車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

3歩進んで2歩下がっても、確実に1歩は前進している!

2022年01月26日 21時45分12秒 | 日記
またコロナの感染爆発で試合のスケジュールが無くなっていっている。

僕の中ではそれもコンディショニングの一環として位置付けていただけに、その変更は正直残念。

でも、何となくそんな状況に慣れている自分もいる。

「そうなるかもしれない」と予測もしていたから、「中止になって残念」と思っても、それ以上の感情がないのもまた事実。

ある意味「コロナ慣れ」しているなとあらためて思う。

先週末、土日にそれぞれ開催予定だった大会も、土曜日のものは延期が決定。

それとほぼ同時に2月上旬開催予定の大会も中止の連絡を受けた。

唯一、日曜日に開催の第1回渋谷区長杯は当初予定の有観客を無観客にしての開催となった。

よっしゃ!やってやるぜ!

と意気込んでいたものの、結果はダメダメだった。

初戦で躓いてしまった。

コーチからもボロクソに言われた(笑)

だけど、本番ではないイベント大会だからこそチェックできるものが様々あるし、それこそがコンディショニングでもあるので、結果は悔しいけれど、見方を変えれば良かったとも思っている。

まずは、開催していただいたことに深く感謝で、参加できたことをとても嬉しく、有難く思う。

何がダメだったのか、その反省会は帰路の車中で始まり、翌日にはチームで共有し、修正に向けたトレーニングを即実践。

その迅速な対応をしてもらえることが本当にありがたい。

試合を終えると毎回のように「課題が・・・」なんて言葉を口にする。

今回もそうだった。

けれど、その内容は明らかにこれまでとは質の異なるもので、次のステージに進んでいることが確信出来た。

だから、修正トレーニングも僕の中ではこれまでになく充実しているし、そこでさらに新たな発見、気づきを得られている。

練習だけでは得られないものを得て、それを練習にフィードバックさせるからこその前進。

でもその歩幅は思っているほど大きくはなく、逆にむしろ極僅かなもので、それくらい進んだだけでは全然大したこと無いものだとも思う。

けれど、それを積み重ねていくから「成長」出来るわけで、その成長のラインは右肩上がりではなく階段状に横ばいと上昇を繰り返すものだとも教わった。

それでいい。

この調子で前進し続けていく。



求めるから出会える。得られる。

考え続けるからこそ分かる。気づける。

きっと何でもそうなんだ。

求めたからといってすぐに出会えるものではないし、得られるものでもない。

考えればすぐに答えが分かるものでもない。

求めても求めても出会えなければ得られるものでもない。

でも、それでも求め続けるからこそ巡り合いの瞬間が訪れるものなんだろうし、考え続けるからこそ分かり、気づくことが出来るものなんだと思う。

それってまさに「努力」と同じじゃないか。

努力というのは必ずしも報われるものではなくて、積み重ねても積み重ねても結果を得られないというのは特に珍しくもなく、ある意味普通の話。

でも、チャンピオンになる人は、チャンスをものに出来る人は、まず間違いなく努力を積み重ねた人間だという。

人との出会いだってきっと同じだと思う。

強く求めるからそういう人に出会える。

恋愛も同じことが言えるのかもしれない(笑)

とにかく、全ては自分次第だということ。

棚ぼたなんてない、とは言わないけれど、それをあてにするのは問題外の更に外。

人の力をあてにする気持ちも分からなくはないけど、その前に自分でやるべきことをやってからでなければそれを活かせもしない。

積み重ねるのは自分自身の力であって、誰かに積み重ねてもらうものではない。

筋トレと同じで、自分で頑張らなきゃ付かないし増えない。

いやいや、やってれば自然に付くでしょ、という人もいる。

それは間違いではない。

けれど、自然と付くのを待った時と、付けようと頑張って自分で付けた人とでは、そこに至るまでの時間が全然違うだろうし、当然質も異なるはず。だから、結果的に道は大きく違ったものになっているはず。

