車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

下手な鉄砲数撃ちゃ当たる?

2021年10月30日 22時05分41秒 | 日記
下手でも数を撃てば的に当てられるという有名な格言?だけど、果たしてそれでいいの?と思う瞬間がある。

子供の頃に覚えたこの言葉、その意味は「下手でも撃ちまくれば(乱射していれば)そのうち何発かは的に当たる」という意味だと捉えていた。

先日も練習のことを考えていてふと思った。

数撃つだけのコストは?費用対効果は?外した弾のリスクヘッジは?と考えてしまう(笑)

だから、その考え方には一概に賛成できない。

僕はそういう選択はしたくない。

がしかし、数撃たなければ得られないものがあるのも分かる。

それは、狙った的に当てるという技術。

だから、同じ数を撃つにしても、ただ的に当てるために撃つのか、当てるための技術を得るために撃つのかではそもそもの目的が大きく違っているし、同じ数を撃っても結果的に得られるものが大きく異なってくると思うのだ。

ということは、「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」の意味は、「上手く当てられるようになるまで数を撃って鍛錬を重ねなさい」という意味なのだとこの歳になって気づく(笑)



うん、解釈の仕方ということか。

法と同じだな。

言葉の難しさよ(笑)



的に当てるために数を撃つのはきっと楽しい。

当たらなければストレスが重なっていくかもしれないけど(笑)、何も考えずにただ的に当たるように撃ち続けるのはきっと遊び感覚で楽しいと思う。

でも、技術を得るために撃つとなるとそれは全然違ってくる。

より細かく、考えながら、集中して、慎重に、一発撃った次は前よりも成長している必要がある。

誰かの指導を受けながらとなると思うようにいかないストレスはさらに増すかもしれないし、悪い部分、良くない部分を指摘されるのはありがたいことだけど打ちひしがれたりするポイントにもなり得るから、そこには指導者の理解や協力が必要になるのだけど、果たしてそういう指導者に恵まれるかどうかは相性もあるからある意味運次第となるのかもしれない。



いずれにしても多角的に考えることがあって思うほど簡単じゃないのが技術を得るための数撃ち。

自分が何の為に的を狙って当てようとするのか、まずはその理解が必要。

それによって選択肢は異なるし、それを違えば失うものも時間も、そして後悔も、大きなものになる。

下手な鉄砲は何のために数を撃つのか、が大切だと思う。

その判断を誤りたくはない。



練習を繰り返していて、「楽しいなぁ」と思う練習って案外自分が楽しんでいるだけで、果たしてそれがちゃんと身になっているのかというと疑問符が付くケースもある。

いや、例えその内容がどうあれ練習を繰り返すことで積み重なるものは確実に存在すると思う。

けれど、僕が重要視するのは効率の問題。

ある目標に向かって同じ練習をするのであれば、より効率的な方が良い。

逆に、その目的にたどり着くためならば、敢えて遠回りした方が良いというルートの選択も僕は惜しまないつもり。

目的がはっきりしているから、と言えば聞こえがいいかな?(笑)

ケチな性格なので時間を含むコストを効率的に使いたいということなのかもしれない(笑)



そもそも、「楽しい」と「楽しむ」ということは全く違うことだと考える。

辛く厳しい練習でもそれを「楽しむ」ことが出来れば、より効率的に積み重ねていくことが出来るはず。

逆に、「楽しい」ことだけを選択していたのでは、そりゃぁ楽しい人生を送れるかもしれないけど、気が付いたときに「あれ?なんでここにいるんだっけ?」と自分の人生の立ち位置に不安を覚えることになりかねない。

ん?

