車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

第16回 全日本パラ卓球選手権大会(肢体の部)

2024年10月04日 21時20分59秒 | 日記
9月末、パラ卓球日本人プレーヤーである限り最も重要な大会を無事に迎え、終えることが出来た。

結果は混合ダブルス(クラス7以下)3位、男子ダブルス(クラス8以下)4位、シングルス3位だった。



全日本パラはこれまで毎年11月下旬に開催されてきた。

確か2年前から東京での開催になったけど、僕が知る限りそれまではずっと大阪での開催だった。

東京開催は今のところ毎回会場が変わっていて、3回目の今年も初めての会場だった。

そして9月という初めてのタイミングでの開催。

さらには、これまでは2日間での開催だったのが3日間開催となり、試合のスケジュールも今回初めての形となった。

ちなみに初日が混合ダブルス、2日目に男女各ダブルスとシングルスの予選、3日目がシングルスの決勝トーナメントだった。

みんながここに向けて準備する大会で、ただでさえプレッシャーがかかるのだけれど、そこにさらに時期、場所、そしてスケジュールと初づくしが重なるので、個人的には色々不安の多いものだった。

ついでを言えば、8月末にこの体育館で一般の大会が開催されるのでそれに出場し会場を下見しておこうと考えていたけれど、その大会は台風の影響で中止となり、それがまた不安に拍車をかけることにもなっていた。

ほんのちょっとだけだけど(笑)



話を自分の結果に戻せば、まず一番の気持ちはシングルスもダブルスもそれぞれ自身で設定していたラインをクリアできたことにほっとしている。

でも最低ラインをクリアできただけで目標に至れなかったことは悔やまれる。

がしかし、そうした自分を今までにないレベルで客観視し分析出来ていること、それはまさにこれまでのトレーニングの成果を実感できるものであり、そこに大きな喜びを覚える。

だから、結果は少なからず悔しいのだけれど、この先が楽しみで仕方ないと思える自分もいて、「前向き」なんてありきたりな安っぽい言葉では表現したくないぜ!と思えるような心境にある(笑)



試合を振り返るとそれを見ている自分が今までとは違っている。

勝って嬉しい負けて悔しいよりも、感情はそのもっと先にある。

それが今までと異なるポイント。

思考が感情を追い越したというのかな?

いずれにせよ、積み重なっていることを実感。

そして積み重ねている、進んでいる方向の正しさを認識。

それは選択の正しさと理解。

これはエゴイズムと言われるかもしれないけれど、それで構わないと胸を張れる。

自分が正しいと思った主張を押し通す強さも必要だと思うから。

幸い卓球は個人技なので、コートの中ではそういう強さも不可欠だと思うし、見方を変えればそれこそがアスリート・マインドとも言われるものだろうから。



とにかく、今回の大会は結果以上にこれまでにないレベルで収穫の多いものとなった。

その分だけ、課題も実感出来た。

言われて気づくのではない、自分で気づけたのだ。

これまで同様コーチにも帯同いただいた。

それは自分以外の視点での気づきを得たいから。

でも今回はこれまでとは全然違っていた。

それこそが一番の収穫かも知れない。

今までと違うからこそ、違った収穫があり、異なる道を見いだせている。

繰り返すが、結果とは別のところで思いがけず実りの多い大会だった。

だからこそ、ここに至るまでの道程を振り返り、反省もし、修正して、次につなげていく。



視点を変えて自分の試合ではなく大会として俯瞰した振り返りを行うと、思っていた以上に疲れていた(笑)

大会期間中はそういう自覚は全くなかった。

これこそがアドレナリンうんぬんなのかなと思ったほど。

でも終わると身体の疲労は思っていた以上にあった。

出場した3種目は全て準決勝まで進み3位決定戦もあったのでフルの試合数だった。

2日目が思っていた以上に身体が疲れていたようだ。

ダブルスを6試合、その後5時間くらい間をあけてからシングルスの予選2試合。

この間、僕は調整を行いたかったので会場を一度出て別の場所へ練習に向かった。

1時間程度の軽い調整を行い会場へ戻る。

昼食は取らなかった。

それはいつものこと。

「身体を休める」という休憩も取らなかった。

当日のコンディションもそれを必要とは全くしていなくて、万全の状態と自覚していた。

がしかし、そうではなかったようだった。

見ていた人が言うには、「午前中と身体の動きが全然違っていた」らしい。

腕の動き、同じ動きでも腕の上がり方、角度が大きく違っていたという。

「身体が重そう」だったらしい。

だからなのか?