若い頃に読んだ漫画のセリフで印象的だったものがある。

学校卒業後に大工になると決めて頑張っている登場人物に、同級生の友人が「俺も大工になろうかな」と言うと、「やめとけ」と一蹴する。

え?なんで?仲の良い友達がそう言ったら「おお!一緒にやろう!」って言うものじゃないの?と思ったのに、全然違っていたから驚いた。

「やめとけ」と言った理由が次のセリフだった。

「「大工でもやろうかな」と思ってやるお前は「大工をやろう!」と思ってやる俺の上には一生立てないぞ、だからやめとけ」

というものだった。

その言葉は今も僕の心に深く刺さっている。

だから、結果的に出来上がるのを待つのではなく、自分で作り上げる、まずその意志、気持ちが大切だと思うのだな。

そして、類は友を呼ぶ、となる。

おべんちゃらを使って仲良くするだけの敬意も情も希薄な関係はどうも苦手なので(笑)、であれば僕は一人でいる方がいい。

一人黙々と海国兵団の版木を掘り続けた林子平を強く尊敬している。

「奇人」と言われた林子平。

でも彼は一人ではなく、離れていても彼に深い敬意を表し厚く信頼する人は多数いて、だから歴史に名を残している。

信念を強く持った人だからこそ、本音をぶつけ合って議論できる熱い仲間が大勢いて、本当に信頼を寄せられる人間関係が構築出来ていたのだと思う。

本音をぶつけ合えるから切磋琢磨できる。

そういう人を求めるから、そういう人に出会える。

僕ごときはレベルも内容も全然違えど、でも僕も本当に良い人達に巡り合えて今がある。

だから、試合が終わってすぐに修正に入れる。

僕は本当に幸せ者だ。

でもそれで終わらせないで、その幸運を活かしてしっかり成長していきたい。

結果へと繋げていきたい。

それもまた、自分次第。

次の本番に向けてしっかり準備する。

確実に前進していく。

言うのは簡単。

結果で証明させなきゃ。

その為には、日々の積み重ね、それが大前提。

しっかり頑張っていこう。

見ている方向へ進んでいけるように、アクセルを開けていこう。

同時に、感染対策にも細心の注意を払いつつ頑張っていこう。

最近は練習中も不織布マスク着用のままで行っている。

はじめてやってみた時は「こんなの無理!」と思ったのに、今はマスク無しでやる方が違和感を覚えたりもする(笑)

まずはきちんとした食事と睡眠だな。

久しぶりに一般(健常者)の大会に出場!

2022年01月08日 20時35分46秒 | 日記
地元で年に2回開催される大会(団体・リーグ戦)に出場してきました。

僕が出るのは3年ぶりくらいかな?

コロナ禍でずっと開催されていなかったですから。

実はこの大会、地元のローカルな大会だけど参加者が実に多くて、毎回1000人を優に超える賑やかな大会なんです。

でもこの状況ですから、主催者の計らいで今回は2日間に分けての開催。

そして時間も長くかからないよう組み合わせ、限られた条件で参加者が大いに楽しめるよう工夫や気遣いがなされていました。



もちろん会場に車椅子は僕だけなので、目立ってやろうという下心が芽生えます(笑)



この大会は団体戦です。

1ダブルス4シングルス。

今回僕のチームは最下位の7部リーグでした。

前回前々回と欠員で棄権していたためだそうです。

僕はシングルスで出場。

久々の健常者との試合、ワクワクもドキドキもしました(笑)

この大会、車椅子ルールは適用されません。

だから、サーブで僕の手の届かないところも最初から狙えます(笑)

1試合目の相手の1本目のサーブがそれでした。

「しまった!」と思いました。

結果を先に言うと、僕は2試合に出場。

2勝0敗、どちらも3-0での勝利でした。

で、話を戻せば、1試合目の最初の相手サーブはノータッチのサービスエース。

嫌な流れでのスタートでした。

でもラリーでは負けないぞという気持ちで挑み、サーブも対健常者プランを考えていたのが功を奏し、終始優位に試合を運ぶことが出来てたと思います。

2試合目の方にもノータッチのサービスエースを奪われ、後半はそれを中心とした展開になったので、そこは頭とトレーニングの成果を発揮するところと奮起し、3セット目は競り合いからリードされるも逆転という気持ちのいい運びで終えることが出来たのでした。