話が逸れてきた?(笑)

とにかく、目的をしっかり見据えたうえで、その道を自分が胸を張って威風堂々と進んでいけるように心がけていたい。

すると、鉄砲が下手であってもむやみに乱射することない穏やかない人生というか効率的で確実な成長を果たしていけると思う。

でも、数撃たなければ得られないものの存在も明らかなので、自分勝手になるのではなく、しっかりと良識を弁えた上で鍛錬を積み重ねていかなければならない。



と、言うのは簡単(笑)

大切なのはそれを実行し、結果を得ること。

何にしたって一回やってポンと大きく積みあがるものではなく、自分でも分からない程度にしか積みあがっていかないものだから、それを我慢強くコツコツと重ねていくしかないのだと思う。

一か八か、のるかそるか的な発想と結果を求めることはまさにギャンブルで、そこに期待するのはスポーツ活動においては違ったものの考え方だと僕は思う。

物理的に一足飛びをやろうとしても、それはドーピング違反的なことと同じで、ルールに反する行為にもなりかねないし、その発想自体もしかしたらスポーツマンシップに反することになるのかもしれない。

とにかく、下手なうちは下手なりに数を撃ち続けて上達するよう鍛錬を積み重ねていくしかない。

間違っても乱射はしない(笑)

それをしちゃうと、多分身体を壊す。怪我をする。故障する。

そして、自分以外の人にも迷惑をかけてしまう。

逆に、数を撃つだけの練習が出来るのであれば、それは幸いなことではないか。

もしそれが無いのであれば、探せばいい。

あるいは、自分で工夫して作ることだって出来るかもしれない。

今目の前に見える景色はどこに行っても同じ景色ではない。

自分がそこに立ち続けるから同じ景色しか見えないだけ。

自分が立ち位置を変えれば、それに応じて違った景色が見えるようになる。

同じものでも見方を変えれば違った形に見えるもの。

人に景色を動かしてもらおうとか、あるいは人に自分を動かしてもらおうとか、そんな考えがどういう結果を招くかは想像に難くない。

全ては自分次第なんだと思う。

なんて偉そうに語るお前はどうなんだ?と自分に問う(笑)

はい、粛々と、日々精進してまいる所存でございます(笑)

数を撃つからこそ得られるものがある。

だからこそ、一発一発を考えながらじっくり集中して、毎日打っていかなければと思う。

でもオフも大切にする。

それもコンディショニング。

とコーチからも厳しく言われている(笑)

そんな僕はまさに、下手の横好き(笑)

「聞く力」の大切さ

2021年10月17日 21時00分00秒 | 日記
最近報道番組等を見ていても「聞く力」という言葉をよく耳にする。

でもそれは本当に大切なことだと思う。

最近あらためてそう痛感した。

以前の自分の試合の動画を見ていた時、その時ベンチにいた方の一言に対する感情が蘇ってきたから。

「あぁ、この人は僕の話を全然聞かないんだな。自分が言いたいだけなんだな。」

そう思った瞬間、その人との大きな距離を感じたし、テンションも下がったという思い出。



会話とは言葉のキャッチボール、双方向のアクションだと思っている。

どちらかが一方的に話をしてどちらかが聞き手に回るという、いわば講演や演説とは違うはず。

でも、人は年齢と経験を重ねると、また偉くなればなるほど、おそらくは無意識に聞くことよりも自分の持つ情報や意見を発信することを優先してしまう。

相手が自分よりも若い、知識もキャリアも浅い、あるいは立場が下であるなどすれば、自然と上から目線というバイアスが働くだろうから、「説き伏せる」ようにアウトプットしがちだと思う。

それはある意味自然の摂理なのかもしれない。

だって、そうすることの方が本人としても気持ちがいいものだろうから。

でも聞く側からすればそれは必ずしもありがたいことではない。

むしろ迷惑だったり不快感を覚えることもあると思う。

「自分が聞きたいことはそれじゃないのに」

と思いながら、延々と話を聞かされる。

相手を気遣う人は話をしているその人の気を悪くさせないために、それをもっともな素振りで黙って聞き続ける。

それが聞く力?