夕方の2試合はサーブミスを連発した。

なんで?と思うくらいに上手くできなかった。

この日を振り返ると、確かにそうなっていても不思議ではないなと反省。

休憩と栄養補給の重要性を改めて学ぶ。



そして2日目に僕が気にしていたのは足の「ケイセイ」。

僕は足を自分で動かせないけど、伸びたり曲がったり震えたりと勝手に動く、力が入る。

それを「ケイセイ(医学用語)」と呼ぶ。

それが生じると上半身にも影響を与えるので、姿勢が崩れたりして安定しないのだ。

同じ姿勢が長く続くとケイセイが生じやすいので、それは必ず発生するものと捉え、それをどうマネージメントするかを考えていた。

試合の間が長く空くことをプラスになると捉え、その時間の過ごし方をシミュレーションし、リスクを踏まえた上でのマネージメントを心がけた。

成功したつもりではいたけど、結果的には失敗の方が大きいように思う。

でも、そうしたことを学べたという点では成功とも言える。

これもまた次に生かしていきたい。

3日間を終えると疲れが一気に出た(笑)

自宅からの移動だったので起床時間も早く移動時間も長かったのも当然ある。

でもそれも承知の上だし、その疲労感の最も強かった部位などはそれだけ使っていたからということでもあり、それこそが収穫で喜びでもあった。



とにかく大会を無事に終えられたことを嬉しく思う。

技術的な部分だけでなく3日間というスケジュールのマネージメントが今後の課題にもなった訳で、そうした反省を次につなげていく。

今回はパリのオリパラで学んだ直後でもあったので、モチベーションというかテンションにも多少の違いがあったのかもしれない。

それを一過性のもので終わらせず、メリデメも客観的に捉えた上でそうした経験を自身の財産とし今後に活かしていきたい。

最後に、大会に関わった多くの方々、応援に来てくれた方々、コーチをはじめサポートしてくださった方々、この場を借りて御礼申し上げます。

「あいつは頑張ってるよ」とお世辞ではなく素直に言ってもらえるように、評価してもらえるように、これからも積み重ねていきます。

集団浅慮!

2024年09月16日 21時27分05秒 | 日記
恐ろしい言葉を学ぶ。

それがタイトルの「集団浅慮」。

練習の待ち時間に読んだ本に書いてあった。

それは僕が所属する会社の元上司に勧められて読んでいる本。

尊敬するメンタル・トレーナーも読んだというので尚の事僕には意味のある本なのだ。

それを読み進めていると出てきたのがこの言葉だった。

どういう意味か興味ある方はご自身でお調べください、敢えてここでは書きません。



その言葉を知り、僕は納得がいった。

人付き合いとか人間関係で、僕が苦手とする人たちってこれで定義付け出来ると思えたから。

真っ先にイメージしたのが太平洋戦争時の旧日本陸軍。

そのほかにも思い当たる集団や組織、団体、グループなどは多々あるし、僕が経験しただけでも思い浮かぶものは複数ある。

どうもそういうのが苦手だなと思っていたけど、それは心理学とか専門家の見地からすると明確に分類できるようなのだ。

実際に研究データもあるらしい。

自分のイメージが言語化された思いで驚いたし、それを知ることが出来て嬉しかった。

ちなみにその本には「ボスとリーダーは違う」とも書いてあり、それも納得。

あぁあの人はただのボスだ、あの人はリーダーだったなと自分史を振り返りもした。

そのボスとリーダーのことには持論もあって、僕は30代前半の頃にリーダーとマネージャーの違いというのを学んだので、リーダーの在り方、マネージャーの在り方というのにも自分なりの考えがあり、ダメなリーダー像が「ただのボス」になるのだなと理解。

自分の知識と新しい情報がリンクするのはとても刺激的だしものすごくプラスになる。

こういう学びを得られるのは心底嬉しい。

だから「読書」というのはものすごく有意義であり価値を生み出すものだと思っている。

元本屋の倅として(笑)



今や「本」は読むだけでなく「聞く」時代になっている。

これは効率のいいことだと思う。

けれど、それが本当に効率良いものなのかどうかはおそらく人によって異なると思う。

個人差があるということだ。

なぜ?

