車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

2019年、秋のドラマ。

2019年09月30日 00時17分12秒 | 日記
第40回 東京障害者卓球選手権に出場してきました。

と、言いたいところですが、なんと今回は僕も初めてのアクシンデントに見舞われました。

「エントリーされていない」

ということが、当日の試合会場受付で発覚。

主催者トップに確認するも、「それは出られないわ」と一蹴。

2019年秋のドラマです。



今回の申し込みは、主催者トップ(僕が所属する連盟代表)に直接電話をして、今回の大会を含むい2つの大会のエントリー期限の確認を行った際、その電話で申し込みが可能ということでお願いしていたのですが、このような残念な結果に。

ということは!?と、もう1つの大会も不安になり、その大会の運営の方が会場にいらしていたので確認すると、そちらは大丈夫だったのでホッとしました。

今回の大会は「紙に書いて提出していないから」ということ。

なるほど。自分でちゃんとやる。今後は徹底して気をつけようと思います。

情報のスマートさ、風通しの良さというのは本当に大切ですね。
電話、メールだけでなく、現在はインターネットを利用した様々なツールもあり、それらを駆使した情報のやり取り、コミュニケーションが可能故、その手段そのものが多岐に渡りますから、それを確認した上でのコミュの取り方、人付き合いもあらためて考えさせられました。

ただ、意外だったのが今回の大会、エントリー漏れは僕一人ではなかったということ。

今回の会場は東京障害者総合スポーツセンターでしたが、僕の他にもそう言って施設を利用していた方がいたそうです。

今回は受付でエントリーされていないことが判明したわけですが、残念だったのはその救済措置がなかったこと。

いや、救済措置は様々な事情もあるでしょうから、難しい点もあるでしょうし、それを求めていたわけではありません。

特別な計らいをするということはものすごい決断力を要しますし(反対意見もあるでしょうから)、イレギュラーへの対応を決定し、セオリーでない行動を起こすことも大変なことだと思います。

でも、何らかの救済の為の行動を取るとか協議をするとか、そういうフォローの為のアクションが無かったこと(例えポーズだけでもそれがあれば印象はかなり変わると思います)、それがすごく残念です。

申し込みをしていても、当日欠席で棄権となった選手があるにもかかわらず。

もう一人の方がどのような心情だったことか・・・

その辺りは大会によって対応が異なりますが、いざ当事者となると、僕が出られた出られなかったというよりも、正直その対応に不信感を覚えました。

エントリー料を含む申し込みに対して、「受け付けました」という確認がないのも大会あるあるな点ですが、そうした点に対する不満の声も聞こえたりします。

「選手ファースト」といってもその考え方は人それぞれでしょうから、主催者の異なるそれぞれの大会によって色が異なるのもまた然り。

自分の価値観を押し付けるのではなく、まずは大会が開催されるだけでも有難いと思うべきなのでしょうか。

まずは、自分の過失がないように滞りなく物事勧めていく。

情報収集も行っていく。

自分一人で出来なければ、有償無償問わず誰かの手を借りて行う。

チームという組織ではなく個人で動くということは、全てを自分の手でやるということでもありますから、それは覚悟のうえで活動していく。

考えて、甘えずに、ですね。

結局、今回は大会の観戦がてら、施設スタッフの女子大生と少しの時間卓球を楽しみ、あとはルーティンメニューのトレーニングを行ったのでした。



コーチ陣ともいろいろ考えながら取り組んでいるので、今回の試合に出られなかったことで確認すべきことが出来なかったことはすごく残念ですが、まぁ、プレー以外の部分を含め良い勉強が出来たと思っています。

これはあくまでも自分の不注意、不手際が招いた結果。

同じ轍を踏まない為にも、今後の自分自身の在り方、立ち位置をあらためて考えていこうと思いますし、これから続いていく若い世代の為にも、自身のトレーニングの合間に、どうあるべきか、何をどうすべきかも考えて、より高く広く、俯瞰でも捉えていようと思います。