いやいや、そうじゃない。

それはただの遠慮や忖度でしかない。

聞く力とは、相手に合わせたアウトプットのことだと思う。

まさに、話し上手は聞き上手、それこそが聞く力なのだと思う。



「あぁ、この人は人の話を聞かない人なんだな」と思う瞬間は日常生活でも少なくはない。

逆に僕がそう思われるシーンだって多々あると思う。

試合の時、ベンチとのやり取りはシリアスなものになるので、よりストライクゾーンは狭まる。

人はその時の状況で感情も様々に変化するから、その瞬間瞬間で求めるアドバイスは全く異なってくる。

いや、アドバイス以前に、「投げかけて欲しい言葉」がその時々で違っているということであり、言い換えると、同じ相手に対しても投げかけるべき言葉にはTPOが存在するということなのだ。

だから、「この人は今何を求めているのだろう?」とまず考える必要があるし、「今のこの人だったらこっちの方が良いかな?」というその人に合わせた言葉や回答、あるいは表現方法も必要になると思う。

それはもはやテクニックだ。

それを、立場とか常識とかでひとくくりにした言葉選びであっては、言う側の自己満足で終わってしまってニーズに答えることは出来ないだろうし、それに気づくことすら出来ずにいることになる。

それは残念なことだし、双方にとって気の毒なことだ。

でもそれを常に完璧にこなせる人なんていないはず。

いるとすればそれはもはや神だ。

どれだけ親しい人、近しい人、例えば家族や恋人であったとしても、完璧はありえないし絶対もないはず。

じゃぁワンミスで全てが瓦解するのかというと決してそうではない。

大切なことは相手に「聞こうとする気持ち」があるかどうかで、それが感じられれば答えの相違は案外小さなことかもしれない。

だって言葉は所詮コミュニケーションのツールでしかないから。

言葉よりも「気持ち」が感じられるかどうかが大切なんだと思う。

逆に、どれだけ言葉を上手く駆使したとしても、その人に気持ちがこもっていなければ、相手に気持ちが伝わらなければ、その言葉はその程度にすぎないものとなる。



あんまりこんなことばかり書いていると、僕は気難しい人間なんだと思われるかもしれない(笑)

うん、否定はしない(笑)

それで構わないとも思う。

だって、それが僕なのだ。

・・・開き直り(笑)



とにかく、聞く力というのはコミュニケーションにおいて本当に大切なものだと思う。

自分がどうしたい、どう進めたい、イニシアチブを取りたいとか、聞く力とは逆のバイアス、そういう「エゴ」や「下心」があると、それは少なからずどこかで露呈してしまうものだし、大人(という社会経験を積んだ人)になればなるほどそうしたものを「肌で感じるセンス」を持つようになる。

スポーツ活動においてはプレイヤーと指導者という立場が様々な角度で存在するけれど、そこにはまさに聞く力が双方向に取って必要不可欠だと思う。

何もスポーツに限った話ではないけれど。

その点、幸い僕は本当に恵まれているので、尊敬できる良い方々に囲まれている。

ちなみに、最初に書いた思い出話、あれは僕のコーチ達のことではないので誤解無きよう(笑)



来月はものすごく重要な試合がある。

久方ぶりの試合だ。

けれど、その久々の試合はコロナ対策として「ベンチコーチ不可」となっている。

ちなみに試合会場での練習も一切ない。

最近開催された一般の大会でもベンチコーチ不可となっていたらしいけれど、それに対して「ただし介助者はOK」といった逃げ道があったらしい。

だけど今回のパラ卓球の大会ではそれすらもないから、本当にひとりぼっちでの試合になる。

聞く力などの余計な気遣いが生じないのでそれはそれでいいじゃないか、という一面もあるかもしれないけれど、でもやはり戦術面、心理面のサポートがあるとないとではパフォーマンスは大きく変わると思う。

それがコロナ禍の試合ということか。

国際大会はそうではないと思うけど、でも国や地域によってその条件は異なってくるのかもしれない。

現にワールドツアーもキャンセルの知らせが続くのは、通常と同じ条件での開催が困難だからに違いない。

国際大会と同じ条件で国内での試合を迎えるのはまだ先の話なのだと思う。

それは残念だし、悔しくもある。

まだまだ不安が先行する状況は変わらない。

けれど、試合が出来るだけでも良いじゃないか。

厳しい条件だとしても出来ないよりはいいし、今までの成果を試すチャンスを得られたのだから、まずは出来ることに感謝して、存分にプレー出来るよう準備をしていこうじゃないか、と自分を鼓舞する(笑)

