破たんして実家に戻った「出戻り」、再度召集され「満州」へ向かうその甥、同じく「満州」へと流れていくかつての夫。その3人を風景の中に点描する画家の主人公。美しい風景の奥に、厳しい歴史の風が流れている。今読むと、むしろそっちが心に残る。

 この小説の舞台が熊本県玉名市の小天(おあま)温泉だというのはよく知られている。2011年に熊本を訪れた時に、そこへも行った。旅館としては「那古井館」があって立ち寄りできる。それよりも「草枕温泉てんすい」という大きな立ち寄り湯もあった。(草枕山荘という宿泊施設もあるようだ。)どっちもなかなか気持ちがいいお湯だった。一度ちゃんと泊まってみたいものだ。

 那美のモデルは、民権運動家前田案山子(かがし)の娘(つな、1867~1938)だとされている。その妹、槌は宮崎滔天の妻である。そこらへんの関わり具合が面白いけど、省略。前田家の別邸が残っていて、草枕の浴場というのもある。それは確かに小説の中の有名なお風呂の場面にそっくりだった。「草枕交流館」というのも近くにある。「草枕」もずいぶん観光資源になっている。
 
 孤高のピアニスト、グレン・グールドが「草枕」が好きだったというけど、世界にもファンが多いらしい。もちろん英訳で読んだわけだろう。僕は一度「草枕」の英訳の再翻訳を読んでみたい気がする。もちろん漢詩なんかは、普通の現代詩として訳すのである。もっと「草枕」が現代人に受けるんじゃないか。

 「二百十日」は、読みやすいけど明らかに失敗作。ほとんどすべてが登場人物二人の会話だけという変な小説で、それも中身は阿蘇登山の失敗期である。この二人の話が全然面白くないのである。二人が地図もなく、案内人もないまま、火山灰がふる阿蘇山を登っていくという無謀ぶりに驚いた。いくら何でも20世紀になってるんだから、もう少し噴火にも、登山そのものにも慎重さが必要だろう。案の定、迷ってしまって大変なことになる。いや、いろんな小説があるもんだ。

 「野分」(のわき、のわけ)は「台風」のことだから、「二百十日」(立春から数えて210日目のことで、台風の多い日とされる)とほとんど同じ意味である。でも、中身に台風は出てこない。「二百十日」よりは面白いけど、まだ小説家途上の作品という感じ。中学教師として地方へ行きながら3回にわたって土地の有力者と衝突して東京へ戻ってきた白井道也という男がいる。世に入れられず、教師をあきらめ筆一本で立とうとしている。つまり漱石の自己戯画化のような設定である。

 中学時代に白井を追い詰めた生徒の一人、高柳は今は自分も大学卒業後に窮迫し、かつては悪いことをしたと思う。高校からの友人、中野は親が裕福で暮らしに困らない。自分も作家として少しは知られる存在で、今は雑誌の記者をする白井が中野の談話を取りに来る。そんな因縁の3人、そして白井の妻と中野の新婚の妻を配置し、一応小説としての登場人物がそろう。でも、どうもドラマとしての発展が弱く、ラストのオチも見え見え。だけど、白井夫人が夫を責めるところなど心に刺さる。

 3作、あるいは今までの作品すべてに言えるけど、漱石という人は「論を立てる人」だなと思う。言いたいことがいっぱいある。社会に対する不平不満もため込んでいる。それを一応、実生活では俳句を作ったり、ユーモア小説を書いて「余裕派」を演じている。そのぐらいの配慮はできるんだけど、相当に不敵な論客だと思う。よくぞ小説家としてあれほど大成したものだ。評論家や学者の方が向いてたんじゃないかと思う。実際にそういう方面の業績も素晴らしいし。
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9条はペンディング、「駐留なき安保」から-「9条改憲」論⑤

2017年05月18日 21時14分33秒 | 政治
 「憲法9条改憲論」の話も長くなったので、最後に「自分はこう考える」というものを書いておきたい。もっとも、自分の理想と考える提案というわけではない。実現不可能なことをあれこれ書くよりも、当面このあたりでどうですかというものである。そういう生半可なことは良くない、仮に負けたとしても徹底して議論して結論を出すべきだなどと、僕も若いころには思わないではなかった。でも、歳とってくると、生きている間に実現不可能なことを一生懸命考える意欲が薄れてくる。

 江田憲司民進党代表代行が次のように発言しているけれど、僕も大体賛成である。
 憲法も「不磨の大典」ではない以上、時代の要請に応じて変えていけば良いと私は思います。しかし、その国政における優先順位は低いと言わざるをえません。今の日本の最大の政策課題とは何でしょうか?それは「世界一の少子高齢社会」への対応です。「2025年問題」と言われるように、団塊の世代(1947~49年生まれ/約800万人)が75歳(後期高齢者)を迎えるのが2025年なのです。これへの対応は喫緊の課題であり、時間は待ってはくれないのです。憲法改正には莫大な政治的エネルギーが必要です。そのことを考えると、そのエネルギーは、まず、この「社会保障制度改革」に優先的に投入していくべきでしょう

 まったくその通りだと思う。2020年に東京五輪が開催されることなど、日本国内の憲法論議と何の関係もない。安倍首相自らの任期が、2018年に自民党総裁に3選されたとしても、2021年に切れることになる。そのことを見込んで、要するに自分が総理大臣である間に、何でもいいから憲法改正したい。できれば憲法9条に手を付けたい。そういう思いしか伝わってこないのである。

 憲法9条に関して、条文と現実の間に「ねじれ」がある。というか「ねじれ」が意図的に作られてきた。そのことは間違いない。だが、「憲法9条」が「押しつけ」だというなら、自衛隊の前身の前身である「警察予備隊」の方がもっと明白「押しつけ」ではないか。憲法草案は国会で審議され承認されたのに対し、警察予備隊は1950年にマッカーサーの指令を受けて、政令で創設された。

 だから、保守派が占領終了後に「自主憲法制定」を唱えた時に、同時に自衛隊(前身の保安隊」をいったん解散して議論に臨むべきだった。その時点で、自衛隊の存在を自明の前提として、憲法の方を合わせろと言い続けたから、議論がずっとこじれているのである。もっとも、そうなるにはそうなるだけの事情もあったわけである。それは「警察予備隊」創設のきっかけとなった朝鮮戦争の認識が与野党で正反対だったからである。

 その意味では、憲法9条の「ねじれ」とは、単に国内問題で生じたのではなく、冷戦下の東西対立の国内版だたという方が正しいだろう。そして、その「冷戦」は世界的には1991年末のソ連崩壊で完全に終わったとされた。だけど、東アジアでは冷戦が終わっていない。南北朝鮮の対立、中国と台湾の関係など、第二次大戦直後に起きた対立関係が続いている。この「東アジア冷戦」は永遠に続くのだろうか。もし永遠に続くと決まっているのなら、それに応じた体制を作るのも必要だろう。

 だけど、まさか永遠に北朝鮮の現行体制が続くというものではないだろう。中国の政治、経済のあり方も、今後どのように変わっていくか、今の段階で簡単に予測できるものではない。僕は冷戦下で生じた「ねじれ」を今すぐ完全に解消しようとするなら、かえってさらに大きな「ねじれ」を呼ぶのではないのかということである。だから、9条のあり方を検討するのは、先送りすればいいじゃないかと思う。

 「9条ペンディング論」である。いつまでかというと、例えば当面のところ、2045年まで、つまり「戦後100年」までこのままとする。その頃には、日本の人口は1億人を切っている。戦争体験者はもういないし、「団塊の世代」も数少なくなる。その段階で日本の今後をどう考えるか。その頃の世代、21世紀に成長をした新しい世代(どれだけ期待を懸けられるかよく判らないけど)、とりあえずその世代に任せようではないかと思うのである。戦後20年ぐらいの間に生まれた世代は、それまでの間、日本が平和を実際に守り続けられるかに全力を注ぐ。そして、憲法9条の条文は、その間そのままとする。

 一方、「日米安保」も東アジアの冷戦が完全に終わらない間は、変えることがなかなか難しいと思われる。日米安保廃棄論が左翼(あるいは右翼)から提起されても、現在国会で多数を占めることは考えられない。(日米安保条約は、日本側が廃棄を通告すれば1年後になくなるわけだが。)朝鮮戦争に対して、当時の左翼勢力は「南側からの侵攻」だと主張していた。(70年代頃までは、そう書いてある歴史書もけっこうあった。)ソ連崩壊後に様々な資料が明らかとなり、現在朝鮮戦争は北側から侵攻したことは明白となっている。(中国の毛沢東とソ連のスターリンは、金日成の決断を了承していた。)
 