サーブで手の届かないところを狙われる。

僕は全然有りだと思っています。

取れないことは無いんです。

頭を使って工夫をすれば出来るから。

問題はその次の対応。

車椅子に座っているから、フットワークが無いから、健常者の動きとは違っているだけ。

でも見方を変えれば、それ以外は大差はないはず。

平均よりも背が低い、ということと同じだと考えられます。

体幹が効かないとか、身体能力に差はあるけれど、でも使える部分のレベルを上げれば、劣っている部分をリカバーできると僕は思っていますから。

僕が車椅子ということで、最初はみなさん気を遣ってくださる。

でもリードされると負けたくないと思うから、なんとか点を取りたくて、手の届かないところを狙ってくる。

いいじゃないですか。

本気になってもらったということですから。

僕の土俵で戦ってもらうのではなく、相手の土俵で戦う。

それで勝つ、最高(笑)

負けたとしても競った濃い内容であれば、お互いに心身ともに清々しい思い出にも出来る。

それこそがスポーツの醍醐味のはずです。

それを障害の有無を問わず誰もが一緒に楽しむ、それこそが共生社会、ノーマライゼーションですから。



かっこよく決まったな(笑)



今回のリーグではチームとして全勝で優勝となったので、次回はひとつ上のリーグに上がります。

レベルが上がるということです。

これまで以上に対策もされるでしょう。

もっともっと勝ち続けられるようにしっかり磨いていきたいと思います。



そして、今日は久々にチームメイトの皆さんの試合をじっくり見ることが出来ました。

それがまた実に良い勉強になりました。

短い時間とは言え、収穫の多い一日でした。

今日得たことを明日からの練習に加味し、頑張っていきます。

今月はパラ卓球の2つのイベント大会への出場が決まっているので、そこへ向けてのコンディショニングを行いつつ、自分磨きを続けていきます。

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渋谷区長杯第1回渋谷区パラ卓球大会
渋谷区長杯大会・区民大会 | 渋谷区公式サイト



新年早々の試合、良い感じで終えることが出来ました。

トライしていたコンディショニングにも手ごたえを得られたし、ごくごくわずかながらのアップデートを繰り返していくことが大切なんだと実感出来ました。

前回出場した時とは明らかに違う自分を感じられたので、それが一番の成果だと思っています。

何が違うのか?

それは内緒です(笑)

いや、僕が勝手にそう思っているだけで、はたから見れば全然変わらないと言われるかもしれないけれど、僕の中では変わったというか、変えたことによる手ごたえを得られた、そんな実感があるので、細やかであってもこれは間違いなく成功体験だと思っています。



では、この調子で頑張っていきます。

健常者の卓球と車椅子の僕のクラスの卓球とでは全然の更にもう一段違う感じですが、卓球であることに変わりはない。

同じ卓球愛好者として、「おお!いいねぇ!」と思ってもらえるようなプレーをしたいし、選手になりたいと思っています。



スポーツにおける共生社会。

スポーツだからこそ実現できる共生社会。

スポーツの方がもしかしたらそのゴールはより近いものかもしれないし、それを実現することで社会のそれの目処が立つ、ガイドラインを築くことが出来るのかもしれませんね。

僕はただ卓球を、スポーツを楽しむ。

みなさんと一緒にそれぞれが楽しむ。

そこにスポーツを通したコミュニティ、社会が形成される。

結果的にそれが「共生社会」になるのかもしれない。

「結果」は「行動」に伴うわけだから、明確にされないままの結果を追い求める行動では、なんとかたどり着いたとしても、その結果もまたあやふやなものなのかも知れない。

でも行動が楽しく充実したものであれば、結果は必然的に楽しく充実したものになるはず。

途中でアクシデントやトラブルは生じるだろうけど、そこは軌道修正、マイナーチェンジというアップデートを施すことで、楽しさを維持させることは出来るはず。

みんなが楽しく行動する。

でもそこには陰で支える人たちが少なからず存在する。

意外とそれを知らないまま楽しんでいる人が大多数を占める。

でもそれでいい。

陰で支える人たちは自分たちの存在を、努力を、知ってもらいたくてやっている訳じゃなく、ただただみんなに楽しんでもらいたい、そういった想いで支えているのだから。

だから、その人たちにとっての最高の報酬は「楽しかった」という声とその人たちの笑顔だと思う。

僕はサービスという仕事でそれを学んだ(笑)