だって、その情報の入り口が「視覚」と「聴覚」で異なるから。

耳から入る情報と目から入る情報で脳の分析速度が違ってくるというし、そこには個人差があってこっちの方が速いとか遅いとか、得手不得手が人によって存在するものらしい。

これは脳科学の分野の話。

僕から説明は出来ないけど、だから本を「読む」のと「聞く」のでは情報処理能力、速度に個人差が生じるだろうからより効率の良い方法をそれぞれが選択しなければならない新しい時代を迎えていることになる。

いずれにせよ、「書物から学ぶ」ということは自分以外の知識、他者の経験に触れることなので、それだけで大きな価値があると思っている。

賢者の学び方、なのだな。

子供の頃はあんなに読書が嫌いだったのに(笑)



話を戻す。

「集団浅慮」という現象を目の当たりにした時、自分はどう判断し行動するのか、出来るのか、それは自分の意志の固さ、意識の高さに直結するものだと思うけど、別段これまでと変わることはなく自分に嘘をつかずに正直にいたいと思うし、あらためて、そこは潔く誇り高くありたいと思う。

「集団浅慮」という状況をよしとする、あるいは心地よく思うのは一部の「ボス」であり、それは裸の王様のようなもので、忖度を受けてその立場にあることを心地よく思う人。

逆に「有能なリーダー」はそんな状況を絶対に認めないだろうし、悲しむ、あるいは叱咤する、そして改善しより良い状態、チーム・ビルディングを図り、より良い方向へ導いていける人だと思う。

そんなチームの一員であることがどれだけ誇り高い事だろう。

どれだけ幸せなことだろう。

僕はリーダーになりたいわけではないし、僕にその度量はないと自覚している。

けれど、マネージャーとしてリーダーを支えるポジションはこれまでも経験しているし、そういう仕事にあこがれも持っていた。

例えば秘書とか、執事とか、晩餐会のディレクターとか。

自分が「この人は!」と思える人を支えて差し上げたい、それを仕事に出来ればそんな嬉しく楽しいことはない、と思ってきた。

逆に、リーダーじゃなくてただのボスだ、と思ってしまえば見切りをつけるのはきっと早いと思う。

だからこそ自分が人の上に立つ時には、見切りをつけられないよう自分自身が成長し続けないといけないと思うし、リーダーやマネージャーとは本来そうしてチーム全体での成長を促していくものだと考える。

だから、「集団浅慮」なんてことはものすごく恐ろしいし、凄く嫌だ。



超、見切りの対象(笑)



今までそんな気持ちを抱いていたけど、今回元上司から教えてもらった本でその言語化にたどり着けたのはものすごく嬉しい。

言語化出来たから、より明確にしていける。

そういう知識や情報を共有し活用していける会社の心地よさ(笑)

集団浅慮のまさに対極。

ホント、いろいろ学ばせてもらっている。



「フィードバック」、そして「コーチャビリティ」。

これも会社で学んでいること。

僕が取りまとめる車椅子卓球チームには中学生や高校生も複数いるけど、彼らはいずれ社会に出る、まさに「社会人」となるわけだから、その時にただ障害者雇用枠で採用されるだけの人間ではなく、障害の有無を問わず一人の「人材」として企業や組織にとって「価値ある存在」となるべく学んでいってほしいという観点から、この2つの言葉をコンセプトとして活動している。

そうすれば、「集団浅慮」なんていうことがどれだけ馬鹿らしいことか、ネガティブなことかを理解出来るだろうし、そうなってはいけないと判断・行動できるだろうし、それこそが「人材」として輝けることになると思っている。

現時点で彼らにこの言葉の意味を理解しろとは言わない。

ただこの単語を覚えておいて欲しいと伝えている。

そうすることで、将来その言葉に接した時の理解度は大きく違っているはずだから。

彼らが安易に「集団浅慮」に流されるリスクを回避させることの一助になるのではと思うし、少なくとも、それに流されるようなそんな大人にはなってほしくないから。

「類は友を呼ぶ」というから、そういう人ばかりで徒党を組むともう後戻り出来なくなっちゃうよ、と言いたい。

怖い怖い(笑)