さぁ、どこまで出来るか。

ちゃんと出来るか。

ここまできたら、もうコンディショニングに集中するしかない。

まずはケガをしないように、体調を崩さないように気をつける。

事故とかアクシデントにも気を付けなきゃ。

それでも練習が出来ているだけでも本当にありがたいことだと思う。

だから、体力やら健康を維持できているのだとも思う。

でもただ練習を繰り返すのではなく、聞く力を学び、身につけ、社会人としてのスキルアップ、自分磨きも怠らずに積み重ねていきたい

思うように積み重なっているかどうか、そこにも不安が先行するけど(笑)

毎日を精一杯、一生懸命に生きていく。

さぁ、全集中(笑)

誰もが輝けるパラスポーツ ~共生社会の実現を目指して~

2021年10月07日 22時03分48秒 | 日記
江戸川区の共生社会やノーマライゼーションへの取り組みと、それに伴った障害者スポーツの普及促進活動を紹介した番組に、この僕がリポーターとして出演させていただきました。

https://www.youtube.com/watch?v=9jrg4WuXnEM

出演した僕が言うのもなんですが、これが実に面白い内容です。

凄く意味深いものです。

結論からすると、この動きが全国で行われると、日本社会は大きく変わるはずです。



ここからは超勝手な自論を述べます(笑)



この動画について、障害者スポーツの促進だとか、段差を無くすだとか、そうした目先のことだけを見ていると、その奥のもっと深い部分までは理解出来ないかもしれない。

その真意、価値はもっともっと深く大きいものなんですよ、ということ。

木を見るだけでなく森を見て、さらにはその山、あるいは地域や国をも見るともはやそれは達観となるかもしれないけど、そうあるに越したことは無いと思うし、理想はそれだと思っている。

とにかく、この動画で紹介する活動が全国規模で進めば、それは社会変革を起こすだろうと思うのだ。

なぜ?

それはまず障害者の社会進出に直結するから。

段差が無くなるなどすれば、それは社会進出の第一歩、移動の困難、そのストレスの低下となる。

そうして社会進出が進めば様々な部分でもそれは変化を生じさせる。

そしてそれは雇用へとつながる。

雇用の為に教育も変わっていく。

雇用が促進していけば、社会進出はさらに飛躍的に伸びる。

障害者の雇用における人材としての価値が大きく変化する。

結果的に、障害者の社会における立ち位置が激変することになる。

そして新しい人材、雇用は様々な分野でのイノベーションを生む。

グローバルでの日本の立ち位置にもプラスの方向へ変化が生じるかもしれない。



スポーツ活動の促進についても同様だ。

障害者スポーツの促進。

でもまず健常者のスポーツ活動や社会におけるスポーツの立ち位置が欧米に比べて後進国とも言われる日本において、スポーツそのものがそんな状況なのに障害者スポーツだけが飛躍的に伸びるなんてことは考え難い。

そもそも、今の日本国民が新しく出来たスポーツ庁が誰の為にあるのかを考えたことはあるだろうか?

大半の日本人は、それを「アスリートの為」と捉えているのではないかと思う。

そうじゃない、それは国民のスポーツ活動の為に存在している機関なのだ。

もうその時点で欧米とは違った日本におけるスポーツの立ち位置、存在感が見て取れる。

やはりまずはスポーツそのものが社会での立ち位置を獲得できなければ、障害者スポーツの理解促進には繋がっていかないと思う。

でも、障害者にとってのスポーツの存在意義が理解されていけば、それは健常者におけるスポーツも同様だという理解を促すことになるとも考えることが出来る。



いずれにせよ、スポーツが動けば何がどうなる?