明日はコーチとみっちり練習。

最近はより良い練習が出来ているので、その成果を結果としてお披露目できるように、まずは自分に厳しく、日本ラグビーチームに倣って、しっかりと頑張っていきます。

シスコ デジタル・スクール・ネットワーク

2019年09月25日 20時37分09秒 | 日記
表題の企画をシスコで行っているのですが、これは離島を含む全国各地の学校を、ネットとシスコのツールを使って結び、学校という教育の現場と、そこに通う生徒さんたちの可能性をもっともっと伸ばしていこう!というような、そんな企画です。

様々な理由から授業の時間ではまだそのシステムを活用できないので、放課後の時間に、毎回テーマを決めた課外授業的な感じで行われるものです。

通常の学校の授業では行わないようなテーマの講義であったり、ある時は塾のような感覚での勉強の時間だったりと、学校教育における地域格差を無くす為の取り組みでもあるわけですけど、ある意味これを行っている学校の方がむしろ最先端を突っ走ってて、そういうシステムを上手く使いこなせる「人材」がこれからの社会で活躍するんじゃないかなぁと思えたり、やはりこういうものがこれからの教育の現場には必要不可欠なんだろうなと、また一つ、ジェネレーションギャップを目の当たりにしました(笑)



今回は離島を含む全国4つの高校と、六本木のシスコオフィスの計5か所をCISCO Webex Teams でつなぎ、僕がパラ・アスリートとして、また、一人のチェア・ウォーカーとして講演をし、随時質問を受け、それに答えていくという流れでした。

各地のホワイトボードサイズのCisco Webex Board には常時中継先の4か所が映し出されていて、その画面を通してコミュニケーションを取っていくというもので、タイムラグもなく、また音声も4か所同時に聞こえるので、全員が同じ場所にいるというごく自然な感覚で、社内では普通に使っているツールではありますが、社外の、それも各地の高校生と、さらには自分が中心となってのコミュニケーション、これにはものすごく新鮮な感覚、いや、感動を覚えました。

小学校や中学校での講演も度々行ってはきましたが、高校生はまた質問の内容が違っていて、だからこそ、また違った「話し甲斐」があり、僕自身物凄く楽しい時間だったのです。



いけね、前置きが長くなっちゃった(笑)



でも、ここで取り上げたいのはその内容ではありません。

実はこの講義の冒頭で、僕の去年の海外での試合のダイジェスト動画をみんなに見てもらいました。

生徒さん達の大半は運動部員。

中には卓球部の人もいました。

その中の誰のコメントかは分かりませんが(4か所すべての音声が普通に聞こえるので)、「なるほど、そういうプレーなんだ」といった声が聞こえました。

そしてその直後、「だったら、こうやってこうすれば・・・あぁ、でもそれはフェアプレーの精神に反するか」とも言ってました。

僕にはその言葉が凄く心に残ったのです。



「フェアプレーの精神」



車椅子というプレーヤーだからこそ、弱点は明確です。

絶対的に手の届かないエリアの存在。

だから、どんなボールであってもそこを狙えば点を取ることが出来る。

あるいは、得点をする可能性が極めて高くなる。

だからそこを狙えばいい。

でもそれはフェアプレーなのかい?

そのプレーに人は魅了されるのかい?

そのプレーは支持者を獲得できるものなのかい?



「フェアプレーの精神に反するか」という言葉が、彼らの口からこぼれたのを耳に出来たことが僕にとってこの講演の最大の収穫でしたし、そういう感覚を持つ生徒さんとその場を共有できたことが本当に嬉しかったのです。

だから、それからの講演の時間に熱が入り過ぎたのかもいしれない(笑)

もっともっと語りたかったもんなぁ(笑)



スポーツ活動。

それをビジネスとして行う場合、正直、それを僕はショー・ビジネスだと思っています。

エンターテイメントと同じです。

勝利という結果がもちろん最重要課題。

でも、勝てば良いというものではなく、正々堂々とした試合内容、潔い精神、品行方正さ、また試合当日だけでなく日常のトレーニングから衣食住に至るまでの全てが応援の対象であり、どんな瞬間でも人に見られて「おお!さすがだな!」と思ってもらえる存在でなければならないと思います。

