車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

第9回 国際クラス別パラ卓球選手権大会

2017年11月28日 08時08分41秒 | 日記
出場してきましたが、結果はクラス4位に終わりました。

自分自身としてはもの凄く不本意な結果です。

準々決勝、準決勝、そして3位決定戦とその全てが去年と同じ相手に。

だからこそ、自分の成長度合いが確認出来るものだったけれど、それだけに4位で去年と同じ結果は悔しい以外の何物でもありません。



準々決勝まではすごく良かった。

「よし!」と、この一年の活動に胸を張れるものでした。



でも翌日となったそれ以降の試合が良くなかった。

なにが良くなかった?

それは冷静さを欠いた自分自身の頭。

身体のコンディションは決して悪くは無い。

むしろ良かった。

だから身体は動いていた。

ここにもこの1年の活動の成果は表れていたと思える。



でも頭が固くなっていた。

だから視野が狭くなる。

持っている引き出しを半分も開かない。

そんな幅で戦っていた。

言われて初めて気づく。

そりゃぁ負けるわ。

試合はライブ配信されていたのだけれど、それを見た複数の人からは「表情が硬い」「緊張していた?」と言われた。

僕が思う以上に、自分自身をコントロール出来ていなかったようだ。



身体を鍛える。

技を磨く。

でもそれだけじゃない。

頭も使ってプレーしなきゃ意味がない。

どれだけたくさんのデータやソフトを有したPCでも、重くて開くのに時間がかかるのでは正直使えない。

持っている技や知識はサクサクと使えるからこそスキルになるのだ。

言われて初めて気づくようでは、それはまだまだ自分のものには出来ていないということ。

「勝てる試合を落としたね」

そう言われた。



この悔しさが今の僕のモチベーションに大きく積み重なった。

今の僕は、いや僕だけでなくコーチをはじめとした周囲の環境は今回の結果によりまさに「雨降って地固まる」となった。



僕が成長すると同時に、他の選手もみんな成長する。

新しい芽も出てくる。

でもその中で一番伸びなきゃ目指す方向へは進めない。

自己満足してちゃいけない。

腕と頭と、そして心も磨く。



ライバルは自分自身だな。

悔しい。

でもその結果得るものも大きかった。

自分とより向き合えた。



そうそう、ダブルスの試合もあったのだけれど、ここでは大きく一歩前進出来た。

強豪ペアに勝利することが出来た。

でもこれは一重にパートナーの活躍の賜物。

だからこそ、ダブルスという競技を僕はより一層楽しむことが出来たし、この結果はそれに起因するものでもあるのかもしれない。



さぁ、嘆いている暇は無い。

すぐにでも前へ踏み出さなきゃ、あいつらに置いていかれる。

この悔しさをバネに、躍進を誓う。

みてろよ、自分!

試合前の不安

2017年11月18日 01時08分25秒 | 日記
国内、一年で最も重要な試合がいよいよ来週に迫ってきた。

僕を含め、出場する選手はみんな少なからず不安な心境だと思う。

目標を定めていればその為に「踏まなければならないステップ」や「越えなければならない壁」があるし、また背負うものがあればある程、その不安はより大きくなるものだと思う。



先日、代表選手と立ち話をした時に、直接ではないけれどその言葉の節々に「あぁこの人も不安なんだな」と思わせられるものがあった。



代表権を得るために勝たなきゃいけない、スポンサー契約を更新してもらうために・・・待遇を維持してもらうために・・・と、みんな立ち場や思いはそれぞれ違っていても、その胸に抱える「不安」というものは多かれ少なかれ存在していると思う。



