狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

勲章の話

2007-09-01 22:15:54 | 怒ブログ
←勲2等旭日重光章
 勲章の話といえば、まず思い起こすのは、芥川龍之介の「侏儒の言葉」である。
      小児
 軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。

この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひおどし)の鎧や鍬形(くわがた)の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう ?

 次に胸に浮かぶのは、荷風散人の文化勲章受章である。ボクばかりでなく、多くのマジメな善良な人々は、荷風散人の勲章を辞退をひそかに期待していたのに、いともあっさりとっさりと受賞してしまった。
 あとで判ったことだが、これには久保田万太郎の綿密な根回しがあったのだそうだ。貰いたくて血眼になる、政治家にたいして、文人は淡々としているところに、値打ちがあるのかもしれない。同じ米国人D・キーンには1ランク上と思われる勲2等旭日重光章を頂いているのも、不思議な思いだが、E・サイデンステッカーの著書から授章の感想が収録されていたので引用したい。
           受賞の感想
             サイデンステッカー
             安西徹雄編訳
去年の夏、私が勲章をもらうことになったという話を聞いて、ある日本人がいきなり私に浴びせた質問には、正直いってびっくりした。考えてみたこともない疑問だったからである。それ以来、あまり何度も同じ質問を繰り返されるので、今はもう別に驚きもしなくなったが、しかし、これを訊くのがいつも日本人で、外人には一度も訊かれたことがないという事実には、今もってかなりの興味をそそられている。その質問というのは、勲章をやろうと言っているその政府が気に入らなくて、断るつもりはないか、というのである。

 かりに気に入らない政府がくれるのであっても、勲章を断るなどという面倒をあえてするつもりは私にはない。なるほど政府というものは、いわば顔のない非人間的な存在で、こうした御褒美を下さることについても、どういうつもりなのか、まるで漠として得体が知れない、と考えることもできなくはあるまい。しかし実際には、いやしくも勲章でも出すという以上、政府部内のだれか特定の個人が思いつき、しかもその個人がその案に相応の関心を持ちつづけて、結論が出るまでプッシュしてくれて、はじめて決定にこぎつけるもののはずである。お役所仕事というものを考えれば、これはかなりの面倒を要することにちがいない。とすれば、こうして与えられことになった勲章を断るなどということは、無礼でもあれば、忘恩の振舞でもあるということになる。
 けれども、こんな質問をされたおかげで、私も世界のあちこちの政府のありようをいろいろ考えてみたあげく、漠とした理想の政府はいざ知らず、現に世界の各地にみる現実の政府と比較するかぎり、日本の政府はいいほうだと考えざるをえない。というより、むしろなかなか立派な政府で、世界中でもトップクラスにあるというのが私の結論なのである。

 なるほど日本の大都会に住んでいれば、問題は山ほどあり、しかもだれもこれという手を打っていないことはだれにも否定はできない。けれども、とかく日本の政府に悪い点をつけたがる人というのは、外国の大都会に住んでみればどんな気がするものか、知らない場合、あるいは無関心である場合が多いのである。

 私がもらったのが三等の勲章だということを指摘して、これはつまり、日本の政府が文学を重んじない証拠だ、当然もっと上等の勲章を出すべきだった、と言ってくれる人もある。まことに御親切で痛み入るし、それに、頭から勲章などもらいたくないというのならともかく、もらう以上は三等より一等のほうがいいと思うのは人情というものかもしれない。えれども、この点についてもまた、漠とした理想の政府でなく、現実にわれわれのまわりにある個々の政府と比較してみなければ本当の話はわからない。そして、この場合にもまた、日本の政府は相当の上位にあると思う。

 私の受勲について、もう少し的を射た言葉を吐いたのは、私のアメリカの大学の同僚だった。日本の政府は、お返しなどまったく考えていないはずだというのである。これはたしかにそのとおりで、そして、お返しを期待した事柄があまりに多い今の世の中であってみれば、このことを考えるとまことに心温まるものがある。例えば、われわれ日本に来る外人は、出入国管理法の規則でよく苦労することがあるのだけれども、考えてみれば、これもアメリカの移民局の措置に対する「お返し」として、あるいはやむをえないことでもあるのだろう。

 ところが今ここに、わずかばかりの文学上の努力にたいして、その意味を認めて表彰しようとした行為がある。そしてこの行為には、アメリカ政府が現にしてくれていていることにも、してくれる可能性のあるにも、まったくなんの関係もない。日本人がたとえ、どれほどアメリカ文学を日本に翻訳紹介したからといって、アメリカ政府がその日本人の努力をこうして認めるなどということは到底考えられないからである。

 先日の天皇の御訪米の際、陛下主催のワシントンの晩餐会に招待された人々のリストを見たときにも、私は同じ思いを抱き、同じ感謝の念を感じた。まことに文明の国にふさわしく、政界ばかりでなく、それほど目立たない分野、ことに学問や文学上の仕事にたいする行きとどいた配慮のほどがうかがわれたからである。

 日本人が日本の政府に点がからいのは、おそらくは健全はことであって、こうした問題で自己満足に陥るようなことであれば、それこそ何より危険なことであるのかもしれない。けれども、私は一外人として、あえていい点をつける贅沢を許されるのではないかと思う。(朝日新聞1975/11/4))湯島の宿にてー蝸牛社刊による
勲2等旭日中授章
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