それはスポーツ選手に限ったものではなく、全ての職業に当てはまることで、例えば、一流のホテルマンはオフの時間でも、身だしなみも所作も美しくしていなければどこで誰に見られているか分かりませんし、仕事の時だけきちんとすれば・・・なんていう人は気づかないうちに簡単にボロを出す。
そんなホテルマンに顧客はつきません。



スポーツ選手の場合は、顧客ではなくサポーターとなりますが、それを獲得できるかどうかは結果だけでなくその姿勢。生き様。

日本人であるがゆえに、求められるそれは結果をしのぐものではないかとも思います。

1点を取るために、勝つためにどうプレーするのか。

貪欲に、がむしゃらに、1点をもぎ取っていく姿勢というのは大切ですが、「泥臭い」という言葉をはき違えないようにしなければならないとも思います。

つい先日、インターハイでも優勝経験を持ち、全日本選手権でもランキング入りされていた経歴を持つ方に指導いただいていた際、経験から生まれる実に貴重なお話を伺いました。

その時、「あぁそういうことか」と理解できたことの一つが「泥臭い」でした。

その瞬間、日本人で世界選手権を制した方々が頭をよぎりましたが、そういう方々は人を魅了してきた。

そしてそこには「泥臭さ」があった。

昭和のスポーツ選手にはみな「泥臭さ」があった。

そこに人は魅了された。

じゃぁその「昭和の泥臭さ」はどこから生まれるのか?

何をもって定義となすのか?

僕の中で初めて理解できた瞬間でした。



記録競技であれば、大会当日、がむしゃらにひとり向かっていくその姿には泥臭さよりもむしろ神々しさや気高さを感じるものです。

でも、対人競技は相手から奪ってなんぼになりますから、そこにその選手の人柄がより表立ってにじみ出てくるものなのかもしれません。

ルールは守らなければペナルティを課されるけれど、マナーは守らなくても注意で済まされる。



フェアプレーの精神がまさにそれでしょう。



新渡戸稲造が武士道を説きました。

渋沢栄一が論語と算盤を説きました。

日本には「道」という考え方があります。

僕はその国に生まれた日本人です。

今を生きるこの社会で応援してくれる方に対しても、目には見えないけどもしかしたらすぐそばで応援してくれている爺ちゃん婆ちゃんやご先祖様に対しても、恥ずかしくないプレーをすること。

多分、僕の爺ちゃんは「お前、今のはせこいっちゃないとか」とツッコミを入れてくれるはずです(笑)



フェアプレーの精神。

高校生の口からから聞こえたその言葉。

僕の背中を強く推してくれる一言でした。

そして翌日の練習では、20代の練習パートナーともその話になりました。

「技として必要かもしれないけど、そればっかりやるのは・・・」

ですよね。



ショー・ビジネスであるまえに、まずスポーツマンとして、肯定してもらえるプレーと活動を心がけます。

時々深夜にラーメンとか、欲に負けることもあるかもしれない(笑)

でも、それは自分に返ってくること。

努力は必ずしも結果を生むものではないけれど、自分を裏切るものではない。

コーチやトレーナーもどんどん新たな課題を与えてくれる。

あとは自分次第。

今回のデジタル・スクール・ネットワークで、僕は実に良い勉強が出来ましたし、多くを得ることが出来ました。

そして、CISCO ってすごいなぁとあらためて思いました(笑)

今回コミュニケーションを取った彼らが自慢出来るような選手でいようと、自分を律していかなきゃと強く思います。

その為に何をする?

まずは課題の克服だな。

頑張ります!

