車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

「車椅子卓球」選手が「卓球」を学ぶということは

2020年11月20日 21時54分00秒 | 日記

最近あらためて思う。


「卓球」と「車椅子卓球」はやっぱりちょっと違うなぁ、と。


厳密に言えば「異なる」のではなく、「異なる部分がある」ということ。

「卓球」のスタンダードがそのまま「車椅子卓球」で通じるものでは必ずしもないのかもしれない、ということ。


先日も、コーチとゲーム練習をしていたのだけれど、それを見ていた方が「面白い!車椅子卓球ならではの戦術があるんですね!」と言ってくださった。

それは僕も痛感している。

単純に比較すれば、そりゃぁ「卓球」の方がよりパワフルでスピーディーで見応えがあると思う。

だけど、車椅子卓球に面白さを見出せる方というのは、余程の卓球好きと言えるのかもしれない(笑)


逆に、現時点での僕如き「車椅子卓球」の技術・戦術では、「卓球」には歯が立たない。ある程度以上のレベルに対しては・・・

だから、自分なりに「卓球」をやることになる。

それはそれですごく楽しいのだけれど。

でも、コーチが車椅子に座らずに自分のラケットで「普通」にプレーした際、笑いが出るくらいに内容が違えばスピードも違っている。

コーチが本気を出すと「こりゃダメだ」と格差を突きつけられるような印象(笑)

そもそも、打球のスピードも打点もコースも、技術も戦術の幅も全てが桁違いで、まずコースを予測してなきゃラケットにも当てられないし、予測できたとしても、分かっていても手の届かないコースを打ち抜かれることが実に多い(笑)

まず、フットワークを含めた身体能力の違いからくるパワー(スピードを含む)の差をあらためて感じるのだな。

いや、それ以前にそもそもレベルの違いが明確なのだけれど(笑)

でも全く通じないというわけでもない。車椅子だからこそのメリットもある。すっごくピンポイントな部分だけど。


そんな僕が車椅子選手として、「卓球」のベテラン選手、或いは有名選手から「卓球」を指導していただく機会は多くある。

それは何も僕に限ったことではない。全国様々な選手がそうした機会を生かし、多くを学び精進している。

けれど、指導いただくそれはあくまでも「卓球」であって、「車椅子卓球」ではないから、ただそれを鵜呑みにするのではなく、それを生かす為の自分自身の「一工夫」を加えなければ思うような成果、効果を得られないのでないか?と思うのだ。


じゃぁ「車椅子卓球」の指導者はいないの?となる。

その指導者がいれば簡単な話に思えるけれど、いやいや、実はそう簡単なことでもないのだな。

国内における車椅子卓球のベテラン選手はシニアの世代に達しても未だ現役で世界を舞台に活躍される方もいる。みなさん現役なのだ。だから、引退した選手が後進の育成に当たる、という時代をまだ迎えていない。

だからこそ逆に、日本における「車椅子卓球」のスタイルは構築できていない、ある意味まだ草創期と言える段階なのかもしれない。


であるから、車椅子卓球選手は必然的に「卓球」の指導を受けることになる。


だからこそ、指導を受ける側が理解を得るためにはまず自分の身体が「普通」とどう違うのか、限界がどこまであるのか、それを明確に伝えられなければならないし、その限界点は変化するのかしないものなのか、フィジカルの成長が可能なのか否か、その理解と伝達も欠かせないし、またその部分へのケアもより慎重をきたすものでもある。

それと同時に、指導者が選手に合わせて車椅子卓球を一緒に考える必要があると思うけど、その余裕のある指導者が果たしてどれくらいいるのだろう?

1人の指導者が複数の選手を同時に考えるなんているのは余程の専門家でもかなり厳しいことだと思うし、対象者が多くなればなるほど、その指導内容は浅いレベルになってしまうかもしれない。

逆に選手側がそれを指導者に求めるのであれば、それなりの対価を払わなければ、ボランティアでそれはあまりにも都合が良すぎる話だと思う。

余談になるけど、障害者だからってボランティアを当然と考えるのは社会人として僕は賛成しない。持ちつ持たれつ、「共生社会は『お互い様』」という言葉(北野大さん)もあるから。