隙間時間の読書で思いがけず良い学びを得られた。

こうやって与えてもらったチャンスを活かし、掴み、自身の成長として行きたい。

別に専門家になりたいわけではなく、知った風な口をきいてドヤ顔を見せたいとかイニシアチブを取りたいとか、そんな気持ちは全くないつもり。

だから僕は人と話す時でも「〇〇さんが言ってた」「本に書いてあった」と注釈をつけることが多い。

そこで見栄を張りたくないし、その言葉に信憑性を持たせたいから。

その為にも、真摯な態度で多くを学び知識を重ね、でも謙虚な姿勢で歳を重ねていきたい。

それが僕にはカッコいいと思えるから。

少なくとも、集団浅慮を構成するような大人にはなりたくないなと思う。

でも小心者だからなぁ・・・(笑)

とにかくいくつになっても学ぶことをやめず、それこそまさに日々精進していきたい。

パリ・パラリンピックが終わる

2024年09月12日 21時28分28秒 | 日記
目指していたけど行けなかったパリ・パラリンピック。

それが終わった。

テレビで結果はちらほら報道されていたけど、それはメダル獲得のニュースだけ。

それはそれで楽しめたけど、でも中継等が無かった?(のは僕が分かっていないだけだとして)、いずれにしてもメディアの扱いにおいてオリンピックとの差があまりにも大きいのにはちょっと残念な思いもある。

それが日本社会の現状。

もしTOKYO2020が有観客で開催されていたらまた違っていたのかもしれないと思う反面、「らしさ」を感じるところに俯瞰している自分がいる。

でも試合はネットで配信されていたので色々見れて楽しめたし、これまで以上に勉強になった。

多くを学べたパリだった。



じゃぁ自分はどうする?

そう考えた。

それが問題だ。

パラスポーツの為に?パラ卓球の為に?ではなく、あくまでも一個人として自分の為に自分がどうあるべきかを考えた。

もっと上に向かうために、前に進むために、どうするべきか、何をしなきゃいけないのか、そう考えさせられた。

ある意味それがパリ・パラリンピックが僕に与えた一番の影響といえるし、今までとはまた違った捉え方が出来たのにも手ごたえを覚えたところ。

例えハードルがあったとしても、諦めることなく見定める方向へと足を進めていきたい。

その為に何をどうすべきか?

まずは自分で考えて判断し行動していきたい。



でもその前に、僕にはパラ卓球の全日本選手権が目の前に迫っている。

だからパリを見ながらも自分のことでいっぱいいっぱいだった。

それは今も同じ。

コンディショニングに注意し、トレーニングを行い、チェックし、毎日を過ごす。

パリの結果はすごく気になるから確認するし動画も見る。

だから期間中はちょっと寝不足だった(笑)

でもその対価は大きいものだった。

がしかし、それはそれ、これはこれ。

僕の目の前にはまず全日本が存在する。

そのステップを踏まなければ、その先はない。

だから、まずは自分のことを精一杯やる、それを意識していたし、それは今も変わらない。

その甲斐あってか、コンディションは現状良い感じ。

でもそれで足元をすくわれることが無いよう注意し、無事に当日を迎えプレー出来るようにしたい。



「努力は自分を裏切らない」

好きな言葉だしある意味信念とする言葉でもある。

逆に努力が必ずしも結果を生むわけではないことも重々承知している。

けれど、重ねた努力は確実に積み重なるものであり、それを実感出来ていれば、それこそが自分を裏切ることがないものであるとも理解している。

だからこうして活動していけるのだし、さらに上を目指していける。

努力というのは、年齢に関係なく積み重ねていけるものだと思う。



今回のパラリンピック、有観客のパラリンピック会場がどれほどのものなのかを思い知らされた。

やはりものすごい熱量に満ちている。

通常の国際大会とは比べ物にならない。

2018年にインドネシアで開催されたアジアパラは経験あるけれど、それとも全然桁が違う。

スロバキアでのパラ卓球の世界選手権も経験したけど、比べ物にならない。

パラ卓球をはじめて2年目に出場した全国障害者スポーツ大会(略して全スポ、いわゆる障害者の国体)、あの盛り上がりを初めて体験した時は凄いなと思ったけれど、そのスケールを何十倍にもした熱量の空間なのだと思う。

ちなみに全スポは障害を持つ人のスポーツ活動の登竜門であり、競技レベルの向上ではなく障害者の社会進出を促すことが目的とされているらしい。だから僕は一度経験したのでもう出場しないことにしている。その席を必要とするこれからを目指す若い世代の為に。

