車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

人生は、自分が見ている方向へ進むもの

2020年08月30日 22時16分56秒 | 日記
毎日の練習やトレーニングを行っていて、最近思うことがある。

試合の予定も決まっていない今、練習環境も人によってはストレスフルで思うように出来ない今のこの状況、みんなモチベーションは維持できているのかな?と。

台でボールを打つのは楽しい。

だから、楽しい練習、自分が楽しめる練習は誰でも出来ることだし、やりたくなるものだからそれに関しては問題ないと思う。

けれど、自分がやりたいメニューではなくコーチ等から「やらされる」厳しい練習、フィジカル トレーニングを含め辛いメニュー等を自主的にこなしていくだけのモチベーションはどうなのだろう?

コンディショニングというけれど、次が決まっていない状態でそれをずっと高いレベルで維持することって心身ともに簡単なことではないと思うし。

パラ卓球だけでなく全ての競技者、関係者がどうなのか、そこにどんな創意工夫を行っているのか、それが気になる。

いや、でも正直、人のことを気にしている暇はないのだけれど(笑)



僕はそんな状況をチャンスと考える。

練習環境など、自分ではどうしようもない問題点もそれぞれ複数抱えている場合も少なくはないと思うし、環境面でも困難な状況はまだまだクリア出来る見通しは立っていないけれど、大半がそんな状況だからこそ、自分の頑張り次第で人との差をより生じさせ易いとも思うのだ。

大切なのは今自分に何が出来るか?ではなく、モチベーションを維持出来ているかどうか、それこそ意識を高く持てているか、だと思っている。

結果はそれで決まるはず。

結果というものは自分の意志、気持ちについてくるものだと思うから。



僕はバイクが大好きでずっと乗っていた。

そのバイクから学んだのがまさにそれなのだ。

「自分が見ている方向に進む」



身体づくりにおいても同じことが言える。

練習していたら必要な筋肉は自然とつく、だから筋トレなんて必要ない、という考えを聞いたこともある。

専門家曰く、確かにそれは一理あるらしい。

でもそれは「見ている方向へ進む」という考え方とは異なるので、僕はそうは考えない。

プレーにおける技術的なことだけでなく、フィジカルにおいても、また体調管理を含め日常生活全般においても、自分がどうありたいのか、自分をどうしたいのか、ではその為に今自分が何をどうするか、偶然の棚ぼたを待つのではなく自分から欲しいものを掴みに行く。



でも、それを独断で行うのは案外危険なことだったりもすると思うので、そこは周囲の意見も聞きつつ判断と行動を取るべきとも思うのだ。

その際、コーチやトレーナーなどの「有識者」の意見である方がより良いはず。



そんな感じで活動していたら、「ポジティブですね」なんて言われたりもする。

いや、自分で「ポジティブでいよう!」なんて考えたことは一度もない。

自分に都合のいいことばかりを考えているだけ(笑)

だって、自分が進みたい方向がはっきりと見えているから。

コーナーの進入時に、ブレーキングしながら見ているのはクリッピング ポイントであり、その次に見るのはコーナーの脱出ラインとその先。

ビビって外側を見ちゃうとそっち側へはらんでいくし。

練習もトレーニングも、自分をどの方向へ進めたいのか、どのレベルまで持っていきたいのか、それを考えないままただやっているだけでは、「こんなつもりじゃなかったのに」と思うことになりかねない。