 そういう経緯を見ると、日米安保が戦後史の中で定着したこと、東アジア冷戦体制下で日本が米国側に組み込まれていったことを、すぐに変えられると考えるのは難しい。だけど、今や在日米軍は全世界に展開されるものとなっている。そのためにこそ、沖縄県に対する過重な負担が続けられている。もちろん、本土においても基地負担が大きなものがある。それに第一、「首都の空港(横田基地)に外国軍が常駐している」ということそのものがおかしい。(日本人は意識さえしなくなっている。)

 そうなると、かつて一部で唱えられた「駐留なき安保」を、とりあえず真剣に検討するべきではないかと思う。この間の「北朝鮮危機」に当たっては、米空母が日本近海に向かう、それは何日だという報道が続いた。つまりは、米軍の態勢が整わないうちは何も始まらないのである。かつての朝鮮戦争、あるいは91年の湾岸戦争、03年のイラク戦争名も、すべて同じである。日本は島国だから、外国陸軍に国境から直接侵攻されることはない。中国や北朝鮮と仮に何かあっても、米軍がすぐに展開されるわけではないはずだ。基地負担を少なくすることは緊急に必要なことだから、出来得る限り「駐留」を少なくすることで、大きな国論の分裂を避けながら進めていくしかないのではないだろうか。
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日米安保をどうするのか-「9条改憲」論④

2017年05月17日 21時23分33秒 | 政治
 憲法9条は「押しつけ」で、自衛隊が書いてないのは怪しからんとよく保守系の人は言うわけだけど、一回目の不要論で書いた通り、他の行政機関もみな書いてない。もし「9条は最小限度の戦力保持を認めている」と解釈した場合、その解釈に基づき「自衛隊」を設置することに憲法的の問題はないように思う。だけど、日本の防衛問題に関しては、もっと重大な「書き落とし」があるではないか。つまり「日米安全保障条約」である。こっちは憲法に書かなくていいのだろうか?

 個別的自衛権に関して、政府は憲法制定時には字義通りに「個別的自衛権も認めない」と解釈していた。では当時は、「日本の防衛」はどう考えられていたのだろうか。それは「国際連合」の枠組みに完全に依拠するということだったと思う。日本に対する侵略行為があった場合、国連安保理で「国連軍」を組織して対処するということである。でも、冷戦開始により、この構想は戦後史に置いてあまり意味を持たなくなってしまった。現在のシリア内戦を見れば判るように、安保理常任理事国中に対立がある場合、安保理は有効に機能しないことが多くなる。

 ところで、日本が「戦力を有しない」と憲法上規定されていることが、アメリカに日本防衛を依頼する根拠ではないか。憲法に自衛隊を明記すれば、日本の防衛は一義的には日本が自ら行うことになるわけで、当然のこととして「日米安保」はいらなくなるはずである。そのことの是非は別にして、安倍首相はその問題に波及することを意識して提案しているのだろうか?

 さて、自衛隊さえ想定されていなかったんだから、憲法制定当時に「日米安保」など全く誰も想定していなかっただろう。外国と条約を結ぶことは当然ある。憲法では、内閣が締結、国会が承認、天皇が認証と規定されている。日米安保条約も、制定当時、あるいは60年の改定当時、大きな反対があったけれど、最終的には以上のような経過をたどって結ばれた。内閣と国会にその権限はある。

 だけど、日本国はどのような条約でも結べるのだろうか。憲法98条には、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と条約遵守義務を定めているが、どんな条約にも適用されるのだろうか。極端なことを言えば、日本に租借地をもうける、つまり、国土の一部を外国に貸し出すといったことをも条約で決められるのだろうか。もちろん、それが国会で承認されなければ効力がないわけで、国民の代表に決定をゆだねればいいとも言える。

 そのような「どんな内閣や国会でも、こんな条約は結べない」という規定は憲法に必要ないのだろうか。僕がこのように言うのは、もちろん「日米安保」の現状に関する問題意識がある。戦後72年を迎えて、日米安保は「当然の前提」になってしまい、政治の世界では問い直す動きはない。その間に米軍はほとんど日本の主権を超越したような「超権力」になってしまった。

 米兵や米軍属による犯罪行為があっても、基地に逃げ込めば日本の捜査を逃げられる。米軍機などに事故が起こっても、日本の警察や消防が捜査できない。騒音被害や飛行差し止めを訴えても、米軍に対する司法判断の権限がないとされる。(米軍基地の騒音に対して、日本政府の賠償責任は容認されている。飛行差し止めは自衛隊や民間機でも認められていない。ただ、米軍機の場合、飛行差し止めができない法的検討以前に、そもそも米軍に司法判断が及ばないとされる。)

 そのようなことが今も時々報じられる。これでは主権侵害ではないだろうか。いつも「国を愛する心」などを強調する人は、このような状況を憂うることはないのだろうか。いま、書いていることは日米安保の是非論ではない。そういう選択肢もあるだろうとは思う。だけど、アメリカであれ、他のどの国であれ、このように日本国の主権を侵害されているような条約はおかしいのではないか。そのことを憲法に書いておく必要はないのか。「自衛隊」は憲法に書くというんだから、「戦後の国体」とまで言われる「日米安保」の方こそ、憲法で許されること、許されないことを明確化しておく必要を感じる。

 安倍首相が「自衛隊明記」を言い出した。当然、では日米安保は廃棄ですか? と誰かが質問するべきだろう。違うと言われたら、日米安保は憲法に書くべきじゃないのですかと続いて質問するべきだ。いま、「北朝鮮危機」や「中国の強大化」の中で、日米安保に波及させるべきではないというかもしれない。それならば、「自衛隊明記」もするべきではない。そこから発しているのだから。
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有害で危険-「9条改憲」論③

2017年05月16日 22時53分26秒 | 映画 (日本新作)
 安倍首相の言うところの「9条改憲」は、「不要」にして「無意味」だと書いてきた。でも、「不要、無意味」ならそれほど危険でもないんだろうという人がいるかもしれない。「メンドイ」から反対運動などしたくないというイマドキの日本国民の気分なら、やりたいんならやらせとけばになりかねいない。3回目は、今回の安倍首相の主張は、危険で有害、一種のトリックを含んだものだという議論をする。

 2回目に、「違憲論は変わらない」と書いた。理論上の問題としてはその通りだと思う。だけど、安倍首相の頭の中では、あくまでも「現時点での任務をこなす自衛隊」を書き込むということだろう。2014年の閣議決定で、自衛隊に関する内閣の憲法解釈は大きな変更を見た。それを前提にして、2015年に集団的自衛権を部分的に解禁した安保法制を成立させ、すでにその新法制に則った業務が始まっている。先には「米艦防護」も現実に実施された。

 一昨年の法案審議時には「ていねいな説明を行っていく」と言っていたのに今回の命令に関しては何の説明もない。もっとも、米艦が襲撃される可能性が皆無の状況で、単に日本の太平洋側を航行する米艦に海上自衛隊の護衛艦が「並走」しただけとも言える。それでも「米韓防護」を行ったという「実績」を作ったことにするのだろう。こういう「自衛隊」をそのまま憲法に書き込む。「自衛隊」ではなく、すでに「他衛隊」でもあるという現実を隠ぺいするトリックというしかないではないか。

 先の集団的自衛権をめぐる議論を見ていると、現政権では「憲法に書いてあること」(の合理的な解釈)ではなく、「政権が強引に解釈すること」が優先するということが明白だ。そういう安倍首相が「憲法に明記しよう」などと言うとき、それが何を意味するかはよく考えないといけない。「憲法に明記された自衛隊」は、現時点で許容される範囲を超えた活動ができると言い出しても決しておかしくないだろう。

 建前上は「専守防衛」であるはずの自衛隊は、すでに相当に高度の装備を備えている。憲法に書いて「合憲性」を誇ることとなれば、「自衛のためならば、何でも可能である」という議論が出てくるだろう。すでに「自衛のためには、先制攻撃が認められる」という人までいる。それは「自衛」じゃないだろう。また「自衛のためには、核兵器も保持できる」という人までいる。「大量破壊兵器」の核兵器を(9条1項、2項があるならば)持てるはずがないではないか。

 そうなると、「憲法が禁じているのは侵略戦争」であり、「それ以外のすべて武力行使は自衛のために許される」という解釈が出てくる。ところで、安倍首相は日本の「侵略戦争」を認めていない。後世の歴史家にゆだねるとか言うけれど、要するに「侵略」と言いたくないのである。ということは、「自衛隊」の名のもとに、今や何でもできる武力組織が内閣の解釈変更次第で誕生する。もちろん、そのような危険性は、憲法に明記しなくても起こり得る。だが、憲法9条は「戦力の制約」に一定の限度となってきた。「憲法明記」に成功した首相は「より一層の戦力拡大」に向けて高揚するだろう。

 そもそも「憲法9条」は単なる国内規定ではない。極東委員会での議論を見ても、日本が国際社会に受け入れられるための、「戦争責任認識」という性格を持っていたのは明らかだ。日本が米軍と一体化する中で、9条に自衛隊を明記する。「現状を追認しただけ」というのは、国内向けには通用するかもしれないが、周辺諸国は納得できるだろうか。