話が逸れたけど、有観客のパラリンピック、あの雰囲気の中で試合をするということがどれほどのことなのか、自分だったらどうなのかも少し考えてみた。

多分、それほど変わらないと思う(笑)

ワールドツアーなのかパラリンピックなのか、いずれにしても試合に変わりはない。

だから、全日本も同じ試合なのだ。

環境面は大きく違う。

宿舎からバスで向かうのか、自宅から車で向かうのか、セキュリティの有無やレベルの違い、そうした環境面の違いに合わせてコンディショニングを行いベストを尽くすだけ。

こういう気持ちで迎える試合だからこその緊張やプレッシャーはあるけど、積み重ねているものを十分に発揮できるように、トレーニングの成果を発揮できるように頑張りたい。

その為にはまずコンディションの維持。

ケガをしたりアクシデントに見舞われないように気をつけていく。

見定めるこの先の道へ前進していけるように取り組んでいく。



口で言うのは簡単なんだなぁ(笑)

何とでも言えるものだから(笑)

でも行動は結果を伴って可視化出来るもの。

それは物理的なところにも表れるし、人はそれ評価するものだと思えば、いわゆるイメージの大半はそこから生じるものだと思う。

だからこそ、「あの人は口先だけだ」と言われないように、行動と結果でちゃんと示せるようにしていきたい。

と、自分にプレッシャーをかける(笑)

まずは体調管理。

先を見定めしっかり頑張っていく。

アスリート・ファースト!

2024年08月22日 21時18分40秒 | 日記
東京2020の際に広く使われた言葉。

トレーナーからこの言葉の意味を教わった。

きっかけは「日本では間違った意味で使われちゃってるんですよね」の一言だった。

どういうこと!?

そういう話にはめちゃくちゃ興味を示すのが僕なのだ(笑)

詳しくは敢えて言わない。

だってその「解釈」は様々だろうから。



でも言われてみれば、「アスリート・ファースト」という言葉、何となくわかったつもりでいたけど深く考えたことはなかった。

コロナ禍で東京を訪れるアスリートをゲストとして丁重に迎える、もてなす、そのキャッチフレーズだと単純に捉えていた(逆にアスリートという立場においては勘違いを与えるんじゃないの?という思いも少なからずあった)。

あるいは視点を変えて、競技団体の不祥事などが度々報道されてもいたので、何のための団体なの?その存在意義は組織や利権の為ではなくまず選手の為だよね?という注意喚起にはもってこいの言葉だとも思っていた。

でも、パラにおいてその意味は全く違ったものだったらしい。

だから自分でも「アスリート・ファーストとは」で検索してみた。

以外にも明確な回答は見いだせなかったし、専門家でもはっきりしたコメントは見つけられなかった。

逆に「その意味は分からない」というスポーツ関係者のコメントがあったくらい。

その中で印象的だったのは、「アスリート自身はアスリート・ファーストを誰も求めはしないと思う」という一文だった。

僕もそれに同意する。

最適な環境でプレーすることは誰もが強く望むことだけど、だからといって「ファースト」として扱ってほしいという心理は全くないし、国賓でもないのにそのような対応を受けることに自分であれば違和感を覚える。

これまで海外へ行った際にも、親切に接してもらう、対応してもらうことはあちこちであったし、そこにその国の人柄を感じたりもして心地よく思ったりもしたけど、でもその心地よさのベースにあるのは「普通」という距離感であり、イーブンの立場で親切に接してもらえることの嬉しさ、温かさ、それこそが心地よさなのだと僕は思っている。

逆に丁重にもてなされるというと恐縮してしまうし委縮してしまうかもしれないから、僕はそれを求めたくはない。

でも東京2020の際はコロナ禍。

だからこそ、イレギュラーな環境下でゲストを丁重に扱うことへの・・・と、ただそのように認識していただけだった。



でも、その言葉には真意があったのだ。

賛否はどうあれ、東京2020ではそうしたキャッチフレーズとして使われたのだと思う。

でも、そもそもその言葉を生んだ方の真意はそうではなかった(と考える)。

全然違う意味だった。

それは僕の理想にピタリと一致するものであり、背筋が伸びる思いのする見事な文言なのだった。

もったいぶるようだけど敢えて言わない(笑)