「車椅子卓球」選手が「卓球」の指導を受ける。

それはもの凄くありがたいことだし間違いないこと、絶対プラスになることだと思うし、個人的には必要不可欠なことだと思っている。

でもそれは必ずしもそのままで良いものではなく、「車椅子卓球」に合わせたさらなる一工夫が必要になると思うのだ。

でもそれは自分で考えなければならない。

指導してくれる側にその工夫を求めるのはただ甘えてるだけだと思う。

そもそもその時点で、アスリート・マインドの欠如と思えるから。

指導を受けた「卓球」を「車椅子卓球」へと自らが昇華させなければならない。

だって、本人の障害を理解しているのは、いや、理解出来るのは、それこそ自分しかいないし、自分以上の理解者はいないのだから、「自分で考える」のが最も的確だと思うから。


僕は料理が好きだけど、車椅子プレーヤーにおける「卓球」と「車椅子卓球」の関係を例えるなら「与えられた食材に応じた調理をする必要がある」ということだと思う。


そのまま生で食べられるものもあるだろうし、皮を剥く必要のあるものだったり、水にさらしてアク抜きをする、或いは加熱の必要があるとか、素材によって様々なはず。

さらには、それが最も美味しく食べられる状態(温度等)もあるから、それが車椅子の自分にとってはどうなのか、何が必要でどこはそうでないのか、そうした取捨選択もある意味必要かもしれないし、そんな感じで「自分で考える」、「調理する」必要があるのが車椅子卓球だと思うのだ。


「卓球」をそのままやったのではなかなか上手くいかないのが「車椅子卓球」かもしれない。

だからといって「車椅子卓球」だけをやったのでは早いうちに限界を迎えると思う。

あくまでも基本は「卓球」。

それがベースにあってこその「車椅子卓球」であり、そのベースのレベルがそのまま全てにおけるレベルの高さになると思う。


おいおい、随分と偉そうなことを言うじゃないか(笑)


まぁ言うのは簡単なことだから(笑)


「卓球」を学ぶ。

これまでも「卓球」と「車椅子卓球」は別のものだと言う話は散々聞いてきた。

僕が健常者の技術を真似たいというと、「あれは健常者だから出来ることで、自分たちには無理だ」と否定(失笑)されたこともあれば、「健常者の頃の経験は逆に車椅子卓球で足を引っ張る」と言われたこともある。

でも僕はそれを否定してきたし、それは今も変わらない。

むしろアドバンテージだと胸を張っている。

現役のパラ選手にはもはや余程の奇跡でも起きない限り経験出来ないことなのだから。

おそらく「無理だ」と否定的に考える方々は、「卓球」と「車椅子卓球」を全く別の、それぞれが独立した円と円のように考えているのだと思う。

でも僕はそうではなく、それらは同一線上に存在するものと考えるし、さらにそれぞれの円は少なからず重なり合う部分があって、でも重なっていない部分もあって、その部分がそれぞれのオリジナリティだと思うのだな。


自分で考えられるのはまさに「卓球」というベースがあればこそだと思っている。

そのベースの厚みがそのまま思考の幅・厚さとなるはず。

だからこそ、考えることも楽しめるし、共通項をより多く見出せるはず。

何よりも、障害を負う自分をより高みへと磨いていけるバックボーンになると思うのだ。

脊髄損傷だけど(笑)


そんな感じで「卓球」を楽しめているけれど、今また世界は困難な状況を迎えている。

活動を制限されている国や地域もあるだろうし、日本、あるいは東京もいつまたそうなるか分からない。

それ以前に、自身がいつ感染するかの不安も大きい。

シーンに応じて出来る限りの注意と努力は怠らないようにするし、社会人としてそもそもの判断が求められる、ある意味自分を試される時だと思う。

なるときはなる、なんて開き直りたくはない。

とことん抗ってやる。


また胸を張って威風堂々と晴れやかに試合が出来る日を迎えたい。

その時まで、どのような時間を過ごすことになるか分からないけれど、静かに自分を磨いていこうと思う。

「卓球」を「車椅子卓球」へ昇華させる時間はより多く作れるかもいしれない。

でも、故障にも気をつけて取り組んでいなきゃいけないな。

こんな時だからこそ、過ごす時間の内容でいつも以上の差が生まれるように思う。

張本君や伊藤美誠さんを見ているとそう実感出来るから。


さぁ、頑張っていこう。


長谷川信彦さん

2020年11月14日 12時26分00秒 | 日記

僕が学生時代はあんまり意識しなかった方だけど、車椅子になってからの卓球人生では物凄く大きな影響を与えてくださっている。

要所要所の僕にとっては実に見事なタイミングで、誰かしらの口からその名が聞かれ、「あ!」と思わせられる。


先日もコーチとの練習の際に、ふとしたきっかけで新たな課題が見つかった。

それを自分のものにする為に何をどうすべきかというクリアへのルートは直ぐにイメージすることは出来たけれど、決して楽なものではないし一朝一夕でどうにかなることでもないから、それこそまさに継続という努力、言い換えれば「忍耐」となるのかな?それをまたアップデートしなければならないなと、そんな思いでいるまさにその時だった。


