車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

あらためて、車椅子という自分の在り方を考える

2019年10月25日 20時32分59秒 | 日記
最近あらためて、「障害者」としての自分自身の立ち位置を考えた。

というか、再確認した。



なぜ?

「車椅子の障害者」

「車椅子の障害者スポーツ選手」

として、イベントへの出演や講演を承ったから。

それは何も今に始まったことではないけれど、そういったものに出演させていただき、主催者の意向を伺ったうえで話をさせていただいたり身体を動かしたりしていると、社会が僕のような車椅子利用者に何を求めているのかがより明確に見えてくる感がある。

僕の感じたそれが果たして正解かどうかは分からないし、もしかしたら僕の思い過ごしかもしれないけれど、僕の目にはこれだというものが見えていて、自分自身がそれを理解できたことに喜びを覚えるというか、自信が持てたような、そんな気がしている。



社会が求める理想の障害者像、理想の車椅子利用者像。

その先にあるパラ・アスリート像。



それをパラ卓球(車椅子)に当てはめた時、どうあるべきなのだろう?

どんなプレーが良いのだろう?



卓球は一対一で、選手が2740mmの長さの台を挟んで向かい合い、約40mmのボールを打ち合い、点を奪い合う競技。

対人競技で点を奪い合う競技だからこそ、「相手をだます」「弱点を突く」といった技が必要不可欠になる。



でも、卓球に限らずすべての競技には公平性を保つためのルールが存在するし、フェアプレー、スポーツマンシップといった精神、マナーも求められる。

ルールにのっとっていれば「相手をだます」「弱点を突く」ことは許される。

でもそれはスポーツマンシップやマナーに相反することではないのか?



いや、1点を奪い合う競技だからこそ、そんな綺麗事は言ってられない。

スポーツは勝負の世界。

勝ってなんぼ。

負けたら終わり。

勝たなきゃ意味が無い。



ごもっとも。

それは当然理解できる。

理解しているつもり。



だけど・・・と、僕は考える。



勝たなければ意味が無い。

確かにそう。

でも、「勝つために手段を択ばない」という選択を、特に日本人は嫌うものだと思う。

それは、日本に古くから存在する「道」の精神の表れだと考えるし、そこには作法という美しい所作も含まれるから、ある意味それを正々堂々と競い合うことに美学を見出す、そんな気質が日本人の中には根深く存在しているのだと思う。



そして、現代のスポーツというのはプレーする自分だけでなく、応援してくれる方々があればこそだとも思うのだ。

プロとして活動すればなおのこと。

応援してくれる方々に認めてもらえるプレー、ファンに感動を与えるプレーが無ければ、結果的に自分の首を絞めることにもなりかねないんじゃないかなと思う。

弱点が顕著なパラ卓球、車椅子卓球でその重要性はより高い。



「障害者(車椅子)があんなに頑張っている!」



という姿がパラスポーツには特に必要不可欠な要素で、その姿が見る人に感動を与えるものだし、それを見せてくれる、与えてくれる選手や競技がファンを獲得するものだと思うし、健常者目線で見れば、それこそがパラスポーツに求めるものだと考える。



逆に、その姿を見せることなく、ただ相手の弱点を突くことに徹して勝利を得る、それこそ「こズルい」「せこい」プレーばかりで点を取りに行く、そんなプレーに人の心は魅了される?そんな選手が果たしてどれだけのファンを獲得できるのか?と思うのだ。



競技種目が何であれ、社会が求める理想像を踏まえたうえで取り組み、磨き上げていかなければ、もしかすると、社会で日の目を浴びることは無いのかもしれない。

スポーツとして、その選手が人に感動を与えることが出来なければ、そうしたプレーが出来なければ、何をどう言葉で説明したところでそんなものは付け焼刃でしかないし、逆にその言葉が虚しく響くだけになってしまう。