あくまでも解釈の一つと捉えるから。

この言葉を胸に、あらためて取り組んでいこうと思う。

でもこれは僕のスポーツ活動に限った話ではない。

車いすで生活するようになって、社会に出て、その時胸に抱いた思いを象徴する言葉でもある。

だからこそ、僕の座右の銘の一つとなった。

やっぱりプロは凄い。

専門家だからそうした知識や情報がさらりと出てくる。



「餅は餅屋」

という子供の頃に覚えた言葉が好きだ。

時に本業ではないけどものすごいスキルを持つ方がいたりもする。

でもそれはかなり稀なことで、やっぱり餅は餅屋が良い。

餅屋だったらなんでもいいのかというとそうではなく、やはりより良いものを生み出す力のあるホンモノがいい。

そういう方から学べることは本当にありがたい。



ちなみに、東京2020的意味合いの「アスリート・ファースト」、専門家の感覚では「ファーストではなく『センタード(アスリートを中心として周りがサポートしていく)』というのが一般的」ということだった。

別のトレーナーの言葉を借りると、「インクルーシブとか今の考えに合致することばですよね」という。

しっくりきた(笑)

サッカーやバスケといった団体競技ではなく、テニスや卓球という個人競技の選手でもトップ選手というのは「チームの勝利」を口にするらしい。

自分が頑張ったからではなく、それを支えてくれた様々な人たち全体を一つの「チーム」と捉えて、自分のその結果はチームがあったからこそという評価をする、というデータがあるらしい。

それこそまさに「センタード」だと思う。

「ファースト」では確かにそうはならないかもしれない。

そうした「感覚」も学んでいかなければならない。



障害者であればこそ、「してもらう」ことに慣れている。

慣れているからこそ「してもらって当たり前」となってしまっているところがあるかもしれない。

それは共生社会実現へのハードルだと僕は思っているから、当事者として常に気をつけなければならないし、是正の必要な点だとも思う。

逆にしてあげる側からすればそれは当然の事という認識なのかもしれないけれど、それにつけこんで得をしようとする連中がいても不思議はない。

そんなのでは「センタード」の関係性は築けはしない。

いや、利害関係があれば別か(笑)



今回偶然にも学べた「ファースト」の意味、これを胸に刻み活動していく。

来週からはいよいよパリ・パラリンピックが始まる。

世界中からセンタードで頑張ってきた選手が華やかな舞台でその雄姿を見せる。

正直、羨ましく思えるし、悔しさも覚える。

まぁいずれにせよ、その舞台に立つ彼らを応援したい。

そして、そこから学びたい。

そしてそれを糧とし、歩みを進めていきたい。

結びとして、パリ・パラリンピックにおける全ての選手の健闘を祈ります。

江戸川区リーグ戦(団体戦)

2024年08月13日 21時25分06秒 | 日記
に出場しました。

毎年夏と冬に開催されている恒例の一般の団体戦です。

江戸川区は卓球人口も多いので男子団体戦は1部から7部まであるのですが、僕は所属チーム中最も下の5部で出場。

といっても5部ともなればだんだんレベルも上がってくるので車椅子の僕でどこまで通用する?と、健常者を相手にどうプレーするかと自分なりにイメージしたりと、楽しみと不安が交錯する感じでした。

5チームのリーグ戦のところ、1つ棄権が生じたため4チームで3試合ということに。

で、チームは2勝1敗の2位。

僕は2試合出場して1勝1敗でした。

1勝できたのは良かったけど、負けた試合が悔しい。

内容が悔やまれるものなのでした。

相手はベテランのカットマン。

そもそもカットマンとの対戦を想定していなかったのが反省点。

試合序盤は自分がペースを掴めた感もあったから良かったけど、ミスがない、安定感抜群の方なので僕の方が焦ってしまい、1セット目終盤には相手の術中にハマる感じで逆転をゆるし、その後はそのままの流れで0-3で敗退。

冷静でいればもう少しマシな試合が出来ていたかなと、その点が大きな反省と悔しさの要因。

もう一試合はベテランの変化形ペンホルダーの方。

裏面も貼って強烈な回転のサーブから変化の大きなボールでラリー戦に持ち込む感じ。

1セット目は僕のサーブからの展開が優位に運べたので勝利。

でも2セット目は相手サーブに苦しめられたり、凄いボールを決められたりして落とす。

そこで冷静さを失わなかったのが功を奏し(笑)、3セット目からは相手の弱いと思える部分を狙っていき、またレシーブの際も修正を入れた結果3-1で勝つことが出来た。

自分なりに頭を使ってプレーできたのは、脳筋の僕としては高評価に値する(笑)