「長谷川信彦さんはさ・・・」


と、コーチの口からその名が出た。

このタイミングでその名を耳にしただけで、体温が上昇するような感じだった(笑)

あの世代、あの時代の方々の努力たるや、今の時代の僕如きの努力とは全く比べ物にならない、比較することすら烏滸がましいこと。

そうだ、僕ももっともっと頑張らなきゃ!と思わせられる。


その長谷川信彦さんの武勇伝を20代のコーチに話すと、「そんなことが出来るなんて・・・神じゃないですか!」と驚いていた。

そう、まさに神のレベル。

でもその神が誕生したのには間違いなく「努力」があるわけで、多分、持って生まれたセンスの違いは人よりもほんの少しだけ優れていたという程度でそこまで大きな差があったというものじゃなく、チャンピオンになり得るだけのアドバンテージは積み重ねた努力の差に違いない。

おそらく、チャンピオンというのは先天的な才によるものではなく後天性の本人の努力により得られるもの、辿り着ける高みなのだと思う。

長谷川信彦さんの「努力」の有名なエピソードは多々聞かれるし、僕はご本人を知る複数の方からもそうした感服する話を聞かせていただいている。


長谷川信彦さんもそうだけど、個人的には河野満さんもすごく尊敬している。

河野満さんは一度お会いして写真も撮らせていただいたし(笑)

同じ表ソフトだからとかそういうレベルの話ではなく、まさに神格化した存在。


世界中のどんな選手よりも、僕はやっぱり日本人のこの世代の方々に特に強い尊敬の念を抱くなぁ。

それこそ、日本特有?の「根性論」全盛期の世代であり、スポーツにおける科学的なデータもまだまだ少なかった時代だから、練習においてもトレーニングにおいても根性優先のオリジナルメニューを考え、でも理論的に頭脳も駆使して、頭と身体をどれだけ高みに持っていけるか、それを日常全般においても意識し、行動しておられたのだと思う。

そして、きっとその根幹にはきっと日本人としての「武士道精神」があったのだと思う。

それが話に聞くプレースタイルにも現れていると感じるから。


自分の新たな課題に取り組もうとすることが、もはや楽しみでしかない。

例えば、筋トレをしっかりやっていきます!といったところで、筋トレそのものが辛いことだったりもするけど、それを行う時間を作ることで何かを犠牲にしなければならないかもしれない。コストをかければその分何かを犠牲にする必要があるかもしれない。

でも、その課題を克服し、自分のものに出来たことを思うと、もう楽しみで仕方がない。

だから、努力することを楽しめる。

それが苦ではなくなる。

その道を示してくれるのが長谷川信彦さんや河野満さんなんだなぁ。


楽しみがまたひとつ増えて嬉しい。

それを楽しめる自分がまた嬉しい。

それは日本卓球の偉大なる先人たちの軌跡を、僕らは学べるから。

賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ。

まさにそれだな。

いや、お世辞にも賢者とは言えないけど(笑)


さぁ、アップデートを重ねよう。

見つかった脆弱性はすぐに修正しないと、そこを攻められて大変なことになる。

そのアップデートがいつ完了するかな?

多分、緩やかに構築されていくものだから、その変化を確認しながらとなるのでしょうね。

それが楽しみで仕方ない。

最初の段階で手応えがあったから諦めずに挑めるのだと思うし、その手応えを得られたのはまさにこれまでの積み重ねがあったからこそ。

そんな自分を楽しむのだな(笑)


