最近あらためて思う。
「卓球」と「車椅子卓球」はやっぱりちょっと違うなぁ、と。
厳密に言えば「異なる」のではなく、「異なる部分がある」ということ。
「卓球」のスタンダードがそのまま「車椅子卓球」で通じるものでは必ずしもないのかもしれない、ということ。
先日も、コーチとゲーム練習をしていたのだけれど、それを見ていた方が「面白い!車椅子卓球ならではの戦術があるんですね!」と言ってくださった。
それは僕も痛感している。
単純に比較すれば、そりゃぁ「卓球」の方がよりパワフルでスピーディーで見応えがあると思う。
だけど、車椅子卓球に面白さを見出せる方というのは、余程の卓球好きと言えるのかもしれない(笑)
逆に、現時点での僕如き「車椅子卓球」の技術・戦術では、「卓球」には歯が立たない。ある程度以上のレベルに対しては・・・
だから、自分なりに「卓球」をやることになる。
それはそれですごく楽しいのだけれど。
でも、コーチが車椅子に座らずに自分のラケットで「普通」にプレーした際、笑いが出るくらいに内容が違えばスピードも違っている。
コーチが本気を出すと「こりゃダメだ」と格差を突きつけられるような印象(笑)
そもそも、打球のスピードも打点もコースも、技術も戦術の幅も全てが桁違いで、まずコースを予測してなきゃラケットにも当てられないし、予測できたとしても、分かっていても手の届かないコースを打ち抜かれることが実に多い(笑)
まず、フットワークを含めた身体能力の違いからくるパワー(スピードを含む)の差をあらためて感じるのだな。
いや、それ以前にそもそもレベルの違いが明確なのだけれど(笑)
でも全く通じないというわけでもない。車椅子だからこそのメリットもある。すっごくピンポイントな部分だけど。
そんな僕が車椅子選手として、「卓球」のベテラン選手、或いは有名選手から「卓球」を指導していただく機会は多くある。
それは何も僕に限ったことではない。全国様々な選手がそうした機会を生かし、多くを学び精進している。
けれど、指導いただくそれはあくまでも「卓球」であって、「車椅子卓球」ではないから、ただそれを鵜呑みにするのではなく、それを生かす為の自分自身の「一工夫」を加えなければ思うような成果、効果を得られないのでないか?と思うのだ。
じゃぁ「車椅子卓球」の指導者はいないの?となる。
その指導者がいれば簡単な話に思えるけれど、いやいや、実はそう簡単なことでもないのだな。
国内における車椅子卓球のベテラン選手はシニアの世代に達しても未だ現役で世界を舞台に活躍される方もいる。みなさん現役なのだ。だから、引退した選手が後進の育成に当たる、という時代をまだ迎えていない。
だからこそ逆に、日本における「車椅子卓球」のスタイルは構築できていない、ある意味まだ草創期と言える段階なのかもしれない。
であるから、車椅子卓球選手は必然的に「卓球」の指導を受けることになる。
だからこそ、指導を受ける側が理解を得るためにはまず自分の身体が「普通」とどう違うのか、限界がどこまであるのか、それを明確に伝えられなければならないし、その限界点は変化するのかしないものなのか、フィジカルの成長が可能なのか否か、その理解と伝達も欠かせないし、またその部分へのケアもより慎重をきたすものでもある。
それと同時に、指導者が選手に合わせて車椅子卓球を一緒に考える必要があると思うけど、その余裕のある指導者が果たしてどれくらいいるのだろう?