でもそれはフィジカル等のコンディションの良さに支えられての結果だと思う。

だから判断が出来たのだろうし、行動が出来たのだと思う。

自分で言うのもなんだけど、トレーニングの積み重ねの現れと捉えることが出来、その点がこの試合の一番の評価だと思える。



そして思いのほか試合が早く終わったので、その足でパラの方の強化練習会に参加。

試合の為欠席の連絡をしていたけど、終わった時点でこれなら参加できると急遽向かうことに。

そこで試合の反省を兼ねた良い練習が出来たのでした。

でも帰宅すると思いのほか疲労感がある。

やはり2試合だけとはいえ緊張感のある試合だったから、そういう点で無自覚の疲労もあったのでしょう。

でもその分いい勉強も出来たし、その後の練習も良い時間にすることが出来ました。



車椅子の自分が一般の方と一緒に卓球をやる、プレーをする。

車椅子という分かりやすいハンディキャッパーを目の当たりにした時に、人は意識せずとも何かしらの気を遣うものだと思います。

それは人として自然な感覚であり、優しさが起こす自然な行為だと思います。

でも、「それどころじゃない!」というプレッシャーを相手に与えることが出来るか、それだけの力を示すことが出来るか、僕がそれを示すことが出来て初めてお互いがイーブンに試合が出来るのだとも思います。

相手のレベルが高ければ自分のレベルもそれに応じたものでないと、結局は相手に気を遣わせてしまうだけに過ぎない。

だから、まずは自分がどうあるか、どうあるべきか、それを常に心がけて自分を環境に適応できるように磨いていく努力も不可欠だと思います。

それが共生社会のリアルでしょう。

卓球の場合、車椅子にだけ特別なルールが存在します。

だから「車椅子の自分にルールを合わせてください」と主張することは出来ます。

それを相手に「主張する」、でもそれは表現を変えると相手に「強要する」ということにもなりかねない。

目の前に現れた初見の車椅子選手から突然強要され、いつも通りにプレーできないとなると、決して心地よいものではないかもしれない。

その印象は少なからず引きずるものだと思うし、車椅子プレーヤー全体の印象に影響を及ぼしかねないものになるとも思います。

こっちは相手にルールを合わせてやってあげているのに、「チョレイ!」なんて声を上げられた時にはカチンときちゃうかもしれない(笑)

逆にカチンとこない人、それは完全に違う立場、違う目線(上から目線?)で客観視出来ている人だといえるだろうし、それがプレーヤーとして技術レベルの違いでそうならまだしも、障害者と健常者という違いがそうさせているとするとそれが共生社会という観点からすれば逆に良いのかそうでないのか?とも思える訳です。

だからこそ障害を持つ僕らは障害者だから合わせてもらって当たり前ではなく、相手に合わせるのはお互い様というスタンスを障害者側こそが取っていないと、いつまで経っても共生社会は実現できないだろうし、成立させることは出来ないのではと思ってしまう。

だから、「してもらって当たり前」と決して思うことなく、相手が合わせてくれている、気を遣ってくれている、それを「察する」感覚も研ぎ澄ますというコミュ力を高め、それらに対して自分がどう応じるのか、行動すべきかも単なる障害者ではなく一社会人として考えていかなければと思う。

そもそもコミュ力は身体障害者にとって問題ないもののはずだし。

なんて偉そうに(笑)

でも、こうして健常者の、一般の大会に出場させていただき、同じ舞台で同じ選手としてプレーするからこそ学べる、気づけるものだとも思う。

それはこれからの僕の人生にとって間違いなく大きなプラスになる。

そういう学びを糧として、喜びとして、これからの活動に活かし、「人」として成長していきたい。



なんか大きな話にまとめたなぁ(笑)

とにかく、まずは毎日のトレーニングだけでなくコンディショニングをしっかり行って、良い状態でプレー出来るよう取り組んでいきたい。

今回の試合での経験はまた一つ良い学びになった。

次回のこの試合は半年後。

次はもっと良いプレーが出来るように、自分を磨いていく。

そしてパラの試合につなげていく。