これからの季節、練習中も必ずマスク着用で行うようにします。

さぁ、練習に行こうっと。


久々のラン

2020年11月07日 00時40分00秒 | 日記

思いつきで、久々に走る。


と言っても6.2kmだけ。


今回は自宅の近所を。隣の駅までぐるっと遠回りして走る。

信号待ちも思いの外少なく、約2km付近で買い物した以外は止まることはなかったけれど、スタミナを含め、腕・肩・背中は以前にまして余裕がある。

これはフィジカルの成長か、はたまた車椅子の恩恵なのかは分からないけれど、以前に比べて成長を実感することが出来たから、それなりに満足のいく結果だった。

ぶっちゃけ、車椅子は自転車と同じでタイヤを回して走るから、自分の足で走るのとは身体への負荷が全然違う。路面やコースにもよるけど、同じ距離でも普通に走るよりは楽だと思う。


今日のコース、徹底的と言えるほどフラットなエリアなので走りやすい?かというと、実は必ずしもそうではない。

幅の広い歩道は快適に走れる。

がしかし、昭和の頃からあるような狭い歩道だったり、歩道のない路側帯なんかはやっぱりしんどい。

移動そのものがしんどいのだな。

自宅近所がそんな環境であれば、そのハードルを超えるにはそれ相当の努力を要するだろうし、であれば自宅で過ごす、ひとりでは外出しないと判断をする人も少なくはないように思う。


では、まず狭い歩道。結構「怖い」のだ。そもそも、そうした歩道はフラットではない部分がかなり多い。路面が傾いているということ。で、狭いから、走行ラインに余裕がない。だから、その唯一のラインを外さないように注意して、片手はブレーキを当てながら片手は漕ぎ続ける、斜めの道を片手だけで漕ぎ進む、なんてことになる。しかも斜めの状態、体幹のない身体で体を傾けながらそうした運動をすることはかなりの負荷がかかる。

また、自転車やベビーカーとすれ違う幅はないので、どこかで離合のタイミングを図る必要がある。後方からの自転車等の接近もチェックを繰り返す必要もある。


そして、そうした歩道こそ、車道との段差やそこから登る傾斜角も高い。

さらに、舗装そのものが荒れているので、キャスター(小さな前輪)を取られてしまう。

そこに躓いたりしないように路面をしっかり見ながら、街路樹の植え込みやら道路標識のポールなどに接触しないようにより注意しながらの走行になる。

ちなみに、建物の基礎コンクリートと標識のポールでギリギリの幅の歩道をすり抜ける際、左手に装着しているアップルウォッチをカチッと擦ってしまった(笑)

さらに、1箇所だけ、車が止まっていて歩道を走れず、一度車道に降りるということがあった。その際の降りる段差がまた怖かったりもする。1人じゃ出来ない人も少なくはないだろうなという箇所だった。


路側帯の走行がまたしんどい。

日本は雨の多い気候なので、道路は蒲鉾型になっているから、左側を走行する際、車椅子は左に傾くことになる。右側であれば右側へ。先の歩道と同じ。

その状態で真っ直ぐ走るとなると、左側へ「流れない」ようにする為に、右手は常にブレーキをかけた状態で、左手だけで漕ぎ進む形になる。もちろん身体は傾いた状態で。それが数百m続く箇所がある。だから左手だけ疲れてくるし、奪われるスタミナも格段に大きくなる。それが最大の難所(笑)


普通に歩いていたり自転車やバイク、車であれば尚のこと、その程度の角度が気になることは無いと思う。だからそのしんどさって実感が湧かないかもしれない。

サーキットだとニュルブルクリンクのカルッセルとかツインリンクもてぎのオーバルコースとか、競輪のトラックにしても、カーブに傾斜が付いているけど(あれはカーブで遠心力が働くからちょっと違う)、例えるならあの角度が直線でずっと続いている感じ。

遠心力がない状態でバランスを保つようにしながら真っ直ぐ走るということ。

想像つくかな?(笑)

単純に危険な道になるし、一般道ではあり得ない構造だと思う。

だけど僕らの目線ではそれが日常に存在しているのだな。

そもそも、日常用の車椅子で、しかも普通の人が遠心力を働かせるようなスピードを出すなんてとてもじゃない(笑)

チェアウォーカーにとってのその大変さを少しでも理解してもらえたらと思う。


ちなみに、舗装も古いから荒れていて、キャスターをすぐに取られてしまうから、後続車に注意しながら走行ラインを選んでいく。

マンホールとか何かしらの凹凸や段差も意外とシビアな影響を受けるのだ。

そういう箇所を走る時にいつも思う。「真ん中が走れたら楽なのに」と(笑)