 「違憲かもしれないが、何かあれば、命を張って守ってくれ」などと言う表現を見れば、いよいよ「自衛隊が戦争に参加する日が近いのだ」と受け取る人がいても不思議ではない。遠からぬ将来に「自衛隊の戦死者」が想定されるということが、憲法改正提案の裏にあると言っては「邪推」だろうか。安倍首相の人柄を信用できるなどという人もいまだ多い日本では、そんなことは言い過ぎだと言われるかもしれない。だけど、「安倍首相の人柄」を思えばこそ、この提案が危険で有害なものに思える。

 それを傍証するのは、今回の提案のやり方である。国会で国民の代表に向け説明する、あるいは自民党総裁として自民党大会で表明する、あるいは「一国会議員」という立場で「文藝春秋」「中央公論」等の(数週間程度は買いたい人が求められる)雑誌に寄稿するなどの方法をいずれも取らなかった。「改憲派の集会」に向けたビデオメッセージ、及び政権支持がはっきりしていて、改憲要綱も発表している読売新聞の取材に応じる。これでは「天下に信念を問う」というフェアな感じがない。

 「仲間うち」に向けて言ってるわけである。もともと「仲間」なんだから、ホントはもっと踏み込みたいという「ホンネ」は共有しているだろう。2年前の「解釈改憲」も支持した人たちである。当然のこととして、「とりあえず書いちゃえば、後はまた解釈変更でなんとでもなる」と仲間同士の阿吽の呼吸で判りあう関係である。これが今回の改憲提案のホンネにあるものだと僕は思う。だから今回の「改憲提案」は本質的に危険性をはらむと思うけど、同時にまだ考えなくてはいけない問題も多い。その最大のものが「日米安保条約」である。そのことを次回に。
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それでも残る違憲論-「9条改正」論②

2017年05月15日 21時21分13秒 | 政治
 「9条改憲論」の2回目は、言ってみれば「無意味論」である。以下に書くように、今回の改憲を実施しても、「違憲論」は残るのである。エッ、憲法に自衛隊を明記するんだったら、自衛隊は合憲になるんじゃないですか? そう思う人も多いと思う。安倍首相本人もそう思うから、こういう提案をしているのではないかと思う。だから、自衛隊違憲論者は「戦後民主主義の理想は風前の灯火なのか」と嘆き、自衛隊合憲論者は「これで不毛の神学論に終止符を打てる」と喜ぶ。

 しかし、それは思い込みによる誤解というものである。確かに、「自衛隊」という名前の組織を日本国が持つことは憲法に規定される。それはそういう風に書くんだから当然である。でも、1項と2項を残すんだから、当然のことながら「自衛隊」なる組織には憲法的制約が存在し続けるのである。安倍首相の思い込みにつられて、幻惑されている人は一度頭を整理してみた方がいい。

 その議論をする前に、一応憲法9条の条文を示しておきたい。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 さて、問題はこの条文の解釈である。今仮に、「個別的自衛権は認められる。しかし、集団的自衛権は認められない」という考え方を取るものとする。これはちょっと前までの政府見解である。安保法制論議の中で憲法学者の中にも多かった。もちろん、個別的自衛権も認められないという立場もあるだろうが、2年前にあれほど反対運動が高まったのは、「どう解釈の幅を広げても、集団的自衛権を認めることは憲法9条が現状のままである限り認められない」という人もいたからだろう。

 さて、そのような人にとって、今回の憲法改正が実現したら何かが変わるのだろうか。何も変わらないのは明らかだろう。憲法9条に自衛隊が書き込まれても、1項と2項が残っているならば、当然のこととして、その自衛隊は集団的自衛権は行使できない。憲法に書き込まれる「自衛隊」とは、個別的自衛権しか行使できないものとしか解釈できないはずである。2年前に反対を主張した学者の見解は、今後も「安保法制は違憲」ということで微動だにもしないだろうと思う。

 いや、それは個別的自衛権を認めている人の場合であって、そもそも自衛隊の存在を認めていない立場の人はどうなんだろうと考えてみる。この場合、憲法に自衛隊が明記されてしまえば、もうオシマイではないかと思う人が多いだろう。しかし、決してそうではない。1項、2項はそのままなんだから、3項に自衛隊を明記しても、その自衛隊は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」はできない。そのための「陸海空軍その他の戦力」は持てない。要するに、「戦争ができるような戦力が持てない自衛隊」が憲法に明記されるだけ(という解釈になるはず)なのである。

 じゃあ、何なんだということになると、それは「海上保安庁」のようなものだろうか。要するに、9条によって個別的自衛権も認められていないという立場の人にとっては、3項に自衛隊が明記されても、それは「海上保安庁」が憲法に書かれたことと同様なものなのである。反対に、今の憲法で「集団的自衛権が部分的に認められる」という立場の人はどうか。それはそのまま、憲法に書かれた自衛隊が現行の安保法制を実施できるということになる。

 要するに、憲法9条の1項、2項を残して3項を作っても、今と全く同じであって「無意味」なのである。そりゃあ、そうだろう。憲法9条は、1項と2項、特に2項に重要性がある。「戦力は保持しない」と明記されている。だから、憲法9条解釈史は、「どこまでの戦力なら保持が許されるのか」をめぐって行われてきた。その2項が残っているんだったら、当然のこととして、3項に新設される「自衛隊」にも戦力の制限が残っていくわけである。その制限をめぐる解釈の食い違いは、3項がない今と同じなのである。

 では安倍首相は何を考えているのだろうか。恐らく、今なら「そこそこ穏当そうな改憲案」なら、実現可能性がある。少なくとも、この問題で発言しても内閣支持率は下がらないと見込んでいるだと思う。だから、自衛隊を明記する改憲が成功すれば、それは「自分が進めてきた安保政策への信認」と受け取るだろう。2015年の安保法制は、学者のみならず国民の中に多くの違憲論が存在した。当時は内閣支持率が下がり不支持率が上回った。しかし、やがて支持率は持ち直し、2016年の参議院選挙で与党は「勝利」した。かくして9条改憲を言い出しても大丈夫な環境になったわけである。

 本来、違憲論は裁判所で決着をつける。それが日本国憲法の構造である。しかし、2015年の安保法制に関して、何人もの人が違憲確認訴訟のようなことをしたけれど、今まで門前払いのような判決が続いている。それもある意味当然で、単なる「憲法上の確認訴訟」は日本の司法は受け付けないのである。具体的な事件が起こり、その裁判の場になって初めて違憲の主張が取り上げられる。だから、集団的自衛権を部分的に認めた安保法制が合憲なのか違憲なのか、なかなか判断が示されない。

 そのことを考えると、日本でも憲法判断を専門に行う「憲法裁判所」を新設することが必要なんじゃないか。それこそがまずやるべき「憲法改正」なんじゃないかと思う。世界には、国民が法律だけでなく、政府の対応の不作為などを直接憲法裁判所に訴えられる国も存在する。そういう場があれば、自衛隊そのものの違憲かどうかの議論、あるいは安保法制の違憲論なども、裁判で早期に決着できる。(もっとも裁判官を内閣が選ぶなら、内閣に有利な判決しか出ないだろうけど。)
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「9条改憲」論①-不要論

2017年05月14日 21時27分50秒 | 政治
 安倍首相が表明した「9条改憲」に関する問題を考えてみたい。9条の問題はいろいろな考えがあり、整理するのも大変だ。当面実現すると思えない提案を検討するのも面倒だから、今まで書いたことはない。今回は安倍首相の表明した提案にしぼって考えたいと思う。

 その安倍案というのは、「自衛隊が違憲という議論の余地をなくす」ために、「1項、2項を残しつつ自衛隊を明文で書き込む」というものである。これをどう考えるべきか。次回以後に書くように、およそマトモとは思えない「トンデモ提案」としか僕には思えない。だけど、これは「一種の曲球」で、現実的にはかなり成立可能性があると思っている人もいるようだ。

 僕は自衛隊を憲法に明文で書く必要など全くないと思う。それは自衛隊違憲論、合憲論に関係ない。あるいは「集団的自衛権」の一部を容認した安保法制への賛否とも関係ない。自衛隊を必要だと考えたとしても、憲法に書かなくてもいい。どうしてか。それは「日本国憲法の独特のあり方」によっている。そのことは案外意識されていないと思うので、まず最初に書いておきたい。

 日本国憲法は、統治機構のあり方に関してほとんど明文で書いていない。多くは「法律でこれを定める」と書いている。ときどき、「憲法を改正して道州制を導入せよ」などという人がいるけど、そもそも憲法に「都道府県制度」などどこにも書いてない。やりたきゃ法律でやればいいだけなのである。