器用貧乏

2019年09月20日 23時20分30秒 | 日記
健常者の頃に卓球経験のある選手が車椅子でプレーすると、その経験が逆にマイナスに働く。

俗にいう「器用貧乏」な状態になるという。

確かに、その考えは理解できる。

なまじ知識や経験があるが故に、当時とは違う身体能力(と表現しておく)にもかかわらず、当時と同じことをしようとし、それが結果的にミスをより多く生み、失点となり試合で負けるというのだ。

あるいは、健常者的発想が車椅子利用者という現実とギャップがあり、それがミスを生じさせるというもの。

健常者のような格好の良いフォームで打つ、格好の良いプレーをする、それを前提として考えると、そこにはやはり現実とのギャップがあり、それがミスを生じさせ、結果的に負けを呼ぶというのだ。

格好よく打てても、1本決まっただけだと、試合で勝つなんて到底無理。



だから、健常者の経験は無い方が良いのかもしれない。

そんな意見さえあるというのだ。



間違っているとは言わない。

でも、僕はその考えを採用しない。



器用貧乏?

それを通り越したレベルに達すれば、誰もそんなことは言わないはず。

杭は中途半端に出すとダメだけど、利用できるくらいに出し過ぎればそれでいい。

そういうレベルにまで高めればいいだけの話。

どんなことだって経験は財産だと思っている。

それを無駄にはしたくないし、無下に扱いたくもない。

もうずいぶん前だけど、車椅子バスケット、車椅子ラグビー、パラ水泳のそれぞれのコーチのみなさんも口をそろえて言ってた。

「それは財産であり、アドバンテージですよ」

と。



ということで、自分をしっかり磨いていこうとあらためて思う。

最近は新しいことへもチャレンジし、思いのほか良い手ごたえをつかめたりもしている。

それは間違いなく健常者の経験があればこそだと思っているし、積み重なったものの恩恵でもあると考える。

そして健常者時代の経験が、プレーだけでなくトレーニングやモチベーションなどなど、全方位で僕を押してくれることを実感する。



僕を評価するのは僕以外の人。

僕以外の人に、経験は財産だと思わせなければいけない。

でなければ、それはただの自己満足で終わる。

それがどうなるのか、自分の努力次第なのだな。



ということで、明日も充実した一日を過ごそうと思う。

大阪遠征

2019年09月17日 21時37分22秒 | 日記
敬老の日を含む3連休に、大阪は堺市で開催された卓球大会へ行ってきました。

この大会は今回で17回目の、健常者も障害者も、またジュニア世代も、みんなが一緒にやる団体戦です。

まず、毎回恒例だそうですが、開会式の際にシングルスとダブルスの「車椅子ルール」を、デモンストレーションを合わせて、参加者全員が分かりやすいように説明してくれます。

大会当日にそこまでの説明って、意外と無くて、僕も初めての経験でしたからすごく嬉しかったですし、そういう時間を割いて参加者へ説明をされる主催者の心意気というか優しさというか、深い意味での「バリアフリー」を目の当たりにした思いでした。

ですので、健常者のレベルもかなり高いその会場には車椅子を含め様々な障害を有する選手も大勢参加していて、顔見知りも複数いたりするほどの盛況ぶりなのでした。



1ダブルス2シングルスという団体戦で、3~4人で1チーム。

ダブルスに出た選手がシングルスも兼ねる場合は、最後のシングルスにしか出られないという分かりやすいルール。

予選を3チームで戦い順位を決め、1,2,3位それぞれの決勝トーナメントに進むというもの。



僕は車椅子3人で構成するチーム。

メンバーは国際大会でもともに戦った選手も一緒なので、それで健常者(がほとんど)や立位の選手とどれくらい戦えるのか、もう楽しみで仕方ありませんでした。



予選は地元中学生チームに勝ち、立位の選手を有する健常者チームに負けての2位通過。

そしてトーナメント1回戦。

「あの人たちはめちゃくちゃ強いよ」という情報を得てはいましたが、健常者3人の見るからにベテランプレーヤー。

そこで僕たちは負けましたが、結果的にはそのチームがトーナメント優勝。それにはちょっと救われた感があります(笑)