「キャスターを取られる」と書いたけど、でもそれは個人差というか車椅子にもよるので、パーツの交換である程度はクリアできる問題でもある。

僕のキャスターはちょっと小さめ。というのは運動性能を高めたかったから。特別小さなものではないけど、大きなものでもない。

大きなものだともう少し楽に走れるはずだし、ダンパー入りのものもあるから、そういうパーツを使用すればもっと快適に走れる。

さらにはキャスターの素材や形状でも全然違ってくるので、その人の身体能力や用途に応じて選択する幅がある。

僕は自分の判断で快適さを捨てて運動性能を選んだ結果だから自己責任。

車で例えるなら、足回りをサーキット走行に合わせてガチガチに固めて、その結果街乗りは最悪・・・みたいな感じかな(笑)

でも斜めの路面はどうしようもない。


あとは段差。これは改めて思った。やっぱり怖い。

段差を超える際、キャスター上げ(ウイリー)をするのだけれど、走ったそのままの勢いでそれをやるのは危険なので、一度減速をしてから行い、それから傾斜を登る為に、加速する為にトルクをかけるけど、そこもまた負荷がかかる。燃費の悪い運転(笑)当然ながらそれは面倒になるし、またそこで多少の時間を要することになるので周囲への迷惑も気になる。

まぁ多少の負荷は僕にとって都合良かったりもするのだけれど(笑)


ちなみに、そのままの勢いで段差に突っ込んでキャスターが引っかかってしまった場合、間違いなく前に転倒する。車椅子から落ちてしまう。クッションにもよるけれど、大半の人はフラットな座面で柔らかいクッションを使用しているから、それ故に安定性という点では低くなってしまうので、前への衝撃があった場合簡単に「ズルッ」とお尻が滑るように前にずれる。と同時に身体が前に倒れる。結果的に膝から落ちるような感じにもなる。体験談(笑)

身体だけが倒れた場合であれば、手をついて転倒を免れることは出来るけど、それはその時の運次第かもしれない。少しでも前に傾斜があればアウトだと思う。


こんなことを書くとチェアウォーカーの外出がいかに困難なことかとアピールしているように思われるかもしれないけれど、決してそうではない。

ただ、リアルなチェアウォーカーとして、その目線で情報発信をしたいだけ。

だからこその気付きがあるはずだから。


時を戻そう(笑)


今日の久々のランは良かった。楽しかった。

皇居とかゲートブリッジとか、また走りたいと思う。

都内を車で走っていても「あ、ここ良いな(走るのに)」と思う道も度々ある。

そう思えるの自分になれたことを嬉しく思う。

「新しいことにチャレンジしたい」という思いは誰でも成功したいからであり、その自信があるからこそだと思う。

自分をそういうところへ持っていけた、成長させることが出来たというのが一番の自信になるんだな。いわゆる成功体験というやつだ。

今日の6.2kmのコース、決めて走ったものではなく、その時の思いつきで走った結果その距離になったというだけの話。

体力面で余裕があったから「じゃぁあっちまで行くか」とか、「走りやすい道を」と遠回りしてみたのだ。

駅前なんて、横断歩道を直進しようとしたら赤信号になったので、「それなら」と横断歩道を避けてコの字型にロータリーを走り、結局は信号待ちした時と同じくらいか少し早いくらいのタイミングで駅前を駆け抜けたのでした。

これもまた成功体験(笑)

楽しいランでした。


余談だけど、この時のウェアは契約メーカーから提供いただいているお気に入りのパーカでした。長袖です。

5kmくらいの時点で、信号待ちで水を飲んだ際、両腕前腕がタイヤに擦れて黒く汚れているのに気づいたのでした。

その場ですぐに脱いでTシャツで走ると、前腕がタイヤに接することはほぼないので、長袖を着用する場合はそれを踏まえた上でウェアを考えないといかんなと思いました。

帰宅後、その汚れの部分に洗剤を揉み込んだ上で速攻洗濯機を回すことに。

大丈夫、汚れは残りませんでした(笑)


体の動きそのものが違うから、使う筋肉もやはりいつもの卓球とは異なるので、調子に乗って走ってると僕にとっては良くない事になりかねないから、そこは注意しなければならない。


スポーツの秋、良いですね。

身体を動かし、適切な食事を美味しく取り、そして質の高い睡眠を得る。

幸せの秋だ(笑)


そしてまたいつもの練習とトレーニングに励む。


早く試合がしたい・・・(笑)