そうか、「共生社会」に大切なのはサービスの精神なんだ!(笑)



めちゃくちゃなこじつけ(笑)



話がかなり逸れたけど、健常者との試合、楽しかったのでした(笑)

明日もまた練習。

良い練習が出来るように、今から準備。

実は料理人ではありません(笑)

2022年01月06日 21時45分41秒 | 日記
「卓球王国読みましたよ!」という声をあちこちでいただく。

知らなかったこともいろいろ知れて良かった、良い記事だったと好評いただいてます。

すごく嬉しいことだけど、こっ恥ずかしいので「盛ってますからw」なんて言い返していますが(笑)



ただ、誤解のないようにこの場でひとつ言わせていただくと、タイトルのとおりそもそも僕は料理人ではありません。

「飲食業でフランス料理に従事していました」というと、「シェフだったんですね」と毎回のように言われます。

だからその都度「いえ、サービスの方です」と言っています。

言われる前に「調理ではなくサービスの方です」と言うことも少なくありません。

でも、偉大なシェフと、優秀な料理人達と同じ現場に立ち、彼らの仕事ぶりを目の当たりにし、それをお客様にお伝えするのが僕の仕事でもあったので料理そのものが大好きですし勉強もしてきました。また、食材や調理技術だけでなく歴史に紐づく食文化にも特に強い関心を抱いています。

だから、今までに積み重ねてきた知識を活用してプライベートで今も料理を楽しんでいます。

パラ卓球活動を行っている僕にはそんな一面があります。

ということで、今回はそんな僕の飲食時代の経緯を語りましょう(笑)



僕が飲食業に初めて関わったのは高校3年生の時です。

推薦入試で大学進学が決まったのが12月。

それで、翌1月からの3か月間、人生初のアルバイトをしたのが小さなうどん屋さんでした。

ごく短い期間でしたけど、ものすごく濃い時間を過ごせたし、めちゃくちゃ良い勉強(社会勉強)をさせてもらえました。

当時、店長やそのお母さんから教えてもらったことははっきり覚えていて、僕の人生の教訓として今も活用しています。

僕が進んだ大学は文学部史学科で、選考は考古学でした。

当時の僕は大学で学芸員の資格を取って卒業後は歴史資料館で働きたい、という目標を持っていました。だから同期はみんな自治体の専門職や教育機関で頑張っています。

けれど、いざその授業を受けていくと僕の中で「これは僕が一生楽しめる仕事ではない」と思い、別の道を模索し始めます。

その時はいろいろなアルバイトをして様々な道を模索しました。

そうした中で出会ったのがホテルでのサービスの仕事。

当時は大学の先輩に「時給のいい仕事があるぞ」と勧められたのですが、これが実に楽しかったのでした。

それからはその仕事に打ち込み、ホテルマンとしての知識や技術を学んでいくのですが、次第に意識はワインやフランス料理に向かっていきました。

そこにも深いエピソードがあるのですが、その話がまた長くなるので端折ります(笑)

大学で学ぶ道を人生の道とせず、これから進む道をどれにするか、「一生楽しんでいける仕事」を基準に考えていたのですが、学生ながら様々な経験をし、色々な人に出会い、見て、聞いて、「これだ」と思い至ったのがホテル・飲食業のサービスです。そこには高校時代のうどん屋さんでの経験が背中を押した感もあります。

そして卒業後の進路をフランス料理のサービス(ソムリエを含む)と見定め、地元で最も勉強できる環境としてフランスをはじめとするヨーロッパでの長期修行経験のあるシェフの元でお世話になり、そのシェフの紹介で福岡や東京の有名店へ勉強に出させていただくなどもし、2年後にさらなる修行先として上京する決断をしました。