「障害者」として公の場に出ると、思いのほか様々なことが見えてくる。

逆に、自分がいかに無知だったか、視野が狭いのかを思い知らされる。

「障害者」として話をさせていただく。

でも僕は車椅子の身体障害者でしかない。

この社会には同じ障害者でも様々な方がいて、それぞれ様々な問題を抱えている。

身体障害者の僕がこの社会全体の「障害者」を語ることは出来ない。

僕が語れるのは身体障害者の、それも車椅子という部分だけ。

でも、そこに社会が何を求めているのか、何を知りたいのか、その扉を少しだけ開くことが出来た、そんな気がしている。

その意識をもって、僕はパラ卓球に取り組んでいきたい。

パラ・スポーツ選手としての自分を磨いていきたい。

日本人として、美しく思われる選手でいたい。

だけど、結果もしっかり出していきたい。

道は決して平坦ではない。

でも、その道を進む力が今の僕にはある。

応援してくれる方々も大勢いる。



「王道」で「圧勝」の「横綱相撲」が理想的じゃないか。

その横綱は見えないところでものすごくハードな稽古を積み重ねていって横綱になり、そうなってからも自分磨きを怠らずに稽古を重ねているのだと思う。

「横綱の相撲にふさわしくないですね」

という解説を時折耳にする。

それが日本人の美学であり、伝統なのだ。

障害者スポーツにも同様の美学は存在するはず。

勝利は大切。

でも、そこへのアプローチはある意味もっと大切。

幸い僕の美学とコーチ達のそれは重なっている。

多少遠回りかもしれない。

それでも良い。

信念を貫いてやる。



「障害者」「車椅子」として、格好よくプレーし、生きていこうと思う。

いくつになっても学びは終わらない。

謙虚に低姿勢で、でも、威風堂々と胸を張っていられる車椅子でいたい。

可能性と成長速度を考える

2019年10月09日 23時14分00秒 | 日記
出来ることをやり続けて、その幅を広げていくことと、出来ないことにチャレンジし続けて新しいことが出来るようになる。

成長として考えた場合、どちらの方が「成長」としてより良いのか?どちらの方が効率がいいのか?成長速度が速いのか?

ふと考えた。



僕のように障害を有する身体では、現代医学では不可能とされる動きも多々ある。

例えば、自分の脚で立つ、歩く、がそうだし、腹筋背筋という体幹もほぼ機能しないので、背筋を伸ばすことも出来ないし、それにともなう運動も「不可能」と言われる。

でも、一般的には出来ないことでも、実は、もしかしたら出来るかもしれない。

動かせない部分でも、もしかしたら動かせるのかもしれない。

「こういう障害だからこの動きは出来ない」

と、そこでセオリーの物差しで計っていたら、そこで限界を設定することになる。

脊髄損傷の僕には感覚のある部分と無い部分がある。

そこには境界線が存在する。



「その境界線を1mmでも下げられたら、それってすごい成長じゃねぇ?だから、トレーニングするのよ」



と教えてくれたのは車いすマラソン選手の同級生。

限界を設けない。

可能性に挑み続ける。

パラ・アスリートってそういうスタンスで取り組んでるんだな、と、2012年の暮れに学んだ。

だけど、そういう話をすることは僕のその後の競技生活では皆無だった。

だから、僕の思考やスタイルはアウトローなのかもしれないけれど(笑)



可動範囲を少しずつでも広げていけるようにトレーニングをすることは、決して簡単なことではない。

それとは別に、今までやったことの無い新しい動きに挑戦してみることもまた、簡単なことではない。

僕の場合は、体幹が効かないから身体が倒れちゃうとか、バランスをすぐに崩してしまって安定しないだとか、思うように出来ないことが歯がゆいのだけど、それを障害のせいにしてしまっていて、まず初めに、「(障害があるから)あぁダメだ」という挫折感に苛まれる。



でも、ホントにそうなの?

それは障害のせいなの?



と、最近では今まで以上に前向きに考えるようになってきているし、より客観的に考えられているようになってきた。

それはおそらく、自信の裏側に多少なりとも根拠を得たからなのでしょう。



基本的に障害を言い訳にしたくはないので、頑張れば出来る前提で考える(笑)

あるいは、やってるうちに慣れてくる!と、楽観的に考えることも多い。

実際、そうやって今までも色々やってきたし、それが経験則として自分の中に存在している。



ということで、出来ることは継続し、さらに出来るようになるために取り組んでいく。

プラス、新しいことにチャレンジし、それを自分のものに出来るよう努力していく。

どっちが早くて効率が良いのかは分からない。

でも、どちらも必要だと思う。

欲張りな僕は両方を狙い、手放さない。



最近も思い付きで新たなことを試みた。

数年前にやってみた時は「これは無理だ」と思ったこと。

でも、最近ふと「今の自分なら出来る」と変な自信が突如芽生え、チャレンジしてみたら案の定余裕で出来た。



さらにもう一つ、新たなステップを求め始めた自分がいて、そこへもチャレンジすることにした。



その二つは競技の為に日常生活の部分を犠牲にする行為でもある。

現に、その影響は身体面に疲労感として表れている。

でも、そこから得られるメリットを最優先したいし、今までは出来なかったそのことが、今では出来るようになったのだから、そんな自分に喜びを覚えるし、この疲労感もそのうち慣れてくるはず(笑)