 じゃあ、憲法では何が書かれているのか。ちょっと驚くかもしれないけど、国会(衆議院、参議院)、内閣(内閣総理大臣、国務大臣)、最高裁判所会計検査院。これだけである。国家機関としての「象徴天皇」を入れても、それだけである。会計検査院が明記されているのは普段あまり意識していないかもしれない。入った理由に関しては、古関彰一氏の著書に出てくるが省略する。

 そういう構造だから、例えば裁判所に関しては、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」となっている。下級裁判所の具体像は書かないのである。だから、行政権に関しても同様なのである。こっちもはもっとすごくて、何の言及もない。「内閣のもとに、法律で定める省庁をおく」などという条項もない。外務省も財務省も…何も書いてないのである。

 統治機構に関する改革は今まで何度か行われている。一番大規模なのは、2000年に実施された省庁再編だろう。例えば大蔵省を財務省と金融庁に再編し、建設省、運輸省、国土庁を統合して国土交通省…など大規模に再編した。それも改憲を要せず、法律で済んだわけである。公害問題の深刻化で、1970年に環境庁が発足し、2000年に環境省となった。消費者庁観光庁スポーツ庁など、最近も新たな行政庁が作られている。新しい課題が生じれば、法律で対応できる国家構造になっている。

 どうしてそれでいいのだろうか。それは憲法で「国民主権」を明記し、国会が「国権の最高機関」とされているからだろう。正当に選挙された国民の代表が、国会で討論し議決したことは、一応時代に対応した国家の統治機関を作ったとみなし得る。もし、国会が違憲の法律を成立させたら、裁判所が違憲立法審査権を持っているので、最終的な判断を行う。そういう根本ルールを定めているので、「あとは法律で」となっているのだろう。

 ところで、自衛隊とは何だろうか。様々な言い方があるだろうが、旧軍と違って内閣総理大臣の指揮のもとにある行政機関であるのは間違いない。旧帝国陸海軍は内閣に所属せず、天皇が親率する天皇大権に属する特別な国家機関だった。だから、そのことを帝国憲法に書いておかないといけない。しかし、現在は内閣の下にある行政機関なんだから、他の行政機関がどこも書かれてないのにどうして自衛隊だけ特に書かないといけないのかということになる。

 「『違憲かもしれないけど、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのはあまりにも無責任」と安倍首相は言うけど、危険な業務に従事するのは何も自衛隊だけではない。警察だって、消防だって危険もあるだろうが、憲法には何の規定もないではないか。それに、1項、2項を変えないんだったら、今後も「違憲かもしれない業務」は残ってしまうではないか。(その問題は次回に詳説。)

 このように、日本国憲法は統治機構のあり方について、くわしい規定を行っていない。それは何故かというと、憲法は「国のかたち」を定めるという以上に、「人権宣言」だったからだろうと思う。権利規定を中心にして書いている。先ほど、警察も書かれてないといったけど、確かに警察機構のありようは書いてない。だが、「司法官憲」という言葉で禁止規定はいっぱい書いてある。「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」などの条項も、直接には警察官に対する禁止規定である。

 だから、もし自衛隊に関して憲法に書き込むんだとしたら…。日本国憲法の他の条文と整合的な発想で考えてみると、次のようになるはずだと思う。「前項の目的を達するための組織は、法律でこれを定める」。そして、その項目には、かつて旧軍時代に行われた憲兵による政治や言論への介入などを厳しく禁止する規定が盛り込まれるべきだろう。また自衛隊も軍事的実力組織である以上、戦争犯罪に関与する可能性は存在する。そのようなことを禁じる規定こそが憲法には不可欠である。

 ということで、今回は憲法改正「不要論」である。自衛隊を仮に必要なものだとしても、他の行政機関がそうであるように、法律でそのあり方を定めればいい。自衛隊だけ憲法に書くというのは、軍事偏重だろう。法律で作ったものだから、必要ないと考える勢力が国会の多数を占めれば、法律を改正して廃止すればいい。一方、環境の変化に伴い「組織の拡充」や「新しい任務」が必要だという勢力が国会の多数を占めれば、2015年のようになるわけである。

 1項、2項を全面的に削除、改定して、旧軍のような軍隊を作るんだというなら、確かに全面的な9条改憲が必要である。そうではなくて、1項、2項を残しておくというんだったら、「自衛隊」などという組織名明示もいらない。それが日本国憲法の構造だからである。
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「高等教育無償」の改憲は不要

2017年05月13日 23時14分20秒 | 政治
 安倍首相が「2020年施行」を目指して、憲法改正を行うべきだと表明した。改憲項目としては「9条改憲」と「高等教育無償化」を挙げている。この問題をどう考えるべきか、数回にわたって考えてみたい。

 しかし、その後の国会審議などを見ていても、今度の安倍首相の改憲案はそもそも一体なんなのだろうかという疑問がつきない。元の発言は改憲集会へのビデオ・メッセージだった。その時の内容を国会で問われると、「自民党総裁としての発言」だという。自民党には野党時代にまとめた、大層ご立派な「日本国憲法改正草案」が存在しているではないか。あれはどうなったの? 勝手に無視していいの? そういう人をトップに頂いていて、自民党員は何も言わないのだろうか。

 内容を国会で問われると、「読売新聞を熟読せよ」とのたまう。この対応は、安倍晋三という人をよく示している。そういう不真面目な改憲提案を考えるのも、どうなんだろうと思う。でも、この首相を支持する国民がまだかなり多いという現実がある。放っておくこともできない。では、読売新聞を購読してない人はどうすればいいのか。国会議員は国民の代表である。国民の代表に対して、「読売新聞を読め」というんだったら、当該記事部分を全国民に配布して欲しい。(安倍氏の個人負担で。)

 それはさておき、「憲法9条」はともかく、「高等教育無償化」はどうなんだろうという人も多いかと思う。まずはそっちから考えてみたい。この問題は「日本維新の会」がよく言ってるから、まずは「維新対策」として取り上げたんだろうと思う。僕も、高等教育無償化を実質的、漸進的に進めていくことには大賛成である。だけど、改憲項目に取り上げる必要はない

 その理由はいくつかあるが、まず第一に、憲法改正を行わなくても無償化は実施できるということがある。憲法を改正してしまうと、無償化に関わる財源をどうするかという問題がある。財源問題が決着しないと、「高等教育とは何か」をめぐって、当初から違憲訴訟が起こりかねない。一方、改憲をきっかけに「増税」を行うとしたら、それもおかしな話ではないか。

 ちょっと関係の憲法項目を見ておきたい。それは憲法26条である。
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
○2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする

 この条文の「子女」が当初「児童」だったことは、ちょっと前の「日本国憲法の誕生 増補改訂版」の話で書いた。とにかく、ここで「義務教育無償」が書かれている。一方、日本政府も批准している「国際人権規約」では以下のように書かれている。(外務省訳)

(a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。
(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。

 この項目をかつての自民党政権は「保留」にして人権規約を批准した。その保留を撤回したのが民主党政権である。そして、政権に復帰した安倍内閣は「高校無償化政策」に変更を加えた。このように、「中等教育無償化」が完全に実現できてない日本で、一気に全面的な高等教育無償化を目指すというのは、ちょっとおかしい気がする。もっと言えば、自分で高校無償化に「所得制限」を行った安倍首相が言い出すのは、矛盾も甚だしいというしかない。

 もともと民主党政権の高校無償化でも、「留年すると授業料がかかる」「授業料の安い定時制、通信制ではかえって負担増になりかねない」などの問題があった。(そのことは当時のブログで指摘した。「留年してはいけないのか?」「定通はかえって『損』なのか」を参照。)

 このような日本の現状を考えると、高等教育無償化が実現したとしても、「高等教育とは何を指すか」でギクシャクすることも予想できる。学校教育法第1条にある「大学及び高等専門学校」は問題ないが、それ以外はどうなるのだろうか。短大は大学だろうが、各種の「専門学校」はどうなんだだろうか。あるいは「大学院」は紛れもない高等教育機関だけど、ここも一気に無償化できるのか。

 短期大学を卒業すると「短期大学士」、高等専門学校(高専)を卒業すると「準学士」の称号を得る。一方、専門学校(専修学校の専門課程)を卒業すると「専門士」という称号になる。実社会では、専門士の称号を持っていると、短期大学士と同等の扱いを得られることが多いようだけど、「高等教育の範囲」を考えた時に大学以外が後回しにされる可能性があるのではないか。

 「高等教育無償化」と言っても、少子化で入学定員充足が難しい私立大学を助ける制度にしかならない可能性も高いのではないだろうか。現在の日本では、保育士介護福祉士が求められている。それらの資格は、大学ではなく専門学校で取得するケースがほとんどだろう。そのような専門学校の学生への支援にならない制度ではおかしい。