東京のレストランにはもちろんサービスとして就職したのですが、当時レストランのサービスというのは料理人を目指す若手の最初のステップというケースが大半だったので、サービスマンとして働きたいというのは意外と少なく、そうしたことから僕はいきなりマネージャーを任されました。

とはいえ、田舎から出てきた身で経験も浅い僕が優秀な料理人を育てる専門学校(フランス校も少なくない)で勉強してきた連中の中に飛び込んだ訳ですから、彼らとの差は明らかで、それに危機感を抱きつつ、またそんな彼らに認めてもらいたいという思いで必死になって頑張ってました。

そして様々な仲間たちに出会い、刺激を受け、彼らがフランスへ旅立つのを見送り、いつかは自分もと思い、また彼らの帰国を出迎え、その度に大きな刺激を受け、学び、更にサービスの現場では毎日様々な人(お客様)に出会い、そのドラマに触れ、人として実に多くのことを学びました。

これらの「学び」が今の僕を形作る礎であり財産となっています。



都内のお店をレストラン、ビストロ、カフェ(的レストラン)、そしてブラッスリーと渡り歩き、中にはスタッフ入れ替えのリニューアルを任されたり、新規オープンの店舗を内装レイアウトも含め任されたりもしました。

そして事故に遭います。

リハビリを含め入院期間は約7か月。

その間も気持ちは常に現場に向いていました。

僕は事故直後3週間の記憶がないのですが、その時は寝言でフランス語を言ってたり、「〇番テーブルのお客様が・・・」なんて寝言も言ってたそうです(笑)

リハビリの期間中はシェフをはじめ現場のスタッフが入れ替わりに見舞いに来てくれたのですが、それは半ば現場の愚痴を聞くような時間(笑)

でもその問題解決の為に自分に何が出来るかを試行錯誤し、思いつく限り様々なことを文字越こしし、その量はWordで100ページを優に超えます。読む方は大変(笑)

そして現場に復帰。

車椅子の身体で現場復帰できたことはものすごく嬉しかったし、それを受け入れてくれた会社も現場もものすごくありがたかったです。この会社・お店じゃなきゃこうはいかなかったとも思いました。

でも、現場で以前と同じように動けない現実は僕にとてつもないストレスを与えたし、また「普通」であったことが普通ではなくなり思うようにコントロールできない自分の身体も大きなストレスを与えて、それが毎日どんどん積もっていくので、最終的には現場スタッフだけでなく経営においても僕の存在が足を引っ張っている、僕の人件費をもっと有効活用出来るじゃないか、僕の存在が会社としてマイナスになっている、と考えるようになり、やがて「この身体で飲食の現場に立つのは現実的じゃない」と思うようになり、ついにはその仕事を辞める決断をするに至りました。

今思えば、あの時は僕の人生で最も、ある意味人生で唯一の、ブラックなネガティブ思考に陥っていたと思います。

上司からも「心療内科にいってみてはどうか」と言われましたが、僕はそれを否定。

そのことを当時のかかりつけのドクターに話したところ、「私はその専門医ではありませんが、渡邊さんに限ってそれはないと思いますよ」と言っていただきました。

でも今思えば、それは僕の外面の良さがそう言わせていただけで(笑)、深層心理では間違いなく闇に落ちていたと思います。

でも、そんな状態から脱出できたのはまさにパラ卓球のお陰。

いや、正確にはパラスポーツのお陰です。

それまでは障害を負ったことにより四方を壁に囲まれたような感覚に陥り、その先の人生をどう生きていけばいいのか、全く上を向けなかったのが、スポーツに取り組むことで目標が出来、その結果「まだまだ自分には伸びしろがあるじゃないか!」と自覚、確信し、自然と上を向いて頑張っていくようになれたこと、するとすぐに忘れていた本来の感覚に戻っていた自分に気づいたのでした。

中学の同級生のパラリンピアンが僕に教えてくれた言葉。

「健常者はスポーツをやった方が良い。障害者はスポーツをやらなければならない。」

その言葉の意味を身をもって知ることが出来たし、それをより広く伝えていくことが僕の使命とも思えました。

さらには、こんな経験を持つ僕だからこそそれを伝える言葉により熱が加わるのだろうし、その言葉により説得力と信憑性を持たせるためには僕に結果が必要なのだとも思っています。