かつて日本代表選手(健常者)がコメントしていたけれど、「不安じゃない選手なんているんですか?みんな不安だから練習するんだと思います」という言葉が印象的だった。



確かにそうだ。

不安だから、自信がないから、それを払拭するために練習するのだと思う。

納得いくまで練習するのだと思う。

でも翌日にはまた不安になる。

だからまた練習をする。

その繰り返し。

なにをどこまでやったって不安は消えない。

だって、勝負の世界に絶対は無いのだから。

真面目な人ほど不安になるのだと思う。

いや、不安な心境を見せない人が不真面目かと言うと必ずしもそうではない。

不安なところを見せないように立ち居振る舞っているのだと思う。

それもまた大切なことだから。



みんなそういう世界で自分自身とも戦っているのだ。



そういう選手が相対し、磨いてきた腕を、積み重ねてきた努力を競い合って、優劣を決めて、そして誰が日の丸を背負うのかが決まる。

「日本人代表」が決まるのだ。



逆に、日の丸を背負うというのはそれだけの重責を背負うということでもある。

「代表として」という資質が問われるものだけれど、それはきっと一朝一夕で出来るものではない。

不安と向かい合って、それを抱えながら絶えず努力を積み重ねていく、そうすることで磨かれた心に宿るものなのかもしれない。



でもやっぱり、心も大切だけどまずは試合に勝てるだけの技量、そして知略を有していなきゃいけない。



そう思うと・・・不安になる(笑)



もう今更どうこうできるものではない。

あとはベストコンディションで当日を迎えられるように調整するのみ。

不安は解消できないものなのであれば、それはもう上手く付き合っていくしかない。



「1年間しっかり頑張るぞ!」

と思って過ごしたはずのこの1年はあっという間に過ぎていて、「しっかり頑張りきったからもう大丈夫!」なんて心境にはこれっぽっちも至れない。

でもきっとみんなそうなんだ。

どんな競技の選手も、スポーツに限らずビジネスにおいても芸術においても、みんなそうやって自分自身とも戦いながら頑張っているんだ。

開き直るべきなのか不安を肯定して挑むべきなのか、それすらも明確には判断できない。



いずれにしても、1年に1回きりのこの試合で全てが決まるので、しっかりと頑張りたい。



でもやっぱり不安(笑)

(笑)をつけるのはせめてもの強がり(笑)

実力を超えた風格を体現出来たりはしないので、せめて身の丈に合った限りでも「威風堂々」と挑みたいと思う。

忘れるべからず。

2017年11月09日 22時24分01秒 | 日記
卓球に直接的なものではないけれど、備忘録として書きとどめておきたい。

「失ったものを嘆くのではなく、今あるものを最大限に活かせ!」

とは、パラ・スポーツにおける最も有名なスローガンだ。



僕はふと思った。



「今あるもの」とは身体機能、能力だけを言うのかな?と。



例えば、身体障害者といってもその内容は人それぞれ。

卓球では身体障害だけでクラスが10に分けられるほどだし、同じクラスでも人それぞれ背負う障害は異なっているので、厳密に言えば似て非なるものなのだ。

事故や怪我で障害を負った人もいれば、生まれた時から障害を背負っている人もいる。

同じように見えてみんなそれぞれ違っている。

だから、「今あるもの」もみんな違う。

それをどう活かすのか、その手段も人それぞれ異なってくるから、その方法も誰かが的確に教えてくれるものでもないし、結局のところ自分で見つけるしかないから、だからものすごく難しく、時間もエネルギーも膨大に費やすから、だから「活かす」よりも「嘆く」が先に来ちゃうのかもしれない。



そこで話を戻そう。



僕は思う。

「今あるもの」は身体のことだけじゃないな、と。

どんな障害も越えて、さらには障害者も健常者も関係なく、僕らには全員が同じく持っているものがある。

それは「可能性」。

さらには「希望」。

それは間違いなく「今あるもの」だと思う。



障害を負っているからこそ、辛く悲しく、悲観的な境遇に身を置かざるを得ないという人も少なくは無い。

スポーツ活動を行いたくても、環境面で思うようにいかないことだって多々ある。

でも、そんな時でも、どんな時でも、僕らには「可能性」があり「希望」があるのだ。

それが自分の掌に無くたって、足元に一輪の花として小さく咲いているものだ。

それを、嘆き悲しんでその場で地団駄踏んでいると、その小さな花を踏みつぶしてしまうことになりかねない。

「今あるもの」とは、手の中にあるものだけでなく、手の届くところにあるもののことをいうのだと思う。

少し頑張って手を伸ばせば、届くものだってたくさんあるはず。

そう考えると、地団駄踏んでいる暇はない。

手を伸ばしてみる、精一杯手を伸ばしてみる。

すると思いのほか簡単に掴めるものだってきっとあるはず。

今はずっと遠くに見えるものだって、自分でそちらへ歩いていけば、ほら、手の届くところにそれがあるはず。

それを手にして、また1歩前進していく。

すると、見える景色も変わってくる。

もっと手を伸ばしたくなるかもしれない。

手を伸ばせば掴めるものがさらに見えてくるはずなのだ。



なんだか詩人のようだなぁ(笑)



自分自身の可能性に限界を設けない。

今あるものを最大限に活かしてやる!