 むしろ、今度新たに作られる「給付型奨学金」制度を大幅に拡充するというようなことから出発するのが、現実的なんではないだろうか。教育の無償化といっても、学校の授業料をタダにするだけでは済まない。無償の小中でも、給食費、制服代、修学旅行代、運動着や運動靴、部活動関係の諸費用など各種の負担がけっこう重い。地方自治体では、所得に応じて修学旅行費や給食費の補助を行っている。そのような制度を高校生や大学生を持つ家庭にも、拡充していくことも大事だろう。

 そのようなことを総合的に考えると、「高等教育無償化」を憲法で権利として規定するよりも、政策的優先度を考えながら漸進的に進めていくということでいいように思う。特に「公立中学、高校で制服がいるのか」などを新しい目で考え直す必要もあるだろう。それと、僕が最近必要だと思っているのは、「給食費の無償化」である。現在給食を実施していない学校を含めて、義務教育では給食費をなくしてしまっていいのではないか。

 今まで「昼食費は自己負担」が当然視されてきた。だけど、満足な食事を家で取れてない家庭もかなりある。学校で食事を提供することを、若い世代への支援として考えていいように思う。それは同時に、(給食費徴収に悩む)学校教職員への支援であり、働く女性への支援でもある。給食調理員の雇用も増える。そして、「地産地消」で地域の農業支援にもなる。特に米作農家や牛乳農家への支援という意味で、波及効果が大きい。僕は給食費無償化を真剣に検討するべきだと思う。
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やっぱりすごい陽明門-日光旅行②

2017年05月12日 21時29分51秒 | 旅行(日光)
 3日目はノンビリと出て、すぐにバスに乗る。そのまま市内まで降りて、東照宮だけという計画である。何度も行ってる日光、家からそんなに遠くない日光で、もう頑張ってあれこれ見て回る気はない。だから、輪王寺や二荒山神社は見ない。もう「平成の大修理」を終えた陽明門周辺を見ればいい。

 日光東照宮を見るのは、多分4回目か5回目。小さいころに家族で行ってるかもしれないけど、思い出にあるのは小学校の移動教室である。東京の東部の小学校では日光に行くことが多い。その後、結婚してから一度行き、だいぶ行ってないなと思って数年前にも行ってみた。そうしたら、なんだか色も落ちて見栄えが今ひとつ。こんなだったかなとちょっとガッカリした。

 もともと陽明門みたいな「豪華絢爛」を誇るようなものは好きじゃない。高校の修学旅行で京都の銀閣詩仙堂を見て、こういうのが好きだなと思った。「派手」よりも「渋好み」が好きだというのは、本や映画も通じて同様である。だけど…とだんだん思ってきた。「狸親父」イメージで、若い時はどうも好きじゃなかった徳川家康だけど、その後250年以上も本格的な対外戦争も内乱もない平和を築いたのは間違いない。同時代の世界では奇跡に近い。ある意味、「世界史的偉人」なんじゃないか。

 そうして大修理が終わった陽明門は、壮麗極まりない。大迫力である。やっぱりすごい。こんなに美しくなるのか。確かに「豪華絢爛」系ではある。でも、これは日本において、その方向で頂点を極めたといってもいいのではないか。有名なものも多いし、有料入場料1300円は決して高くないだろう。
   
 一番の目玉はやはり陽明門だろうけど、ちょっと順番に書いていくと、荘厳な杉並木が東照宮の周りに立ち並び、ムードが高まってくる。今は外国人観光客がいっぱいで、大体写真を撮っている。今は小中高の子どもたちも多く、とにかく人がいっぱい。人が写らない写真をじっくり撮りたかったら、朝一番に行くべきだろう。五重塔もあるけど、大体これは逆光でうまく撮れない。どんどん進んで行く。有料区間に入っても、なかなか陽明門は遠い。そうだったっけ。
 
 それよりまずは、「三猿」がある。入ってすぐの神厩舎の上である。猿をモチーフにした8枚のレリーフがある。全部撮ったけど、まあ有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」を。どうせだから、動物をまとめておくと、奥宮へ向かう祈祷殿入口に「眠り猫」。あれ、こんなに小さかったっけ。猿も猫も、素晴らしく色が再生されている。昔のガイドブックがある人は見比べてみると、こんなに違うかと思うだろう。眠り猫の裏は「」である。もう一つ、三猿の近くに「」もある。想像で書かれた象である。他にもいろいろな動物像があり、それぞれ宗教上の意味があるようだけど、どうもそこまで熱心に見たことはない。
    
 本殿も国宝だけど、中は写真を撮れない。また「鳴龍」も写真が撮れない。そこで「奥宮」へ。ここも前に見てるんだろうか。延々と石段を登っていく。そりゃあ、山寺や金刀比羅宮ほどじゃないけど、やっぱりかなりきつい。どんどん登ると、一番上に家康の墓所がある。頑張っていく価値はあるとは思うけど、真夏はきついだろう。上の方に休憩所があり、なぜだか自販機は全部「おーいお茶」ばかり。ここまでどう運ぶのかと思ったら、帰るときにお茶缶の箱をたくさん背負った人とすれ違った。
   
 他にも、周辺で芭蕉の句碑や石鳥居(重要文化財)が旧宝物館の近くにあった。また三つ葉葵の徳川家の紋が逆になったオランダ渡来の灯篭など、いろいろ撮ってるけどここではもう省略。一つだけ、東照宮のホームページにも出てない情報を。それは「障害者割引」である。多くの文化施設では、障害者福祉手帳(身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳)を提示することで、付き添い者を含めて割引を受けられることが多い。ホームページに紹介がないんだけど、東照宮の場合、手帳掲示で「700円に割引」と書いてあった。だけど、なぜだか、「鳴龍」が見られない。確かに「鳴龍」はバリアフリー構造ではないし、静かに聞かないといけない。もちろん、1300円の正規のチケットを買えば見られるんだろうけど、手帳で割引にならないのはどうしてだろう。付き添い割引がないのも解せない。
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植物園と大使館別荘-日光旅行①

2017年05月11日 21時32分35秒 | 旅行(日光)
 ゴールデンウィークが終わったので、旅行にでかける。毎年行ってる日光だけど、しばらくぶり。最近は東照宮の陽明門が40年ぶりの修理が終わり、テレビ番組でもよく紹介されている。東武鉄道では「リバティ」という新型特急が運行を開始し、それで行こうかなという計画である。今日帰ってきて全部書くのは大変なので、陽明門の話は次回に回して、まずは1日目と2日目のことを。

 まあ、リバティという特急は、まあこんなものかなという感じ。車内販売もないし、「スペーシア」より下なんだろう。湯西川温泉や会津高原に行くときは便利だと思うけど。自分の家からは、いつも都心方面に向かうときと逆に、下り電車に乗って春日部で乗り換える。家から2時間ちょっとで日光。フリーパスでバスに乗れば、いろは坂を自分で運転するよりも楽だなあと思える。

 時間があるからどこか寄っていこうかと思って、最近よく行ってる日光植物園に行った。正式には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」で、小石川植物園の分園である。けっこう広いし、珍しい植物がいっぱいあって、何か咲いている。去年だったか、春に行ったときに桜と水芭蕉が同時に咲いててビックリした。今は桜やアカヤシオは終わり、どっちかというと地味な花が多い。
 
 上の最初の写真は「マムシグサ」で、名前の由来は見れば一目瞭然だろう。蛇の頭のようなのが花である。サトイモ科。次が「クマガイソウ」、ラン科アツモリソウ属で、アツモリは平敦盛、クマガイは熊谷直実である。花を昔の武将がまとった「ほろ」に見立てたという命名だというけど、今じゃきついかも。絶滅危惧種だということで、ここでも群生地が囲われていた。という風に書くと、僕が植物に詳しいかと思われるかもしれないけど、この花は何だと指摘するのは同行の妻である。

 ところで、植物園近辺に何やら集団的人物が集合している。見れば「警察」の腕章が。何かあるのかと思って、よく思い出してみれば、そう言えば来週天皇夫妻が日光に行くという話があった。調べると日光植物園にも寄ると出ている。植物を見るというより、ここにある建物で戦時中に授業を受けていたらしい。植物園中にいっぱいいて、今から警備しているというより、なんか予行練習みたいなことらしい。
    
 そんな日光植物園で今咲いてたツツジは、これがアカヤシオかなあと思うと、受付で聞くと違うという。「クロフネツツジ」という花なんだという。上の最初の写真だけど、うっすらとピンクの大きな花が咲きそろいキレイである。今調べてビックリしたんだけど、これは「カラツツジ」とも言い、朝鮮半島から江戸初期に伝来したという。半島では南北問わず愛好されているらしく、キム・ジョンウンの母という高英姫を指す花とされてる由。へえ、ですね。池へ行くと、まだミズバショウの花が残っていた。でも、池の大部分では、もう大きく育ったミズバショウとなっていた。