まず経済が動く。

でもここで僕の言うスポーツというのは「見る」ではなく「やる」スポーツのこと。

「見るスポーツ」は既に娯楽媒体として存在している。

それは映画鑑賞や音楽鑑賞、観劇や芸術鑑賞、あるいは観光と同じような感覚。

その「娯楽」の選択肢に「やるスポーツ」という新たな媒体が加わるから経済が動くのだ。

それで市場が拡大する。

そこに障害者も加われば、さらなるビジネスと雇用の拡大、そしてイノベーションにも直結してくと思う。

これが大都市圏だけでなく全国で広がっていけば、一極集中ではなくそれこそ文化経済の地方創生の動きともなっていく。

それが既存の日本文化・観光資源に加わり、あるいはそれを後押しし、逆に後押しされ、今後のインバウンド数の増加にも繋がる要素となる。



ちなみに、この江戸川区の活動が全国で行われると、日本は間違いなくパラ大国となり、パラリンピックでのメダル獲得数は激増すると思う。



「共生社会」

東京パラをきっかけに日本でより多く耳にするようになった言葉。

小学生も授業で「共生社会」「ノーマライゼーション」などを学んでいるようだ。

「共生」

でもこれは長く島国で文化を育んできた日本人にとっては思ったよりも高いハードルなのかもしれない。

だって、異文化との交流には特に「気をつかう」気質があると思うから。

よく言えば、気をつかうからこそ相手に合わせる。それこそ自己を押し付けるのではなく逆に遠慮をする。自己主張よりもまず相手を見る、空気を読む。イニシアチブの獲得よりも全体の調和を優先する。

悪く言えば自分を見せない。だから相手からすれば、自分の意が通りやすく居心地が良いこともあるけれどそれは上辺だけのもので、本心が分からない、掴めない。だから、付き合いも上辺だけとなりがちで深い意味での「交流」にまで発展しない。
そんな上辺の付き合いでも進んでいけば無意識のうちに少しずつ深いところへと潜っていってしまう。その結果、入ってきて欲しくないテリトリーを知られ、その扉を叩かれ、それに違和感を覚え、それまでの印象や交流そのものに大きな変化を生じさせてしまうことになる。極端な場合はそこでシャットアウトが生じることだってある。

僕が思うに、それは日本独特の村社会気質の表れであり、歴史を鑑みれば、日本独特と言われる縄文文化やアニミズムに由来する気質なんじゃないかなと思うのだ。

でもそれは日本人のアイデンティティとして僕は誇るべきものでもあるとも思うし、それを否定するつもりはない。

けれど、現代社会はグローバルという言葉が象徴するように、世界の距離は加速度的に縮まっている。
異文化との交流もものすごく盛んで激しく濃いものになっている。

その交流における能力、簡単に言えばコミュ力となるかもしれないけど、その部分で既に競争は始まっていて、そこで日本人のアイデンティティが足枷になったのでは、その先で「もったいない」思いをしてしまうと思うのだ。

じゃぁ日本人が異文化との交流が苦手かというと、僕は決してそうではないと思う。

心を開いて深く交流することは出来るし、その実績も歴史から学ぶことができる。

江戸時代に長く外国との交流を禁止されていた日本人だけど、いざ交流の瞬間が訪れた際には実に上手く対応出来ていたらしい。
だから、江戸時代にも異文化との交流で歴史に名を残した人は実に多い。
ジョン万次郎がその一人。
他にも大黒屋光太夫、最上徳内、川路聖謨、高田屋嘉平、さらには江戸時代中頃に四国沖で漂流したべニョブスキー一行を受け入れた土佐の領民達など、日本人のその「気質」を歴史が証明している。
明確にはされていないけど、日本書紀以前のずっと昔から特に日本海側では古くから大陸との交流は盛んに行われていたようだし、沖縄も同様に多方面との交流を上手くやってきた歴史がある。そうした文化交流が今の日本を築いているわけで、その根底にあるのはまず日本人のコミュ力があったからこそであり、その「センス」は現代に生きる僕たちも脈々と受け継いでいるはず。

