車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

練習内容も時間も人それぞれ。

2020年08月14日 13時40分31秒 | 日記
車椅子で卓球を始めた当初から度々聞かれることがある。

「週にどれくらい練習してるんですか?」
「何時間くらい練習してるんですか?」

聞かれるたびにいつも思う。

「大切なのは時間ではなくてその内容、質の高さだと思います」と。

でも口にはしない。心の中のつぶやき。今こうして言っちゃったけど(笑)

特に高校生の頃、僕を含め周囲のみんなで「勉強を何時間やった」と競うように言い合っていたのをよく覚えている。

でもいつの頃からか「時間ではなく質」と考えるようになった。

おそらく、仕事に就いた時にそう考えるようになったのだと思う。

僕の場合、何にしても満足度を質の高さに求めるのだと思う。

でも全ての人がそうではなくて、時間の長さで満足度を得られる人も少なくないように思うから。

それは人それぞれの価値観の違いであって、そこに是非を問うつもりもない。



ただ、競技活動を行っていく上では、より高い質のトレーニングを、より長時間行うに越したことはない。

ただしそこで注意すべきはコンディションの維持で、ただやり続けるだけでは身体に支障を起こしかねないし、それはメンタル面におけるマイナスにも直結するだろうから、極論はその限界点ギリギリの範囲でトレーニングを行い、また行える身体づくりを行うことでその限界点の向上に努め、さらには健全に活動を続けていく為の心と身体のケアも行っていかなければならないということ。

というのは理想論であり、フィジカルもメンタルも個人差が広くあるし、またそれは物理的に明確に表せるものでもないから、一概にどういったメニューを何時間と言えるものではない。

だからこそ、常に暗中模索といった具合で取り組むことになるのだけれど、そこに光を差し込ませる存在が指導者となるわけで、それこそ指導者の「クオリティ」によって差し込む光の大きさ、眩さが異なるのだと思う。



僕はこれまで徹底してクオリティを求めていた。

でもその「クオリティ」というものの考え方が少し偏っていたことに気づいた。

ある意味、発想の転換が出来るようになったのかもしれない。

そこに自分自身の成長を実感できる。

自画自賛(笑)



全てにおいて、妥協は良い結果を生まないと考える。

一生懸命に取り組むからこそなのだ。

そして、質の高さは相手に求めるものではなく、自分で考えて行うことで結果的に高めることの出来るものなのだと思う。

これまでの経験からもそうだと確信出来るではないか。

ただし、自己満足で終わらせてはいけない。

絶えず良い意味で人と比較し、他者の意見や考えに耳を傾け、そうしたうえで自分を磨いていかなければならない。

そうやって自分を高めていきたい。



がしかし、今のこのコロナ禍では他者との交流は危ぶまれる。

試合はもちろん、どこか他県への練習すら行くことは出来ない。

いや、物理的には行けるのだけれど、今はそうすべき時ではないと考える。

自分の生活圏以外の方との交流は極力控えるべきと思うので、本当はいろんな方と打ちたいなぁ、練習したいなぁと思うけれど、まさに我慢の時なんだな。

でもだからこそ、今やるべきことがあると思うし、今こそしっかり積み重ねる時なのだ。

その積み重ねる高さはクオリティで変わってくるはず。

先の自分を悲しませない為にも、後悔させない為にも、今しっかりと頑張らなければならない。



さぁ、しっかり頑張っていこう。

ただ時間の長さで自分を納得させるのではなく、質の高さで満足のいく取り組みを行っていこう。

毎日の練習では窓から吹き抜ける風や空調からの風によるボールの変化を常に感じていて、そこに多少のストレスがあったりもするけど、それもまた今だからこそのもので、この経験もまた先の自分の財産となるはず。

ゲーム練習をやる時なんかは敢えて空調を切ったりもするけど、すると室温も湿度も一気に上がるのが分かり、それはそれで現代ではまたレアな環境なのだけれど、個人的には学生時代の部活の練習を思い出せて楽しめてもいる。

まだまだ先は見えない。

けれど、立ち止まっている時間はない。

自分を裏切らない。