それは絶対に嫌だから。

未来の自分を裏切らない。

逆に彼から「ありがとう」と言ってもらえる今の自分でありたい。



自分自身についても、また練習内容についても、自分でいろいろ気づき、考えることが今まで以上に出来ていると実感する。

それをコーチとも共有し、またコーチの考えや意見も得られている。

だから、チャンスもより多く得られるし、環境面もより良い方向へと広げられる。



後は、自分自身の問題。

意識の問題だ。

気持ちを常に高く保つ。

大丈夫、保てている。

環境面においても、人においても、僕は本当に恵まれている。

試合の予定はない。

でも、いつもの練習に加え充実した練習の予定は様々ある。

そのチャンスをしっかり活かせるだけの身体づくり、コンディショニングをしっかりと行わなければならない。

自分が進みたいところへは、そうしたラインをトレースしなければたどり着けないものだから。

いや、それでもまだ不十分かもしれない。

気を抜かずに、自惚れずに、クレバーに取り組んでいく。



ピンチはチャンス。

大好きな言葉だ。

さぁ、頑張っていこう。

練習動画再び

2020年08月18日 19時35分18秒 | 日記
僕の練習はいつも車椅子同士ではなく健常者の方とばかりやっている。

以前は週に1度程度、車椅子同士での練習をすべくあちこちへ出かけていたけど、それも今年の2月を最後に行えていない。

だから、それ以降の練習はずっと健常者の方とだけ。

もちろん、車椅子に座って打ってもらうなど、ご理解いただき練習内容に協力いただくことも多くある。



けれど、コーチ達との練習は別として、誰かと普通に練習していただく場合、自分の練習だけをやって相手の方の練習にならないなんていうのは失礼な話。

デートと同じで、好奇心から1度目はあったとしても2度目は無いってことになりかねないし、「お願いされたから仕方なしに付き合う」なんていうのも癪に障る話で僕は嫌だ。

卓球は2人以上で練習をするもの。

だから自分だけでなく相手の練習も同時に出来なきゃいけない。

「自分の練習になるからあの人と打ちたい!」

そう思ってもらえる人と練習するのが良い。

その方が内容が濃く深いし、熱い練習が出来るから。

だから、そう思ってもらえるように自分のレベルアップを果たさなきゃいけないし、自分が頑張らなきゃいけない。



車椅子だけど健常者の練習に付き合えますよ、そういうプレーヤーになりたいと、僕は始めたころからずっと思っている。

ということで、そんな練習のワンシーンをお見せします(笑)

https://www.youtube.com/watch?v=oU7afc4ZV-A&feature=youtu.be



車椅子であるが故に、一番大きな特徴はフットワークの無さです。

単歩動やボディワークも皆無です。

だから、少しずれると綺麗に打てなかったりもします。

でも、逆にフットワークを要しないメニューであれば全然可能です。

僕がワンコースから2点3点とボールを送るフットワークの練習だったり、コート半面固定でサーブから3球目など、そういった練習は問題なく出来ます。

車椅子だけど健常者と一緒に練習をする。

健常者の練習に普通に加わる。相手をする。相手が出来る。

それもまた「障害者の社会進出」だと僕は考えます。



まぁ障害者というのは社会の中で「してもらう」側のことが多い。

だからこそ、逆に「してあげる」ことに不慣れなのかもしれない。

健常者からしても、障害者に「してもらう」のは申し訳ないっていう感覚が少なからずあると思うし。

そういうところがマイナスに噛み合っていて、だから障害者側が「しない」場合が多いようにも思う。



また、「車椅子だから健常者と一緒に練習するなんて無理だよ」

と障害者側が言うのは、それは障害者側が生じさせている「バリア」だと思います。

「バリアフリー」という言葉があるけど、そのバリアというのは案外障害者サイドが生み出しているものが多いのではないかと。

それを差し置いて、障害者が社会に対して「バリアフリー」を訴えることに僕は正直違和感を覚えます。

出来ないことは確かにある。

でも出来ることもある。

それを磨く、伸ばす努力をしないで、最初から諦めるのは、自分の可能性を断つこと。

それは嫌だなぁ。

逆に、僕のような車椅子の場合は特に、健常者と同じことをするだけで「障害があるのに凄いですね!」と驚かれる。褒められる。

同じことをしただけなのに。

ラッキーな話じゃないか(笑)



僕が健常者の方々と一緒に練習をする。

それこそがある意味「バリアフリー」だとも考えるので、僕はこれからもどんどんそうしていくつもりです。

車椅子ルール無しの一般の試合にも出てますからね(笑)

「車椅子」「障害者」である前に僕は「社会人」でありたいし、普通の男でいたい。

「あの人は車椅子だけど強いよ、上手いよ」

そう言われたい。

ただ、一般の卓球と、パラ卓球の、特に車椅子の僕くらいのクラスではプレーにも結構な違いがあるのは事実です。

だからと言って別に考えるのは間違っている。

卓球には攻撃マンがあれば守備型のカットマンもいるし、速攻型があればラリー型もいて、正統派(?)があれば異質型もあり、プレースタイルは様々。

それらすべてが、年齢身長体重関係なく同じコートで競うのが卓球。

その一つに「車椅子」があるというもの。

対戦相手によって戦術を変えるのは普通の事だから、自分がその引き出しを持てばそれでいい話。

引き出しを持てるように努力しなさいってだけのこと。



なんか深い話をしてしまった(笑)