飲食時代のエピソードは語り切れないくらいにたくさんあります。

僕はその仕事が本当に大好きで、それは過酷で今でいえばブラックな職業であったと思います(笑)

でも好きだからこそ夢中になって頑張ってたし楽しんでましたから、一生続けていくつもりでもいました。

仕事に取り組むそんな姿勢も評価されてか、実は専門誌の取材を受け、その記事が掲載されたなんてことも複数回あります。

車椅子になってからは動けない分自分のサービスに対する考えと行動を忘れない為に、具体的なテクニックやサービス理論みたいなことをブログで書いたりもしていました。

また、過去の仕事を知る仲間からの依頼で、都内のレストランやホテルのレストランのサービスの指導を行ったこともあります。

それくらい、僕はサービスという接客の仕事が大好きでした。



では最後に、飲食時代の僕の仕事っぷりが分かりやすいエピソードをお聞かせしましょう。

飲食業時代の経験として、「本日のおすすめ」をお客様にどう勧めるか?これはひとつの大きな課題でした。

でも今だから正直に言うと、僕はシェフの指示に反してスタッフには別の指示をしていました。

もう時効ということでカミングアウト(笑)

シェフには勧めて欲しい食材・料理がいつもあります。

だからそれを事前ミーティングで打ち合わせします。

そして「今日のおすすめはこれ」となります。

けれど、僕はスタッフにこっそり小声で「必ずしもそれを勧めなくていいから。その時自分が食べたい、あるいはそのお客様に食べて欲しいと思ったものを勧めなよ」と言っていました(笑)

だって、「自分が食べたいものを説明する」方がよっぽど説得力があると考えるから。

「台詞」ではなく「本音」の会話になるんです。だから、言葉に「熱」があり、それは伝導すると考えます。

そしてその瞬間のコミュニケーションは人間同士のリアルなものになるので、双方にとってより濃く楽しい、思い出の時間になるはずです。

すると、マクロでみればそうした要因が店舗の売り上げ増加や顧客獲得につながると考えます。

で、シェフの勧めたいものは口の達者な?僕を含め、チーム全体でフォローし合って勧めればいい、なんて考えていました。

また、いわゆる商品の価格設定、原価率の設定の仕方も僕には独特の考え方があり、それで上司と衝突したことも度々ありました(笑)

「手間を惜しむな」という言葉が僕は好きですが、そうしたことにおいてもシェフをはじめキッチンのスタッフと意見が食い違うことも少なくは無かったので、それをいかにお客様と厨房にとってWin Win になるか、その為に自分がどう立ち回るか、その都度その都度落としどころを探り、自分は前面に出ない、あくまでも黒子に徹し、二つの歯車の間に流れる潤滑油として動く、それが僕のポリシーです。

こんな感じで仕事を楽しんでいたのが僕の飲食時代でした。

多分、サービスについて、あるいは飲食業についてを語ると、僕は卓球についてを語るよりもきっと何倍も持論を展開する自信があります(笑)

それだけ懸命に取り組んできたからです。

今、そのベクトルはパラ卓球に向けています。

それは偶然の出会いによるものですが、障害を負ったからこそ必然のものであるとも思いますし、だからこそ、そこに向かうエネルギーは日を追うごとに増していて、まさか自分がそんな風に出来るとは思ってもいなかったし、でも「やれば出来る!」という自分の持つ可能性を実感できたのもまた事実で、まだまだ、まだまだ僕には可能性がたくさんあるんだと、この先の未来の自分を楽しみに思っています。

2022年の年始のブログが思いのほか熱く長くなってしまったのは、飲食ネタが絡んだからでしょう(笑)

最後まで読んでいただきありがとうございました。

さぁ新しい一年、今年は飛躍の年とすべく、しっかり精進してまいります。

ちなみに、今年の漢字一文字も僕の中で決めました。

それは・・・内緒です(笑)

気になる方は直接聞いてください(笑)

では、この一年が皆さんにとっても素晴らしい一年であることを切に願いますし、僕にとっても素晴らしい一年であるように頑張っていきます!