今こそそれを開花させ、新たな一歩を踏み出すべき時じゃないかと思うのだ。



その助走というか、準備というか、その為のリハーサルというスタンスでの「異文化交流」のチャンスとして、僕は「障害者との交流」がある意味もっとも手身近で有効なものだと思うし、それを「共生社会」に向けた第一歩とするのが効率的ではないかと思うのだ。

村社会的内向きな思考は障害者の存在をネガティブに捉えていたようで、だから何かしらのフォローや協力を得られずに社会進出が出来ない、為されない障害者が数多く存在したのだと思う。

でもこれからはそういう時代ではなくなっていて、玄関から一歩も出なくてもネット社会への進出は誰でも容易く出来るし、そういう空間では障害者も健常者も変わりない同じスタンスで活動、情報発信できるから、そもそも障害者という存在はこれまでのものとは既に違ってきていると思う。

障害者に出来ること、まさに可能性は格段に大きくなっていて、でもそれと同時に背負う責任も大きくなっている訳で、それが意味することはズバリ社会人として存在する、出来るということだと思う。

ということは、この社会に健常者の持つ「普通」という感覚が同じではない、ある意味通じない、「普通」という価値観の異なる社会人が存在しているということ。

でもそれはちょっと勝手が違っているというだけの、ただ知らなかったからというだけの小さな違い。

言葉も通じれば、そもそも日本人としての感覚は同じなので、話も意思もお互いに伝えやすいし分かりやすいはず。

だからこそ、障害者が異文化とまでは言わないけれど、健常者から見て自分がそれまで知らなかったことに触れて、新しい価値観を知るという成功体験を得るにはもってこいの存在だと思うのだ。



そもそも、「共生社会」というのは何も障害者とだけに限ったことではないはず。

異文化とは全方位に様々なものが存在するし、人類のこの先においてはもしかしたら地球外生命体との交流もあるかもしれないし、ガンダムの世界のように人類がアースノイドとスペースノイドという2つに分かれるようなことだってあるかもしれないから。
地球内だけで考えてみても、人間以外の生命や自然環境との「共生社会」も直近の最重要課題だと思う。
ネット環境の劇的進化で、それを使いこなす世代とそうでない世代でもまたギャップが生じるかもしれないから、そこにもまた共生が必要となる。



なんか今回はめちゃくちゃ自論を語ってしまったなぁ(笑)

江戸川区のこの動画がきっかけを与えてくれたし、もしかしたら清々しい秋の空気がそうさせたのかもしれない(笑)

僕は政治家でも自治体職員でもなんでもなく、一人のパラ卓球選手であり、一人のIT関連企業のスタッフであるだけに過ぎない。

でも、そんな僕にも背負っているものがある。

それは誰でも同じこと。

それはパラ卓球選手として、会社の従業員としてだけではなく、生まれた町の出身者として、卒業した学校のOBとして、あの人の友人として、知り合いとして、あの人の教え子として、あの人の元彼として(笑)、そして、あの人たちの子として、家族として。

それを常に意識して、品行方正を心がけ、真摯に活動していく。

言ってるほど上手に出来ているとはお世辞にも言えないけれど、それを胸に留めた上で活動していく。



来月には待ちに待った試合がいよいよ開催される。

今はそこに照準を定めてしっかり取り組んでいこう。

実は試合前1か月のこのタイミングで、先日自宅近所でダイナミックに転んだ。

今までの車椅子人生で最も派手な転倒だった(笑)

バイクで転んだ時を思い出すかのような転倒だった。

幸い大事には至らず、その直後にはいつも通りに練習をやったのだけれど、そういう点でもしっかり気をつけていなければ元も子もない。

万全の状態で試合当日を迎えられるように取り組んでいく。

ラッキーも含め、未来の自分は今の自分が導くものだと思っている。

だから、今頑張っていこう。

まずはみなさん、江戸川区の動画をご覧ください(笑)