でも、僕らはそのチームにストレートではなく1-2で負けたのです。

チームメイトがシングルスでフルセットの大接戦の末に勝利を挙げ、僕の、相手エースとのシングルス戦では1セットを奪うことが出来、我ながら充実した試合内容。

上手い健常者と遠慮なく試合できるのは本当に楽しいのです。



今回の大阪遠征、試合前日は大阪チームの練習に参加し、朝から暗くなるまでみっちり練習。

そして翌日は気持ちよく試合という流れでした。

僕は自らの課題をもって大阪入りし、練習の時点からそれを確認しながらボールを打っていました。

自己分析を繰り返しながらの練習と試合。

熱くなりがちのプレーは別として(笑)、今までよりも冷静に自己分析できている点に自信が持てたことと、その結果より多くの情報収集が出来たこと、でも、そんな自分を確認できたことが一番の収穫だったように思えています。



だから、帰ったらどういうメニューの練習をするかなどなど、帰りの道すがらいろいろ考えていて、今回の遠征がそれだけ充実したものだったのだとあらためて思えました。

なによりもまず、今回の試合に誘ってくれたみなさんが良くしてくださることと、そして、その卓球に対する思いがとても誠実であるということ。

さらに、会場の皆さんの卓球熱がすごく熱くて、その場を共にできることにとても幸せを感じたこと。

また、上手い健常者を相手に戦う団体戦、チームメイトの試合を含め、勝利の為に頭をフル回転させることがとても充実したものであったこと。

さらには、レベルの高い試合が本当に素晴らしいもので、尊敬する選手のプレーを目の当たりにし、何か財産を得たような思いになれたこと。

そういったことが積み重なって、とても充実した遠征となったのでした。



帰宅翌日から早速活動。

それくらい興奮しているということでしょう。

プレーだけでなく様々な点においても良い勉強が出来た今回の大阪遠征。

帰りはずっと行きたかった歴史記念館にも立ち寄ることが出来、職員の方と思わずディープな長話。

それもまた今回の遠征を盛り上げてくれた一因です。



みんな上手くなるために、成長し続けるために頑張っている。

それに負けないようにするためには、自分がそれ以上に頑張らなきゃいけない。

どれくらい頑張ればいいのか、その明確な答えはない。

でも、頑張り続けなければ、求めるものは得られない。

しっかりと、頑張っていきます。

「あの人、前より上手くなってるね」

そういってもらえるように、頑張り続けます。

根性論

2019年09月10日 18時39分45秒 | 日記
僕は本当に人に恵まれていると思う。

すごく良い方々に出会えて、必要な時に、それぞれの方からその時々に僕に必要な意見を与えていただいたり、話を聞かせていただける。

僕には尊敬する方々が卓球関係だけでも大勢いるけど、元オリンピック代表選手や元日本代表選手に元世界選手権チャンピオン、国内でも全日本選手権でランク入りされていた方々などなど、そういった物凄い方々から直接でも間接的にでも、リアルなお話を聞かせていただけるから、僕は本当に幸せだと思う。



つい先日も、僕にとっての特別コーチから直接指導をいただく時間を得た。

いろいろな話も聞かせていただいた。

そのコーチは高校生の頃、「インターハイでは優勝することが目標じゃなくてノルマだったんだよね。だから、直前の合宿はそれに向けたメニューだから、あれは本当に辛かったよ」