ちょっと毒を吐いてしまったかもしれない(笑)

ということで、僕はこんな感じで卓球を楽しませてもらっています。

今は試合の予定も何にもないけど、でも良い環境でボールをしっかり打てることがとにかく楽しいし、喜びを得ています。

「障害者感のない障害者」

として、僕は卓球を通じて社会に出しゃばっていきます(笑)

練習内容も時間も人それぞれ。

2020年08月14日 13時40分31秒 | 日記
車椅子で卓球を始めた当初から度々聞かれることがある。

「週にどれくらい練習してるんですか?」
「何時間くらい練習してるんですか?」

聞かれるたびにいつも思う。

「大切なのは時間ではなくてその内容、質の高さだと思います」と。

でも口にはしない。心の中のつぶやき。今こうして言っちゃったけど(笑)

特に高校生の頃、僕を含め周囲のみんなで「勉強を何時間やった」と競うように言い合っていたのをよく覚えている。

でもいつの頃からか「時間ではなく質」と考えるようになった。

おそらく、仕事に就いた時にそう考えるようになったのだと思う。

僕の場合、何にしても満足度を質の高さに求めるのだと思う。

でも全ての人がそうではなくて、時間の長さで満足度を得られる人も少なくないように思うから。

それは人それぞれの価値観の違いであって、そこに是非を問うつもりもない。



ただ、競技活動を行っていく上では、より高い質のトレーニングを、より長時間行うに越したことはない。

ただしそこで注意すべきはコンディションの維持で、ただやり続けるだけでは身体に支障を起こしかねないし、それはメンタル面におけるマイナスにも直結するだろうから、極論はその限界点ギリギリの範囲でトレーニングを行い、また行える身体づくりを行うことでその限界点の向上に努め、さらには健全に活動を続けていく為の心と身体のケアも行っていかなければならないということ。

というのは理想論であり、フィジカルもメンタルも個人差が広くあるし、またそれは物理的に明確に表せるものでもないから、一概にどういったメニューを何時間と言えるものではない。

だからこそ、常に暗中模索といった具合で取り組むことになるのだけれど、そこに光を差し込ませる存在が指導者となるわけで、それこそ指導者の「クオリティ」によって差し込む光の大きさ、眩さが異なるのだと思う。



僕はこれまで徹底してクオリティを求めていた。

でもその「クオリティ」というものの考え方が少し偏っていたことに気づいた。

ある意味、発想の転換が出来るようになったのかもしれない。

そこに自分自身の成長を実感できる。

自画自賛(笑)



全てにおいて、妥協は良い結果を生まないと考える。

一生懸命に取り組むからこそなのだ。

そして、質の高さは相手に求めるものではなく、自分で考えて行うことで結果的に高めることの出来るものなのだと思う。

これまでの経験からもそうだと確信出来るではないか。

ただし、自己満足で終わらせてはいけない。

絶えず良い意味で人と比較し、他者の意見や考えに耳を傾け、そうしたうえで自分を磨いていかなければならない。

そうやって自分を高めていきたい。



がしかし、今のこのコロナ禍では他者との交流は危ぶまれる。

試合はもちろん、どこか他県への練習すら行くことは出来ない。

いや、物理的には行けるのだけれど、今はそうすべき時ではないと考える。

自分の生活圏以外の方との交流は極力控えるべきと思うので、本当はいろんな方と打ちたいなぁ、練習したいなぁと思うけれど、まさに我慢の時なんだな。

でもだからこそ、今やるべきことがあると思うし、今こそしっかり積み重ねる時なのだ。

その積み重ねる高さはクオリティで変わってくるはず。

先の自分を悲しませない為にも、後悔させない為にも、今しっかりと頑張らなければならない。



さぁ、しっかり頑張っていこう。

ただ時間の長さで自分を納得させるのではなく、質の高さで満足のいく取り組みを行っていこう。

毎日の練習では窓から吹き抜ける風や空調からの風によるボールの変化を常に感じていて、そこに多少のストレスがあったりもするけど、それもまた今だからこそのもので、この経験もまた先の自分の財産となるはず。

ゲーム練習をやる時なんかは敢えて空調を切ったりもするけど、すると室温も湿度も一気に上がるのが分かり、それはそれで現代ではまたレアな環境なのだけれど、個人的には学生時代の部活の練習を思い出せて楽しめてもいる。

まだまだ先は見えない。

けれど、立ち止まっている時間はない。

自分を裏切らない。