狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

原爆忌

2007-08-07 18:58:18 | 怒ブログ
原爆忌 広島忌 長崎忌
昭和20年8月6日。広島市に世界最初の原子爆弾が落とされた日である。人命の喪失約12万。つづいて同月9日、長崎にも投下された。この未曾有の惨事をふたたび地球上にもたらさないため、この日を記念日として、広島市を中心に全国的に、平和祈願、原爆反対の催しがもたれる。
原爆日ごぼりごぼりと泉の穂      加藤楸邨
原爆の日の病む手をり     石川桂郎
広島の忌や浮袋砂まみれ        西東三鬼
日がおもい岩に裸寝長崎忌       古沢太穂
                          合本俳句歳時記 新版 角川書店編
 広島に原爆が投下された19458月6日の断腸亭日乗にはその記事はなく、10日に「広島市焼かれたりとて岡山の人々戦々兢々たり。とあるばかりである。荷風は当時岡山に疎開していたのである。
 また山田風太郎の「戦中派不戦日記」には8月8日にその記事がある、
 八日(水)晴
 ○列日。休みて午前中図書室目録を作る仕事を続ける。
 ○広島空襲に関する大本営発表。
 来襲せる敵は小数機とあり。百機五百機数千機来襲せるも、その発表は各軍管区に任せて黙せし大本営が、今次小数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せるによる。
「相当の損害あり」と言い「威力侮るべからざるものあり」とも伝う。 曾てなき表現なり。いかなるなりものなるや。
 しかし9日10日は・ソ連参戦の記事が長文を占め長崎原爆には触れていない。

ところで大岡昇平の「俘虜記」は仲々読む機会がなかったが、広島原爆についてどのように書かれているか非常に興味をもった。
 はじめから「俘虜記」を読むには長時間あるいは1週間ぐらいは必要であろう。そこで原爆はでてくる8月10日という章に焦点を絞った。


俘虜の生活では、日付など正確に憶えていられるものではないが、この十日間だけははっきりしている。
 昭和二十年八月六日であった。夜大隊書記の中川が中隊本部に入って来て、その日広島へ新式爆弾が投下されたことを告げた。
「えらい力やそうやで。一発で十哩四方一ぺんやそうや」と彼はいった。
 中川は彼と直接連絡のある米軍の収容所事務所で得た情報を、自慢しに来たのである。私はかねて彼が敵の兵器の威力について、友軍のそれを誇るような調子で語るのを不愉快に思っていた。この元一六師団の砲兵下士官が語る水際防衛の経験談は、宛然米軍側の上陸戦記であった。
 十哩四方といえば広島全市を蔽う広さである。この大災害を彼がいつもの調子で語るのは聴いていられなかった。(略)
 爆弾の種類について中川は何も知らなかった。私は大体「モロトフのパン籠」式の親子爆弾を想像した。巨大な親爆弾が空中で炸裂して、無数の小さな爆弾の雨を降らせる。しかし一発で十哩四方やろうと、二十哩四方やろうと、米国がいくらでも爆薬とB29を製造する能力を持っている以上、同じことである。
 翌日.中隊付きサージャントが来て、一発でTNT十頓に匹敵すると自慢した時も、私はこの理由をあげて屈しなかった。(略)
 ウェンディ憐れむように私を横目で見て、首を傾げていた。
 私は間違っていた。ウェンディが、午後持ってきた「星条旗」紙の見出しのATOMICの六字が私の眼を射た。恐らくこれはウェンディが朝も口にした言葉に違いなかったが、私の英語の未熟と想像力の不足のため、想像できなかったのである。









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1 コメント

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T.Bを読んで (tani)
2007-08-11 09:49:58
ましまさま
T.B拝読しました。小生はテレビでは長崎市長の読みあげた宣言文を聞きました。

>今日、被爆国のわが国においてさえも、原爆投下への誤った認識や核兵器保有の可能性が語られるなか、単に非核三原則を国是とするだけではなく、その法制化こそが必要です。

安倍首相も非核三原則堅持の作文を一応は読みあげましたけれど、言葉の空虚さを覆い隠せませんでした。

>二〇〇三年の広島平和宣言がいう「国連憲章や日本国憲法さえ存在しないかのような言動が世を覆い、時代はまさに戦後から戦前へと大きく舵を切っている」

貴著〝あとがき〟も、あらためて読み返しました。
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