 ということで、日光は新緑かなと思ってきたんだけど、行ってみるととんでもない。いろは坂あたりまでが新緑で、中禅寺湖は桜の咲くぐらい。それより標高が高い戦場ヶ原や湯元温泉はまだ全く緑がない。道端には残雪が残っているではないか。これは奥日光としても遅く、3月末に雪が降った影響で2週間ぐらい季節が遅れているという。いやあ、あまりに寒いのを軽視して、風呂に入った後で冷えて具合が悪くなってしまった。(宿はいつも行ってる休暇村日光湯元。)

 今回は連泊の予定だけど、あんまり頑張る気はなくて2日目は宿が主催する「大使館別荘めぐり」に申し込んであった。英国大使館別荘記念公園が昨年夏に完成したが、まだ行ってなかった。バス便が季節運行で、車がないと行きにくい。天気予報は雨で、曇天の霧混じりで山や湖もよく見えないが、何とか雨は降らなかった。今まであったイタリア大使館別荘記念公園は駐車場から1キロ近くあって、ちょっと歩いて遠いかなという感じがあった。でもちょうど中間に英国大使館別荘があって、断然行きやすくなった。その代りに有料になったけど。
   
 中を見ると、ほぼ新築っぽい雰囲気で、ここにもともと別荘を作ったアーネスト・サトウなどの展示パネルが並んでる。作った時は建築史に有名なジョサイア・コンドルが助言したという。サトウやグラバーなど幕末明治の英国人は、中禅寺湖を「発見」し、ここを夏の高級避暑地とした。ルアー・フィッシングを広めたのも、というか日光にマスを導入したのも英国人である。そんな日光の昔を思い起こさせるムードに包まれた記念館である。スコーンを食べられるラウンジがある。
  
 外にあった説明版を見ると、コンドルが三段に石積みを考えたという。ちょっと離れたところから撮ったのが3枚目の写真。そこから少し行くと、イタリア大使館別荘記念公園である。そこはまあ、何度も行ったから簡単に。夏に行くと、このあたりは実に天国的な空間で、美しいったらない。ただし、ブヨがいる。なかなか世の中は難しい。ただキレイで涼しいだけの場所はない。
  
 さっさと帰って、のんびり湯元ビジターセンターなどをめぐる。部屋から見ていても鳥が多く、露天風呂でもウグイスがよく聞こえる。見えるのはもっと小さな鳥なんだけど、よく判らない。頭が赤いのはヤマガラのようで、もっと小さいのはコガラ、シジュウカラなんかかな。ビジターセンターで図鑑を見てるとそんな感じ。いつも双眼鏡を持ってくるんだったと後で思う。
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9条と国民主権-古関彰一「日本国憲法の誕生 増補改訂版」を読む②

2017年05月08日 23時07分54秒 | 〃 (さまざまな本)
 「日本国憲法の誕生」の歴史において、やはり「憲法9条」、そして「国民主権」をめぐる問題が、最大の焦点だったのは間違いない。だから、そのテーマをめぐって書くけど、憲法をめぐる議論をいま本格的に書きたいのではない。今回は「書評」ということで。(憲法改正論議に関しては別に書く。)

 さて、大日本帝国憲法はそもそも改正する必要があったのか? 今じゃ当たり前すぎて誰も考えないけど、当時はそれもまた大きな論点だった。そして美濃部達吉斎藤隆夫幣原喜重郎のような、軍閥や右翼にひどい目にあわされてきた人々も、当初は改正不要論だったのである。美濃部達吉は「天皇機関説」が問題とされ、貴族院議員を辞職し、右翼に襲われた。斉藤隆夫は「反軍演説」で衆議院を除名された。幣原はたびたび外務大臣を務めたが、軍部・右翼からは「軟弱外交」と非難された。

 まあ判らなくもない。これらの人々は「大日本帝国憲法体制」に恨みがあったのではなく、軍部や右翼に恨みがあったということだろう。敗戦に伴い、軍閥や右翼は権威を失墜した。もともと彼らは大日本帝国で重要な地位を占めてきた。彼らを追放した一派がいなくなれば、これからは自分たちの時代である。自分が帝国を指導していれば、無謀な対外戦争は起こさなかった。だから、それでいいわけで、改正の必要はない、ということだと思う。特に美濃部博士は、一生研究してきた帝国憲法がそもそも間違いだとは言えないのかもしれない。復帰した貴族院でも改正に反対した。

 こうして、戦前には「体制内リベラル」のように見られてきた人々が、実は「天皇制の呪縛」から逃れられないでいた。後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「押しつけ」のような状況になるのは、まず第一に日本側に当事者能力がなかったからだということがこの本を追っていくとよく判る。マッカーサーはよく知られているように、昭和天皇を戦犯裁判に起訴するつもりはなかった。それに対して、マッカーサーの独断を押さえるために「極東委員会」(FEC)が作られる。1946年2月末に正式に発足すれば、天皇制に厳しい見方をしていたソ連やオーストラリアの意見が大きくなる可能性がある。

 GHQが急いで憲法改正案をまとめ上げたのは、「日本が平和国家に変わった」、だから「天皇がいても問題ない」という構図を作ることが目的だったのは間違いない。だから日本国憲法を「押しつけ」だというなら、それは「憲法9条の押しつけ」だったのではなく、「象徴天皇制の押しつけ」だったわけである。改正案審議時の首相・吉田茂やその前の首相・幣原喜重郎も、そのことはよく理解するようになっていた。(319頁)「皇室の御安泰」のためには、この憲法を受け入れる他なかったのである。

 そのことは改定前の本で、すでに明確になっていたが、今回の増補改訂版ではさらに「昭和天皇実録」など新しい資料を使って論じられている。それらを見ると、まだ不明確な点も多いけど、「本土の非軍事化」と「沖縄の軍事占領」がセットになっていたことの意味がさらに重大な論点になってきたと思う。憲法9条で日本が戦争を放棄したことは、同時に米軍が沖縄に軍事基地を固定化することでもあった。それを理解していたのは、同時代的には、「沖縄メッセージ」を発して沖縄の軍事占領を認めた昭和天皇ぐらいしかいなかったのではないだろうか。

 本書によれば、もともとGHQでは9条は「戦争の廃止」と表現されていた。その「廃止」という表現は、米国では「奴隷制の廃止」を連想させるという。それが「日本化」される過程で、「放棄」という表現に変わっていく。日本政府は、日本語表現と英語表現をあえてあいまいにすることが多かった。そのこともあって、言葉の変更の意味は本書でもまだ完全には解明されていないと思う。ただ、今まで「もともとは戦争の廃止だった」などという話は初めて聞いた。今後の課題である。

 ところで、敗戦に伴い軍は解体されることになり、天皇が軍を指揮するという帝国憲法は、変えざるを得ない。論理的にはそうなる方が当然で、「戦争放棄」はとりあえず受け入れがそれほど難しくはなかったのだと思う。(昭和天皇が自ら詔書で「平和国家」を表明していた。)それに対して、「国民主権」の方はなかなか明確化されなかった。戦後最初の総選挙(1946年4月)では、まだ保守派の政治家が多く当選していて、「国体護持」は大きな関心事だった。政府草案も当初は「国民主権」ではなく、「国民の総意が至高」などとあいまい表現になっていた。それに対して、報道され問題化する前にGHQが介入し、「国民主権」が明確化されたのである。(345頁以下)

 このことは今まであまり意識されていないように思う。これはある意味では、確かに「押しつけ」なんだけど、当時の日本政府が明らかにおかしい。GHQとしては、後で国際問題化することは、マッカーサーの「面目」にも関わるし、絶対に避けなければならない。そこで「内面指導」を行ったのである。つまり、日本政府が自発的に変えるように裏で交渉するわけである。日本政府は受け入れるしかない。今では国民主権は当たり前のことになっているが、そういう経過が存在したのである。

 もう一点、憲法審議の過程で、政府が自ら変更した点がある。それは憲法9条の修正案が決まって、2項に「前項の目的を達するため」という文言が挿入されることになったことに関わる。極東委員会での協議で、中国代表から「この修正を口実にして自衛のためと言って軍を持つのではないか」と、まさに図星のような指摘があったのである。(393頁)もちろんこの当時の中国は「中華民国」である。古関氏が指摘するように、日本による「自衛の名による侵略」を受けてきた中国だからこそ、9条修正が何をもたらすかに気付いたのである。

 そこでいろいろと議論されたが、マッカーサーの問い合わせを行うことになった。そして、なんにせよ占領終了後に日本が憲法を改正して再軍備することはあり得ると考え、むしろそれを前提にして、66条に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」という条文を挿入することになったのである。「文民」という日本語は当時は存在しない。(今もないのと同じだろう。)civilianの訳語だけど、あえて言うなら「文官」の方が日本ではなじみがある。戦力を持たない日本では全員が「文民」のはずだが、あえてこの条項が入れられた裏には、戦後日本への懐疑的な国際世論が存在したわけである。

