狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

赤城家余談

2007-08-02 20:32:13 | 日録
過日、赤城農水相更迭の題を「槿花一朝の栄」として投稿したら、早速
『無念』と題してaqgel氏より次のようなコメントを賜った。

2007-08-01 19:32:32

私は今の赤城氏とはなんの関係もないが、その昔彼の祖父であった宗徳氏から、ある人との縁で、「至誠無息」と毛筆で書かれた書を貰って、私には書を観る才などは無いがしかし、余りにも見事な書体に、額縁屋へ行って額に入れてもらって、いまだに部屋に飾ってあるが、あらためてその書を見上げて、無念の想いが尽きない。
宗徳氏は、当時国会議員随一の書家であったから、氏の書を貰って、大事にしている人は多いわけで、それらの人々は私同様、無念の思いを噛みしめている人は多いだろうと思う。
勿論時代は変わった。それに人間、運不運もある。しかし宗徳氏は地下で、涙しているであろうと思う時、無念で言葉が無い。
これ以上、事が荒れないことを祈る。

実は、ボクも同県人でありながら、選挙区が違っていたので、選挙での直接の関わりはない。しかし、氏の演説(今の選挙演説の様に、拳を振り上げたり、怒号をしたり、誰でも構わず、握手などはしなかった。)は、立会演説会などでよく聴きに行った。
風見章等も、同じ選挙区だったので同席していた。いずれも。語りかけるような演説だった。ボクは風見党だったが、赤城の語り口に、非常な共感を覚えた記憶がある。

 そして、氏は小生が最も崇拝している「杉村楚人冠」の全集を日頃愛読していた
というエッセーを読んだことも、赤城崇拝の根源であった。

此処に、わが地方の新聞のコラム記事があるので紹介したい。

 紫音
「赤城の家が大変な時は皆で助けてやってほしい」。赤城農相のピンチに、この言葉を思い出した。▼明治生まれの曾祖母が生前、叔母らに口癖のように語っていた言葉だ。旧真壁郡の高齢者の中には、今もこの言葉にリアリティーを抱く一群の人がいる▼今回の問題で、テレビ各局はニュース報道で名門・赤城家の旧家ぶりを上空から放映し、嘗て大地主だった面影を浮き彫りにした。実際、広大な屋敷に落ち着いた門構え、風格ある母屋には圧倒される▼おおげさだが、「宗徳先生は(旧制)下妻中学まで、他人の土地を踏まずに行けた」と言う悦話まで残っている。」大地主だけに戦後の農地改革で、赤城家から農地取得の恩恵を受けた人は数多い▼農地の開放だけでなく、徳彦農相の祖父、故、宗徳代議士は政治家としてはもちろん、人間的な面でも幅広く地元の尊敬を集めた。戦前の上野村長時代から、地元の農民と一緒に汗を流したからだ▼戦前に県議、衆議院を経験しながら終戦で公職追放となり、村の有志の手助けを受けながら、田畑七反を耕した。時代が違うとはいえ、こうした苦労人の人生経験が現農相とは決定的違いだ。▼金には縁がなく「農政の赤城」「永田町の村長さん」と呼ばれた宗徳代議士。その血筋を受け継儀ながらも、わが農相に対する地元の視線はひどく冷ややかだ。(市)

 この新聞は地方新聞であるから「赤城徳彦農水相」の誕生の折、格別の特集記事で埋めた。知事、代議士、県議、自治体首長たちが、奉加帳のように、祝辞を書いた。(本人が書いたのか、秘書が書いたのかは、読者が判断することだろう)
しかし、その祝辞にでさえ、祖父宗徳氏の名前が出てきた。
「祖父宗徳氏を乗り越えよ」という檄文もあったような気がする。

ボクは自民党の敗北を喜ぶ。しかしあまりにも哀れなる絆創膏の写真が、「人の噂も七十五日」で終わらせたいものだと心から願っている。(おわり!)