1人の指導者が複数の選手を同時に考えるなんているのは余程の専門家でもかなり厳しいことだと思うし、対象者が多くなればなるほど、その指導内容は浅いレベルになってしまうかもしれない。
逆に選手側がそれを指導者に求めるのであれば、それなりの対価を払わなければ、ボランティアでそれはあまりにも都合が良すぎる話だと思う。
余談になるけど、障害者だからってボランティアを当然と考えるのは社会人として僕は賛成しない。持ちつ持たれつ、「共生社会は『お互い様』」という言葉(北野大さん)もあるから。
「車椅子卓球」選手が「卓球」の指導を受ける。
それはもの凄くありがたいことだし間違いないこと、絶対プラスになることだと思うし、個人的には必要不可欠なことだと思っている。
でもそれは必ずしもそのままで良いものではなく、「車椅子卓球」に合わせたさらなる一工夫が必要になると思うのだ。
でもそれは自分で考えなければならない。
指導してくれる側にその工夫を求めるのはただ甘えてるだけだと思う。
そもそもその時点で、アスリート・マインドの欠如と思えるから。
指導を受けた「卓球」を「車椅子卓球」へと自らが昇華させなければならない。
だって、本人の障害を理解しているのは、いや、理解出来るのは、それこそ自分しかいないし、自分以上の理解者はいないのだから、「自分で考える」のが最も的確だと思うから。
僕は料理が好きだけど、車椅子プレーヤーにおける「卓球」と「車椅子卓球」の関係を例えるなら「与えられた食材に応じた調理をする必要がある」ということだと思う。
そのまま生で食べられるものもあるだろうし、皮を剥く必要のあるものだったり、水にさらしてアク抜きをする、或いは加熱の必要があるとか、素材によって様々なはず。
さらには、それが最も美味しく食べられる状態(温度等)もあるから、それが車椅子の自分にとってはどうなのか、何が必要でどこはそうでないのか、そうした取捨選択もある意味必要かもしれないし、そんな感じで「自分で考える」、「調理する」必要があるのが車椅子卓球だと思うのだ。
「卓球」をそのままやったのではなかなか上手くいかないのが「車椅子卓球」かもしれない。
だからといって「車椅子卓球」だけをやったのでは早いうちに限界を迎えると思う。
あくまでも基本は「卓球」。
それがベースにあってこその「車椅子卓球」であり、そのベースのレベルがそのまま全てにおけるレベルの高さになると思う。
おいおい、随分と偉そうなことを言うじゃないか(笑)
まぁ言うのは簡単なことだから(笑)
「卓球」を学ぶ。
これまでも「卓球」と「車椅子卓球」は別のものだと言う話は散々聞いてきた。
僕が健常者の技術を真似たいというと、「あれは健常者だから出来ることで、自分たちには無理だ」と否定(失笑)されたこともあれば、「健常者の頃の経験は逆に車椅子卓球で足を引っ張る」と言われたこともある。
でも僕はそれを否定してきたし、それは今も変わらない。
むしろアドバンテージだと胸を張っている。
現役のパラ選手にはもはや余程の奇跡でも起きない限り経験出来ないことなのだから。
おそらく「無理だ」と否定的に考える方々は、「卓球」と「車椅子卓球」を全く別の、それぞれが独立した円と円のように考えているのだと思う。
でも僕はそうではなく、それらは同一線上に存在するものと考えるし、さらにそれぞれの円は少なからず重なり合う部分があって、でも重なっていない部分もあって、その部分がそれぞれのオリジナリティだと思うのだな。
自分で考えられるのはまさに「卓球」というベースがあればこそだと思っている。
そのベースの厚みがそのまま思考の幅・厚さとなるはず。
だからこそ、考えることも楽しめるし、共通項をより多く見出せるはず。
何よりも、障害を負う自分をより高みへと磨いていけるバックボーンになると思うのだ。
脊髄損傷だけど(笑)
そんな感じで「卓球」を楽しめているけれど、今また世界は困難な状況を迎えている。
活動を制限されている国や地域もあるだろうし、日本、あるいは東京もいつまたそうなるか分からない。
それ以前に、自身がいつ感染するかの不安も大きい。
シーンに応じて出来る限りの注意と努力は怠らないようにするし、社会人としてそもそもの判断が求められる、ある意味自分を試される時だと思う。
なるときはなる、なんて開き直りたくはない。
とことん抗ってやる。
また胸を張って威風堂々と晴れやかに試合が出来る日を迎えたい。
その時まで、どのような時間を過ごすことになるか分からないけれど、静かに自分を磨いていこうと思う。
「卓球」を「車椅子卓球」へ昇華させる時間はより多く作れるかもいしれない。
でも、故障にも気をつけて取り組んでいなきゃいけないな。
こんな時だからこそ、過ごす時間の内容でいつも以上の差が生まれるように思う。
張本君や伊藤美誠さんを見ているとそう実感出来るから。
さぁ、頑張っていこう。