 まだまだこの本から学ぶ点はたくさんある。特に憲法研究会の活動などは印象深い。今回新たに増補された(ちくま新書「平和憲法の深層」所収)「東京帝国大学『憲法研究委員会』の役割」の章を読むと、まだまだ新憲法制定史には不明な点がかなり残されている。それらの点は、今後書くかもしれないが、とりあえず本書に直接当たって欲しい。それよりも、今後の焦点になる「9条改正問題」を先に書いていきたい。書評としてはこれで終わることにする。
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古関彰一「日本国憲法の誕生 増補改訂版」を読む①

2017年05月07日 22時38分01秒 | 〃 (さまざまな本)
 古関彰一氏の「日本国憲法の誕生 増補改訂版」(岩波現代文庫、1720円+税)が出たので、やはり読もうと思った。施行70年の憲法記念日に合わせて書きたかったんだけど、読み終わるのに時間がかかってしまった。まあ、安倍首相が本格的に改憲を表明したし、憲法に関して考えておく意味はあるだろう。旅行が間に入って断続するけど、しばらくこの本を中心に憲法を考えてみたい。

 古関彰一氏(1943~、獨協大学名誉教授)の日本国憲法誕生史研究を読むのも3回目だ。最初の「新憲法の誕生」(1989)は、中公文庫版(1995)で初めて読んだ。それから、岩波現代文庫で「日本国憲法の誕生」(2009)として生まれ変わり、さらに今回「増補改訂版」(2017)が出た。大幅改定で、ほぼすべての章で加除、訂正が行われたという。それでもまだ不明の点が残り(たとえば「前文」の起草者)、今後の再訂版もあるかもしれない。だが、まあいまのところ、憲法制定史の決定版だろう。

 だから、護憲・改憲といった考え方の相違はさておき、日本国憲法に関して何かを述べようとする者は、必ず読んでいなけらばならない本だろう。でも、憲法9条はアメリカの陰謀だ、いや戦争放棄は幣原首相が言い出したなどと、史実無視の思い込みをまだ書き散らす輩もいるように思われる。最低限、この本ぐらい読んでおいて欲しいものだ。そんなに難しい本じゃないんだから。

 もっとも、「近衛文麿」とか「幣原喜重郎」って、何て読むんだ? 誰? となると、ちょっとついていけないかもしれない。高校日本史には必ず出てくる首相経験者だから、読者にはそれぐらいは知っていることが求められている。それを難しいと言えば、まあもちろんある程度は難しいわけだけど、叙述は堅苦しくない。時代が近い分だけイメージも湧きやすく、「応仁の乱」より判りやすいと思うけど。

 さて、この本は一種の大河小説のようなもので、大日本帝国の敗戦から新憲法の議会通過まで、さまざまな出来事が出てくる。全部書いているわけにはいかない。全部の論点に触れるぐらいなら、直接読む方がずっと早い。「増補改訂版」なんだから、本来は今回新たに加わった部分を論じるべきなんだろうけど、それでは細かくなりすぎる。読んでない人も多いだろうから、他の問題から書きたい。

 日本国憲法と言えば、「押しつけ」か、そうではないかなどという議論がずっとあった。僕の子ども時代から、そういう議論をしている。そういう議論の構図を前提にすると、当時の議会でどのように修正されたかという問題を忘れてしまう。「押しつけ」なんだったら、議会で修正できないはずだが、実際は当時の帝国議会でかなり多くの修正がなされたのである。それには有名な憲法9条の「芦田修正」も含まれる。そうした修正が可能だったんだから、少なくとも単純な「押しつけ」ではなかったのである。

 憲法9条の問題は次回に回して、まず他の条文の修正を考えてみたい。憲法の条文のいくつかは、学校で覚えさせられはと思う。その中に、憲法25条の「生存権」、具体的には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」は必ず入っていると思う。ワイマール憲法で初めて認められた「生存権」あるいは「社会権」が、日本国憲法にも取り入れられた。そのことは「すごく重要なことだ」と学校で教えられたはずだと思う。だけど。これは原案にはなかった。

 当時の社会党から出た修正案が取り入れられたのである。これほど重大なことが、いまだに日本国民の常識になってないのは不思議だ。それだけではない。当時の社会党からは、「休息権」や「働く女性と母性保護の権利」も主張されていた。それらが憲法の条文に書いてあれば、「過労死」や「保育所問題」もまた少し変わったのではないか。むろん、憲法14条があっても差別はなくならないように、憲法の条文にあるだけでは現実は動かない。でも少なくとも「憲法にあれば武器になる」と思う。だが、残念なことにそれらの権利は、生存権規定と引き換えに、社会党が取り下げしまったのである。

 国民の運動が憲法の条文を修正した例がたった一例だけだが、紹介されている。それは憲法26条の「教育権」のある表現である。いまは「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。」となっている。もともとの政府案では、「その保護する児童初等教育を受けさせる義務を負ふ」だったのである。

 判るだろうか? 「児童」は小学生である。小学校の教育が「初等教育」である。小学生は「児童会」、中学や高校では「生徒会」だったことを覚えていると思う。中学は「前期中等教育」、高校は「後期中等教育」である。(だから「中高一貫校」を「中等教育学校」と呼んでいる。)政府原案のままでは、小学校しか義務教育じゃなかったのである。これは多くの議員にもよく判っていなかった。

 ここに気付いた人々がいる。それは「青年学校」の教員たちだった。青年学校というのは、戦前の学制において、小学校卒業後、高等小学校や中学へ進学できない青少年向けの学校だった。どうしてそのような学校が必要だったかというと、小学校卒業後何も勉強していないと、20歳になって徴兵された時に、低学力の兵となるからである。だから、軍の思惑もあったわけであるが、それはともかく、1939年には男子の青年学校が義務化されている。

 ところが、憲法で「初等教育は義務」と規定されてしまうと、男子においてはかえって教育が低下してしまうのである。これに気づき、猛運動を開始し、ついにギリギリで修正を勝ち取ったのは、全く青年学校教員たちの運動によるものだった。しかし、議員たちの反応は、「児童」でも「子女」でもいいじゃないか、単なる表現の問題だというものが多かったという。くわしい経過は同書を見て欲しいが、この小さな修正により、中学まで義務教育という6・3制という戦後教育の枠組みが可能となったのである。

 小学校だけしか義務教育じゃないと、危うく憲法に書き込まれてしまうところだったのである。このことを知っている人はどれだけいるだろう? 全国の教育関係者には全員周知されるべきことではないか。今年は新制中学発足から70年。「創立70年」という垂れ幕がかかっている中学も多いだろう。その裏に、こういう事実があったのである。

 それに続けて、同書には非常に重要な指摘が書かれている。それは青年学校の教員よりもずっと社会的地位が上だったはずの(旧制)中学教員はなぜこの問題で運動を行わなかったのかということである。「権利とはそれを否定され、あるいは差別をされ続けてきたものが、はじめに発見するものであることを、あまりにもあざやかに証明しているといえないだろうか。」この指摘は、これから憲法を考えるときに必ず押さえておかないといけないことだろう。
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2017年4月の訃報-ペギー葉山、三遊亭円歌、佐田の山、加川良、松本俊夫…

2017年05月05日 22時44分46秒 | 追悼
 2017年4月の訃報特集。大岡信はその時に書いたけど、その後も次々と思い出の人が亡くなった。まず、歌手のペギー葉山。(1933~2017.4.12、83歳。)本名は「森繁子」で、森というのは夫の根上淳の姓である。根上淳は昔の大映映画を見てると、すごいハンサムな俳優だなあと思う。芸能界で有名なおしどり夫婦と言われていた。旧姓は「小鷹狩」(こたかり)という珍しい姓である。じゃあ、芸名の「ペギー葉山」は何なんだと思うと、実に不思議な由来がウィキペディアに出ている。

 新聞の訃報では、大体3曲、「南国土佐を後にして」(1959)、「ドレミの歌」(1961)、「学生時代」(1964)が大きく取り上げられている。まあ、そういうことになるんだろう。音大を目指す青山学院女子高等部の女子高生だったけど、在学中にジャズ歌手に転向、進駐軍キャンプで歌い始めたという経歴である。だから、青山学院大学へは行ってない。「南国土佐…は大ヒットしたという話は僕も聞いていた。もちろん同時代には知らないし、映画化されて小林旭の渡り鳥シリーズにつながったわけだが、その映画も何十年後に見た。「ドレミの歌」は知ってたけど、中学時代に映画「サウンド。オブ・ミュージック」に感動して、英語の歌詞を一生懸命覚えたから、日本語の歌詞に関心がなかった。ということで、僕が一番好きなのが「学生時代」ということになる。まあ遥か年上の大歌手という感じだったけど。