車椅子になって間もない頃、無知であるがゆえに同様のことを当然の如く行い、最初は違和感や不安に苛まれたけど、しばらくするとすっかり慣れた経験を持つ。



何事も案外やれば出来るものなのだ。



車の快適さと機能性は相反するもの。

サスやクラッチなどがそうだし、エアコンなどの装備による重量の追加は操作性にも影響を与える。

車椅子にもそれは同じことが当てはまるし、ユーザーにとってその快適さを失うことは生活そのものの快適さに直結する。

でも、それを犠牲にすることで得られるメリットが存在している。

世間から「アスリート」として認められるには、ある程度の快適さは犠牲にして然り。

極端に例えるなら、F1マシンと乗用車の違いと同じ。

そう考えると、僕はまだまだ甘かった。

それに気づけて良かった。

台風一過から、全開でいく。

あらゆる出会いはチャンスなのだ!

2019年10月06日 21時07分52秒 | 日記
人であれものであれ、出会いというのは突然に訪れるもの。

でもそれはきっと、いわゆるチャンスと同じなんだと思う。

自分の元へ転がり込んでくるものではなく、自らが掴みにいくものなのだな。

新しいものや人に出会うことは、自身のアップデートに直結すると考える。

でも、身構えているものにしかそれは掴めないというから、いつ訪れるか分からないその瞬間に常に備えていなければならないし、その状態を維持し続けていなければならない。

そうして掴み得た出会いというチャンスが、更なるチャンスを呼び、その掴んだチャンスから新たなものが生まれ、繋がり、自分をどんどん成長させてくれる。

だけど、チャンスというのは一度掴めばそれで良いというものではなく、それを持ち続けるのはとても大変で難しく、流動的で激しく形を変えるものだから、常に意識し注意して大切にしていないと、それは直ぐに手元をすり抜け何処かへ行ってしまう。

何とどう巡り会い、そこからどう広がっていくのか、繋がっていくのか。

全ては自分次第なんだと思った2019年秋。

チャンスを掴めるかどうか、素晴らしい出会いを得ることができるかどうか、それは自分次第であり、仮に新しいものに出会えたとしても、その貴重なチャンスをどう活かしていけるのかも自分の頑張り次第であり、結果はその向こう側にしか存在しないのだと思う。

まず、一歩を踏み出す。

すると、そこには様々な出会いというチャンスが広がっているのだと考える。

そして、自分が「これは!」と思えるチャンスに出会えたのであれば、そこに労力を惜しんではいけない。



僕にとって今年の夏は夏を感じないままに過ぎ去っていった。

その分だけ、この秋を実りの多いものにしたいし、その先へつなげていきたい。

どれだけの実りを得られるか、それは自分次第。



僕は人に恵まれているし、その幸運なところは両親や爺ちゃん婆ちゃんをはじめとしたご先祖様からの恩恵に他ならないのだけれど、そうして得られたチャンスを自分のものに出来るよう、ご先祖様にちゃんと顔向けが出来るよう、頑張っていかなければならない。

ということで、労を惜しまずに努めていこうと、あらためて決意する。

それが人であれ物であれ、良い出会いは心を豊かにし、自分をさらに一歩前進させ成長させてくれる。

料理人は新たな食材に出会うことでインスピレーションが生まれ新たな一皿を生み出し、それを繰り返すことで料理人としてのスケールを大きくしていくけど、それと同じようなもの。

その完成度は高い技術力に比例するから、出会ったその瞬間直ぐに使えるよう包丁や鍋などの道具の手入れ・管理は欠かせないし、即座にチームで連携して動ける体制維持も大切。

良い出会い、チャンスを得て、それを活かせるよう、準備と努力を惜しまないこと。

すると、毎日がさらに楽しくなる。

僕は本当に恵まれている。

素晴らしい出会い、素晴らしいチャンスを得ている。

あとは自分次第。

少しのズルやサボりも見逃してはくれない。

ラグビー選手を見ていて心底思った。

頑張りはまず見た目に現れる。

さぁ、頑張っていこう!