その具体的な内容と、なぜそういう内容なのかその理由も聞かせていただいた。

その話をホームのコーチにすると、「昔はそうだったよね、私もそうだったよ」と聞かせてもらった。

毎日積み重ねるものがそういう時代だったのだ。



そして特別コーチからは練習の最後に言葉をいただいた。



「頑張らなくても良いから結果を出してくれ。それだけでいい。」



「頑張り過ぎて本番でダメな奴っていっぱいいるのよ。頑張ることと結果を出すことって全然別だからね」



このことは今までも度々言われてきたこと。

でも今回は今までにないくらいに深く刺さった。



多分、考え方は十人十色で様々な形、方向性があると思う。

どれが正しくてどれが間違っているとは一概に言えるものではない。

言葉も同じ。

本人の感覚を言葉で表現する際、その表現にどの単語を当てはめるかも人それぞれ。

同じ感覚でも表現方法は人によって異なるものだから、それが別のものなのか同じ感覚なのか、それをどう判断するかはその人次第。

自分の尺度だけでその言葉を受け止めると、間違った解釈をし兼ねない。

消化吸収をするのは自分。

自分で噛んで飲み込むことが大切。

時には食べやすいように調理もしなきゃいけない。

赤ちゃんのように咀嚼をしてもらわなきゃいけないようだと、大人として対等には接してもらえない。

だからこそ、要は自分次第なのだ。



僕が指導を受ける世代は、僕よりも年上の方ばかり。

だから、いわゆる「根性論」ど真ん中の世代なのだ。

現代のスポーツ科学はどんどん進化していて、一昔前の常識は非常識とされることも多々ある。

僕だって部活をやっていたころは「勝手に水を飲むな!」と叱られたものだ。

今じゃ考えられない。

練習前に数キロ走って、それから練習。

それを毎日繰り返す。

僕なんかはまだまだ甘っちょろいもので、本当に強い学校はそんなレベルじゃない。

そういう話を経験者から聞かせていただいてきたし、学校だけでなく昭和の時代の実業団やナショナルチームの様子も聞かせていただいてきた。



改めて思う。

「根性」という要素は必要不可欠。

スポーツ科学がどれだけ進化しても、栄養学や睡眠学、メンタル面などがどれだけ解明され進化していっても、人と争う競技において底辺をなすのはやっぱり「根性」のように思う。

僕に指導くださる世代を指導した更に上の世代というのは、今で言えばそれこそ超根性論世代で、その方々がどれくらい凄かったのか、なぜに凄かったのかを知れば、自ずと根性の必要性が見えてくる。

ただし、注意すべきは「根性」という基準が令和・平成と昭和、あるいはそれ以前では思いのほか大きく異なるということ。

なにもスポーツに限ったことではなく、歴史を学べば自ずと見えるものでもある。

昭和初期から明治・大正、江戸時代からそれ以前など、おそらくは根性という水準は現代とは桁違いなはず。

これは生活環境の変化によるもので、時代によって常識は異なるから、根性の基準も当然違って当然。



上の世代はその良しあしを理解しているから、自分たち世代のそのやり方を必ずしも強要はしない。

時代に合わせた工夫を凝らし、指導してくれる。

でも、きっと心の中にはどこか自分を抑えた感情があって、もっと厳しくやった方が効率的だと思っているところもあると思う。

その点の相互理解こそが、ある意味信頼関係を生むんじゃないかとも思うのだな。



話が逸れた。



スポーツにおいて「綺麗」の反意語は「泥臭い」となるけど、その「泥臭い」は何をもって泥臭いのか?

僕はそこにも「根性」が必要不可欠な要素、というよりもその大部分を占めるように思えてきた。

僕の世代だからそう思えるのかもしれない。

だけど、今改めて思うのは、やっぱり根性だな、ということ。

現代の理論や最新の情報はもちろん広く学び、承知したうえで、でもやはり僕世代的な根性論を貫く必要があるように思う。

上の世代の方々からすれば笑われるような程度の根性だけれど、「まぁあいつなりに根性見せてるから良いんじゃない」と言ってもらえるくらいはやらないと、どうも格好がつかないし、多分、僕自身後悔する。

だから、やる。



そして、ただ頑張るだけでなく、結果を出すために、クレバーに取り組む。

積み重ねて、より良い引き出しをより多く持つ。

でも、引き出しは引き出さなければその価値はない。

だから、引き出す力も必要だし、それも磨き続けていく。



新しい発想をいただいて、今まで見ていたものを違った角度からも見れるようになった気がして、すると、日々の活動がより厚みを増し、より楽しく感じてくるものでもある。

全ては自分次第。

全ての要因はまず自分にある。

もっと正直に、根性論的発想で活動をあらためていこうと思う。

効率的に考え行動することは大切。

でも、遠回りがプラスになることがあるのもまた事実。

もっと自分に素直でいようと思う。

よし、頑張っていこう!