 三代目三遊亭円歌(1929~2017.4.24、85歳)は、何回か直接聞いてるけど、もう「中沢家の人々」しかやらない晩年だけである。もちろん、1970年に円歌を襲名する前の「歌奴」時代はテレビで知っている。新聞の訃報では、今でも「山のあな、あな」と見出しになっているからビックリだ。「授業中」という新作落語で、カール・ブッセ・上田敏訳の詩を朗読中にどもってしまう。今じゃ、そもそもこの原詩を知らないんじゃないだろうか。でも、小学生だった自分にはこの落語がむやみに面白かったのは間違いない。ホントに大うけしていたし、小学生もみな知っていただろう。柳家小さんの後で、落語協会会長を務めたけど、それ以上に落語協会初の女性真打ち、三遊亭歌る多を育てた功績も大きいと思う。

 第50代横綱佐田の山が亡くなった。(1938~2017.4.27、79歳。)大鵬、柏戸のいわゆる「柏鵬時代」に割って入った第三の横綱である。(もうひとり、第4の横綱、栃の海もいた。まだ存命である。)都合6回優勝したけど、横綱としては3回だった。入幕3場所目に前頭13枚目で平幕優勝をしていて、僕はそれをうっすらと記憶しているから我ながら驚く。当時は「巨人・大鵬・卵焼き」と言われたと今回もニュースで言ってた。そういう言葉は確かにあったけど、だから「当時の子どもたち」をひとくくりにされては困る。強いものは応援する必要もないと思う自分としては、巨人も大鵬もファンではなかった。子どもながらのそう思っていたわけである。だから佐田の山の方が好きだった。後、理事長になって、改革に乗り出して挫折する。でも、今や親方株のあり方は、境川理事長(佐田の山)時代の案になっている。先見の明があったと思うけど、当時はそれが受け入れられなかった。

 フォーク歌手の加川良(1947~2017.4.5、69歳)は、なんといっても「教訓Ⅰ」である。「いのちは一つ 人生は一回 だから命は捨てないようにね あわてるとついフラフラと 御国のためなのと言われるとね 青くなって しり込みなさい 逃げなさい かくれなさい…」

 これが口ずさめる人はどれだけいるだろうか。当然「反戦歌」として作られたんだろうと思う。もうこの歌は古くなったかと思った2010年代になって、原発事故や集団的自衛権が問題化する中で、この歌が「いま」を歌っているとして蘇ったのは、喜ぶべきとは言えないことだった。

 映画監督の松本俊夫(1932~2017.4.12、85歳)は、日本の映像理論家や実験映画作家として重要な人だった。芸術系大学で映像論を教えるというのも、今じゃ当たり前のことだけど、松本俊夫が最初と言ってもいいかと思う。劇映画は4本作っていて、「薔薇の葬列」「修羅」「十六歳の戦争」「ドグラ・マグラ」で、いずれも大きな話題にはなった。(もっとも、「十六歳の戦争」は1973年製作が、3年間公開されなかった。愛知県豊川市の豊川大空襲を描いている。豊川市が製作したけど、「難解」と思われた。秋吉久美子の初主演だけど、公開時にはすっかり有名になっていた。)それぞれ、他の人には作れない映画で貴重だと思うけど、まあ映画の出来は「問題作」になるかな。
 
 長くなってきたので、以下は簡単に。漫才師・女優の京唄子(4.6没、89歳)は、鳳啓助との夫婦漫才で人気があった。「おもろい夫婦」というトーク番組もよく見ていた。啓助とは65年に離婚していたが、コンビは続けていた。啓助は94年没。版画家・絵本作家の儀間比呂志(4.11没、94歳)は沖縄戦を描いたことで知られる。ほとんど読んでないけど、右派の論客・渡部昇一(4.17、86歳)も死去。
  
 元参議院副議長、社会党、民主党で4回当選した本岡昭次(4.10没、86歳)、「圭子の夢は夜ひらく」などの作曲家・曽根幸明(4.20没、82歳)、羽田政権で法相、鳩山内閣で国家公安委員長・拉致問題担当相を務めた中井洽(ひろし、4.22没、74歳)は民社党、新進党、自由党、民主党と移った。右派系であるけど、それ以上に何かとお騒がせがけっこう多かった。

 外国人では、映画監督のジョナサン・デミが亡くなった。(4.26没、73歳。)もうとにかく「羊たちの沈黙」(1991)の監督として知られている。これは作品、監督、脚本、主演男優、主演女優のアカデミー賞を受賞した。これは「或る夜の出来事」「カッコーの巣の上で」と3作しかない記録になっている。確かにあれは(トマス・ハリスの原作によるところも大きいけど)すごい映画だった。だから他の映画の記憶がほとんどないけど、次の「フィラデルフィア」はトム・ハンクスが主演男優賞を取ったエイズをテーマにした映画。「レイチェルの結婚」(2008)というのもあった。
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渡良瀬遊水地サイクリング

2017年05月04日 21時42分24秒 | 東京関東散歩
 5月2日に渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)に行ってきた。もちろん足尾鉱毒事件によって、明治国家から強制的に廃村にされた栃木県の旧谷中村跡地である。学生のころ行ってるけど、その頃は整備されてなかった。キレイに整備されたということは聞いていたけど、そういう「観光地」に違和感もあって、行かないでいた。でもまあ、一度は見に行かないとなあと思っていた。何もさえぎるものがない場所だから、夏と冬は行きたくない。五月はベストシーズンである。

 中に車は入れられないし、歩くにはちょっと広いので、自転車を借りるのがいいと思う。周辺に何か所が貸してくれる場所があるけど、「道の駅きたかわべ」がいい。食堂や物産館もあるから便利だ。電車の場合は、東武日光線柳生駅から徒歩5分程度。自分の家からは下り電車でつながっているけど、一本では行かない。地下鉄半蔵門線の終点、南栗橋から4つ目の駅である。

 そこは何もない小さな駅だった。「道の駅」の場所も判らないけど、とにかく線路を渡らないとと思い、線路際を歩いて踏切を超える。歩いていると、ちょっと高いところにある「道の駅」が見えてくる。鉱毒事件の本を読んでるとよく出てくる「埼玉県北川辺村」も、今は加須(かぞ)市になっている。「道の駅」の屋上が展望スペースになっている。日光の山々や筑波山がよく見える。そこで4時間400円(一日600円)でレンタサイクルしている。大きさや種類もいっぱいあった。(月休み)
   
 近くに最近ちょっと話題の「三県境」があるけど、その話は一番最後に。「道の駅」の前の道は車が多いけど、遊水地は目の前である。2012年にラムサール条約に登録された湿地であり、釣りやバードウォッチング、サイクリングの人がいっぱいいた。晴れてて、でもまだ空気は涼しいから、気持ちいい。停めて写真を撮る気にならない。遊水地は「谷中湖」と呼ばれていて、三つのゾーンに分かれている。真ん中に「中の島」があり、その間は舗装された道でつながっている。
  
 とりあえず、北にある「谷中村史跡保存ゾーン」に向かう。そこは人が少ない。晴れ渡った気持ちいい日だから、どうも昔の歴史をしのぶというムードにならない。上の真ん中の写真は谷中村役場跡である。谷中村には、すべて「跡」があるだけで、昔のものはお墓以外に残っていない。谷中村の廃村は1906年。強制取り壊しは1907年のことだった。それでも残っていた最後の村民は、1917年に離れたということだから、ちょうど100年前のできごとである。
   
 上の最初は「雷電神社跡」で、3枚目が墓地である。お墓がいっぱい並んでいる。そこに村の厳しい歴史をしのぶこともできる。だけど、もう時間も経ってしまい、夏草ばかりが生い茂る。歴史に思いをはせるのは、かなり大変である。ここには廃村を納得せず、田中庄造も含めて村民有志が最後まで抵抗を続けた場所である。明治政府は鉱毒問題を、谷中村一村を犠牲にすることで「解決」しようと計画した。沖縄を初め、その後の様々な問題につながる構造をそこに見て取ることができる。

 矢中村村民の墓は今は移されている。それはまとまって、遊水地の外にある。藤岡駅や板倉東洋大前駅に近い北エントランス近くにある「旧谷中村合同慰霊碑」である。谷中村にあった多くの碑なども集められている。こういうところがあったとは知らなかった。旧谷中村に散財した無縁墓を集めたもので、1971年に建設省が作ったという。なんとなくハンセン病療養所の合同納骨堂を思い出してしまった。「国策の犠牲」という点で同じだからだろうか。
  
 「谷中湖」の外側には、広大な調節池が三つも残されている。そこらまで見ていると、とても時間が足りない。暑くなってきて疲れてきたから、藤岡周辺を見て帰る。帰り道は自転車を停めて写真を撮る気にもならない。さっと帰ってきた。ところで「道の駅」近くの「三県境」。渡良瀬川改修工事で川の中にあった県境が陸地になった。埼玉県加須市、栃木県栃木市、群馬県板倉町の境目である。「歩いて三歩で回れる」ということで、最近ちょっと話題なんだけど、これは「ガッカリ名所」に近いかな。下の2枚目写真の右の方に見えているのが、「道の駅きたかわべ」である。
 
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