チャンスはいくらでもある!

全ては自分次第!

という備忘録。

さぁ、頑張れ、俺!

練習していないことは自慢なのか?

2017年11月06日 23時05分15秒 | 日記
大切な試合が近づいてきた。

悔いの無いように頑張りたいし、挑みたい。



そんな試合会場でも時折耳にするのが「全然練習出来ていない」「ほとんど出来ていない」という「練習出来ていない自慢」。

また、「どれくらい練習しているの?」と聞かれることもあるけど、大切なのは「どれくらい」という時間ではなくその内容の濃さだと僕は常々思う。



試合というのは「日ごろの練習の成果を発揮する機会」であり、「自分が取り組んできたことを試す場、お互いに試し合う場」だと考える。

そういう神聖な場において「練習出来ていない自慢」をするのは、相手や周囲に対してものすごく「失礼」に当たるといつも思う。

文字通り「礼を失する」行為だと思うのだ。

それは日本的な「道」の精神に反する。

相撲でいえば神聖な土俵を汚すような、それこそ武士道精神に反すると僕は考える。

卓球というのは尚の事、イギリス発祥の「ジェントル」な競技なのに、そんなことをするのはジェントルマンじゃない。

「練習出来ていない自慢」を事前にしておくことで、負けた時も言い訳が出来るとか、勝った場合は練習していないのに勝った俺はすごいでしょ!とより自慢できるとか、そういう「しょうもないこと」の為に言っているのかなと僕は勝手に考える。

もしそうでなければ違う理由を教えてほしい。

僕にはそれくらいしか思いつかないから。



例え練習が全くできていないとしても、思うように出来ていないとしても、試合に挑む以上は胸を張って、威風堂々とありたいものだ。

それが対戦相手への敬意でもあり、それこそがスポーツマンシップだと考える。

特に競技として取り組む以上は、対戦相手、あるいは観戦している人たちから「さすがだな」と思われるだけの心技体を身につけているべきだろうし、尊敬されるような人物でなければならないと思う。

試合に勝つとか結果を出すっていうだけでなく、そうしたプレーヤーになるというのは一朝一夕で出来るものではないから、それこそ努力を積み重ねていって、自分自身を「成長」させ続けていかなければならない。求めるものはその先にしかないのだから。



時間は与えられるものではなく、自分で作るもの。

テレビを見る時間や遊ぶ時間を削って人知れず努力を重ねていく。

より効率よく成長するために、多方面にアンテナを張り、常に試行錯誤・創意工夫を怠らない。

一流と呼ばれる選手やアスリートというのはそういう人たちだと思う。



また、自身がより充実した活動をしていくために、環境面を自分の思い描く方向へと軌道修正させていく努力も必要なのだと思う。

今はそういう体制がここ数年で飛躍的に伸びているし、そのチャンスは誰にでも掴めるものだと思うから。



全ては本人の努力次第。



そうやって積み重ねていった様々な努力が結果を生み、また人を作り育てていくのだと考える。

そうした時間を人生の先でふと振り返った時、例え求めるものを掴めなかったとしても、それに挑み続けた自分を誇らしく思えるはず。

逆に時間が無いとか、自分に対しても言い訳をして嘘をついてきた人は、振り返った時に「あの時ああしておけば良かったな」と、きっと後悔をすると思う。

そんなのは嫌だ。

将来の自分を後悔させないためにも、一生懸命に取り組み続けたい。

胸を張って、威風堂々と立ち居振る舞い、でも驕ることなく、謙虚に、紳士的に、そんなプレーヤーに私はなりたい。